フェートン号事件の世界的背景と関連人物の全貌を解明しました。全て史実に基づく物語です。どの章からでもお読みください。  石橋正明

1808年(文化5年)の8月、オランダ船に偽装した英軍艦フェートン号が突如として長崎港に出現し、出迎えたオランダ商館員を拉致した。常時待機しているはずの一千人の警護陣はもぬけの殻で、長崎奉行松平図書頭は薪水食糧を補給するも三日後には切歯扼腕したまま英艦の出航を見送る羽目となり、切腹により全責任を負った。幕府をはじめ、当時の日本を揺るがした大事件だが、今は幕末以前の小事件として歴史教科書には一行触れられる程度の扱いである。

長崎生まれの私は、偶然からフェートン号の航海日誌が実在することを知り、その複写を入手してから早くも40年が経過した。その間の(特にここ20年の)インターネットの登場による情報革命の進展はすさまじく、あらゆる資料がネット上で探索できる世界が生まれた。そうした探索から見えてきたのは、当時の世界が早くもグローバル化し、ナポレオンを中心軸とした世界戦争の渦の中に長崎が引きずり込まれた、ということだった。

フェートン号はなぜ長崎を急襲したのか。艦長ペリューとは何者なのか。几帳面な航海日誌の記述者スコッツデールとは誰か。英艦の出現によりオランダ商館長(甲比丹)ドゥーフが絶体絶命の危機に追い込まれたのはなぜか。事件をさかのぼる9年前、初めてドゥーフが出島に着任した時に見た驚くべき荒廃は何だったのか。島津重豪公の名が密貿易の陰謀とともに語られるのはなぜか。ある甲比丹はなぜ死んだのか。アメリカの快男児スチュワートがなぜ何度も長崎に渡航できたのか。彼の生涯はどうなったか。ドゥーフがオランダ政府から最高勲章を授与された功績は何か。事件の数年後にジャワを制圧したイギリスの副総督としてジャカルタにいたラッフルズ(今はシンガポール建国の父、とも称される)がドゥーフと激しく対決したのはなぜか。ラッフルズがドゥーフへ送った驚くべき使者は誰であったか。しかし、ラッフルズもドゥーフも、等しく故国に帰り着いた時は無一文だったのはなぜか。

その解明がすべて出来たのも情報革命の成果である。

フェートン号出現から33年もさかのぼる1775年、マサチュ-セッツ植民地のレキシントンで発射された1発の銃弾でアメリカ独立戦争の火ぶたが切られ、その衝撃波は1789年フランス革命を誘発し、立憲君主制の穏健派から「世界のすべての国王に死を」と叫ぶ急進派へと目まぐるしく変転する革命の歯車が多くの人士をギロチンに送った荒野に、若き野戦軍指揮官ナポレオンが国民的ヒーローとしてフランスを統率し、ヨーロッパは全土が戦乱の地と化していった。その戦いの炎はエジプト、インド、インド洋からジャワ海までを巻き込み、ついにはその余波が長崎に到達したのである。

私は、フェートン号出航に始まる長い物語を、実はそれに何年も先立つエピソードも含むのだが、資料に基づき一切のフィクションを排して、掘り起こしていこうと思う。多種多様な登場人物たちの意図や心の動きを推理推測することはあっても、フィクションは交えない。事実だけで歴史を語ることが可能な時代になったからだ。

いま(2017年3月)、インターネットとデジタルコミュニケーションの技術によりこれまでは入手できなかった資料、調査研究、史料へのアクセスがかつてとは比べ物にならないほど容易になって来始めた。人々の交流を劇的に変化させたフェイスブックをはじめとするソーシャルメディアだけが目立っているが、歴史資料探索の世界も革命的な変化を遂げた。その変化は今も進行中であり、その変化の速度はさらに指数関数的に増大するだろう。この物語ではこの変化のもたらした果実、すなわちこれまで知られていなかった新しい発見をすべてオープンにしていきたい。史料の中には図版も含まれる。自分のデスクトップでこれらの図版を発見し、ダウンロードすることで我々はより正確に当時の風俗や生活を追体験できるようになっている。したがって、この物語の中では出来る限り多くの図版を活用して、歴史的事実を視覚的にも体感出来る様に工夫していくつもりである。

この長い物語を語り終えるのにどれほどの時間がかかるだろうか? 執筆中に新しい史料が次々に現れてくることも十分に考えられる。私が生きている間は新発見やそれに伴う記述の修正が起こるかもしれない。それを承知でお付き合いいただけたら幸いである。

なお、実際の「フェートン号の航海日誌」とその英文、和訳、その他の多くの資料は『フェートン号事件記念館』というサイトで公開しているので、下の欄外のリンクをクリックしてご訪問いただきたい。

次章 1マドラスからの出航 へ

フェートン号事件の世界的背景と関連人物の全貌を解明しました。全て史実に基づく物語です。どの章からでもお読みください。  石橋正明」への3件のフィードバック

  1. こんにちは。
    私は、その当時の出島経由の輸出漆器を調べてて、
    辿り着きました。一つの事だけを調べていると、
    視点が偏りがちになるので、様々な角度から
    見せてくれるこういうサイトは為になります。
    有難うございます。
    最後まで楽しみにしています。

  2. 松尾清貴氏の小説「ちえもん」を読み、村井喜右衛門が知恵と工夫を凝らして沈船の引揚に成功したことに感銘を受け、当時の引揚げの技術的側面の検討を志している者です。沈船の基本情報としてEliza号の諸元を調べようとwebを探査中に貴サイトに出会い、15.スチュアートの登場を興味深く読ませていただいています。
    この中で、「グーレイ教授の”A CAMEL”によると・・スチュアートの船は二本マストの小型なbrig船であった」と書かれており、蛮喜和合楽の大帆柱三本との記述と相違があります。これに関しては、米国船であるEliza号についての情報は米国人のグーレイ教授のほうが正確であると考えます。
    彼の論文中のEliza号の情報をどこで得たのか知りたく、論文本文を得ようとwebを検索するも探しきれず、またグーレイ教授はすでに逝去されたようでコンタクトできません。 お手数ですが、論文本文の入手先をお教え願えないでしょうか。また、Eliza号についての情報をお持ちなら教えていただけませんでしょうか。 よろしくお願いいたします。
     

    1. 松尾様、サイトの閲覧、ありがとうございます。おっしゃる通り、イライザ号の船体サイズについてグーレイ教授の論考と蛮喜和合楽の記述とでは、マストの数船体サイズその他食い違いが多く、私も結論が出ておりません。スチュワートの状況から考えるとグーレイ教授の説が正しいかとも思えるのですが、蛮喜和合楽にある実際に引き揚げた際の実寸計測が正しいかとも思えるのです。日本人の作業は極めて正確だと思いますし、船体に銅張りが施されていたという記述からも、グーレイ教授の推論より大型でちゃんとした?船だったのでは、という思いもあります。グーレイ教授の論考はもうネットでは見つからなくなりましたね。貴兄の研究に敬意を表して、メールで送らせていただきます。もし研究が進んで結論が出るようでしたら、ぜひ私にも教えてください。なお、スチュワートに関しては今日「18 スチュワート再び」の章をアップロードしたので、よろしかったらご覧ください。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です