15 スチュアートの登場

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ドゥーフが来日して出島の惨状を見てバタビア(ジャカルタ)にとって帰り、翌1800年新商館長のワルデナールを伴って再び日本の土を踏んだ時(「9章 陰謀渦巻く出島へ」)、この物語にとって非常に異色の光彩を放つ男が登場した。 William Robert Stewart ウイリアム・ロバート・スチュワート、アメリカ人である。スチュワートは成立したばかりのアメリカ合衆国という「新世界」を体現するような、国境や既成の権威枠を超えてこの物語の世界を股にかけて自在勝手に動きまわる悪漢であり、冒険者であり、人たらしのペテン師である。まさにピカレスクと言える他に比類のない独特のキャラクターであり、私がこの物語を展開しようと考えた動機の一つにはこのスチュワートを紹介したいという思いがあったからである。この物語に登場する唯一の快男児(怪男児!)としての存在のユニークさ。彼はドゥーフたち出島のオランダ人をさんざん困惑させるのだが、それだけではない。彼が一連の冒険で得た知識がフェートン号の作戦行動に大いに影響を及ぼした可能性が高いのだ。

スチュワートが二度目に長崎に来航した1798年、バタビアへ向けて帰航時に出港時に船を沈没させてしまい、翌年奇跡的な引き揚げが実現するまで奉行の監視下で通詞に囲まれて生活したときに通詞たちの間で人気者だったと言われているが、日本では彼についての資料は極めて少ない。江戸幕府に提出されたオランダ商館長の公文書である和蘭風説書(『和蘭風説書集成 四』日蘭学会編)、商館長が記録した秘密日記(『長崎オランダ商館日記』日蘭学会編)また商館長ドゥーフがオランダ帰国後に記した回想録(『Recollection of Japan』)に登場するくらいで、日本の古文書の中ではほとんど言及されていない。長崎のオランダ商館長ワルデナールとドゥーフはスチュワートに散々翻弄されたが、2人ともスチュワートがアメリカ人を名乗ったイギリス人であると信じ込んでいた。日本の研究家もその説に立つ人が多い。ところがアメリカの東洋史研究者の中にこのスチュワートについて徹底的に調べて論文を発表した人がいた。私はその論文をたまたまネットで発見したのだがこれは大変な幸運だった。ハーバードで歴史学のPhdを取得してミシガン州立大学で長く歴史学部の教授を務め、2013年に亡くなったWalter Gourlay と言う人がいる。彼が2008年ASPACの大会(ビクトリア大学、カナダ)で発表した”A Camel for the Shogun” (『将軍に駱駝を贈ろうとした男』=私の意訳タイトル。以下“A Camel”と略す)と言う論文でスチュワートの一生を詳説している。グーレイ教授の論文はスチュワートが長崎に出現する前のビジネスパートナーであったAmasa Delanoアマサ・デラノの手記や、長崎でスチュワートと出会ったアメリカ船マサチューセッツ号の乗組員George Clevelandジョージ・クリーブランドの日記、さらに当時長崎で商館長代理をしていたLeopord Rasレオポルド・ラスの日記等を元にしてこの論文を構成している。いわば日本側(特に私)としては極めて手に入れにくい資料をもとに構成してくれた非常にありがたい論文である。アメリカの史学会では日本や清が西洋社会に門戸を開かされた時期に活躍したアメリカ人の研究が活発なようで、グーレイ教授はそのような研究資料も活用したようである。

スチュワートの人生を長崎出現前と長崎出現後に分けると、長崎出現前においても極めて冒険とミステリーに満ちた人生であったが、それをここで紹介すると煩雑になるので、まずは長崎に現れた時のスチュワートについて語り、その後で長崎出現前の歩みと彼の晩年について紹介することとする。

1795年ナポレオンの弟ルイを国王にしたオランダ共和国が成立したことでオランダはイギリスの敵国となり、オランダ船の航行はイギリス軍艦の格好の餌食となることになった。そのためオランダ東インド会社の貿易船(オランダ、イギリス、フランス、スエーデン、デンマークなど各国が設立した東インド会社の商船はIndiamanと呼ばれた)はアジアへの航海が不可能となり、1795年を最後に1796年は1隻も長崎に来ることが出来なかった。バタヴィア(ジャカルタ)を拠点とするオランダ東インド会社は長崎貿易を維持するために第3国の船舶を利用することを考えついた。当時アメリカはナポレオン戦争で中立を宣言しており、またアメリカの商船もナポレオン戦争の影響を受けて大西洋を舞台にした貿易活動に困難をきたしていた(長崎の海洋史家である松竹秀雄氏の『フェートン号事件と19世紀初頭の海運情勢』によると“アメリカ商船で1812年までにイギリスに掌捕された船舶917隻,フラソスに捕獲されたのが558隻といわれる”とのことだ)ためアジアへ目を向けていた。そのような背景の中、まさに忽然とバタビア(ジャカルタ)に現れたのがスチュワートの船である。 

このスチュワートの出現はバタヴィアにとってまさに文字通り渡りに船であった。ニューヨークは元オランダ領でニューアムステルダムと言う名前だったことからわかるようにオランダの影響が長く(現在も例えばハーレムと言う地区はオランダのハールレムが語源である)ニューヨーク出身であるスチュワートはオランダ語が流暢だったはずなのだ。というのもこの時期、ニューヨークではいまだにオランダ語も通用していたからだ。後にスチュワートに初めて会った時に、ドゥーフは彼がオランダ語をよく理解すると書き留めている(自伝)。スチュワートの船なら航海中はアメリカ国旗を掲げ、長崎入港前にオランダ国旗を掲揚する。こうすることで航海中に英艦の臨検を受けることがあっても安全を確保できるというわけだ。

オランダ人たちはスチュワートの船Eliza of New Yorkイライザオブニューヨークをオランダ船に仕立てるために徹底的な教育を行った。以下はグーレイ教授の”A Camel ”から引用する。『日本の奉行所の役人と相対するときの礼儀作法、長崎入港の際の満艦飾のやり方(これでオランダ船は満艦飾で入港していたことがわかる)、検使が乗船してきたときのコーターデッキの机や椅子の設置とクッションの置き方、礼砲を打つべき時と礼砲の数、全乗船者のリストを職務付で提出すること、一切の宗教に絡んだシンボルや本を取り除くこと、積載している弾薬や銃さらには本まで長崎奉行所に差し押さえられること、船内はくまなく捜索されてハッチには封印がされること、許可が下りるまでは誰も上陸できないし日本人も乗船できないこと、夜は船長も乗組員も船で明かすこと、日本に着いたら(当時の)商館長のヘンミイにその他のこまごまとした礼儀作法を教わること』、などをスチュワートに伝え、さらにバタビア総督府の士官2名が乗船することになった。洋暦の7月22日スチュワートは長崎に入港した。グーレイ教授の”A Camel”によると乗船してきた通詞たちは( 長崎奉行所の上級役人である上検使の要請に応じて)『今回の渡来船はなぜ小さいのか(東印度会社の交易船Indiamanは通常3本マストであるがスチュワートの船は二本マストの小型なbrig船だった)なぜ乗組員に黒人が多いのか、高級船員の中にオランダ語ではない聞き慣れない言葉をしゃべる人間(アメリカ人船員のことだろう)がいるのは何故か』、と問うた。バタビア発の交易船は下働きにインドネシア人(当時はジャワ人)を使用していたがスチュワートはベンガル地方のインド人を乗船させていたのでより肌の色が濃かったのだろう。バタビア総督府からの手紙を読んで状況を理解した商館長ヘンミイは、戦争のためにオランダからの来航船が来ず仕方なく中立国の船舶を使ったと言い訳し、またベンガル人たちについては彼等は間違いなくジャワ人だと言いくるめた。結局このオランダ東インド会社の懸命の偽装努力とヘンミイの機転のおかげで、1797年Eliza of New Yorkイライザ・オブ・ニューヨーク号はオランダ船として受け入れられた。スチュワートとヘンミイは初めて出会ったにもかかわらずそれぞれの利害をめぐって盟約または密約を交わしたと思われる。”A Camel”によれば、『ヘンミイは東インド会社と日本の商人双方に莫大な負債を負っておりそのために蘭癖大名(オランダからの渡来品に目がなく、金に糸目をつけない大名)として有名な島津重豪に特別に違法な貿易品(抜け荷のこと)を用意するという密約を交わした。まさに薄氷を踏んでいたのだ』と言う。その状況証拠としてあげられるのが、スチュワートがバタビアへ向かって数か月後に出航する時に、バタビア総督府に届けるように託した手紙である。その手紙でヘンミイは来年もぜひこのスチュワートを雇い長崎へ遅らせるようにと請願したのである。この願いは聞き届けられ、翌1798年再びスチュワートはオランダの傭船として長崎に来航した。

 

ではなぜヘンミイは薄氷を踏む思いをしてまで国禁の抜け荷に邁進したのか。それは一にも二にも銅の獲得量にあった。銅は当時の世界で極めて重要な資源であってこれまでオランダ東印度会社は日本から得た銅で莫大な利益を上げていた。『長崎のオランダ商館』155p(山脇悌二郎)によれば18世紀に『この間、オランダ船が長崎に輸入した商品の売上げによる収益は五十万フロリンにすぎなかったのに、日本銅がインドであげた収益は八百万フロリンであった。このように、日本銅はほとんど百年の問、会社のアジア貿易を支えた』というほど銅は東オランダ東インド会社にとって死活的に重要な輸入品だった。 (同じく『長崎のオランダ商館』6pによると、17世紀の日本は世界屈指の銅産出国で1697年にオランダ船と唐船が長崎から輸出した量は合わせて5,370トンだと言う。これは100年後の1798年にスチュワートが積み込んだ600トンの銅の10倍近い。この頃は日本からの銅輸出がアムステルダムの銅相場を左右したほどだった)。だが寛政の改革で銅の流出に危機感を持った松平定信により半減商売を申し渡される。これによりオランダ船の渡来を年一艘に制限され(これは定信失脚後に隔年二艘に緩和される)、銅の取引量も半分に削減された。この時期、オランダ東インド会社はその利益構造が最盛期を過ぎ巨人な累積赤字に悩んでいた。唯一の解決策が銅の獲得である。ドゥーフは自伝の中でこの半減商売化を当時の商館長の政治力の無さと怠慢を責めているが(この当時の商館長は、シャッセとその前任者のとロンヘルゲである)、半減商売化はむしろ日本国内の事情によるところが大きいと言えるだろう。またヘンミイは半減商売の緩和について懸命に努力したのも事実である。ヘンミイが商館長になったとき(寛政4年1792年)、前任者のシャッセから言われた事は、少しでも多くの銅を獲得すること、それが第一義であった。オランダ東印度会社及びバタビア総督府に対して極めて忠良な彼ら商館長は傾いた経営を挽回すべく危険な道を歩き始める。 この頃ヘンミイの前任者シャッセはその秘密日誌に『秘密の道を開いた』と記している(『抜け荷』山脇悌二朗118p))。“銅額の増大こそ、疑いもなく、そうしなければならぬ唯一にして最も中心的な論題であります。このことについては、私が常に骨を折ってきたことであり、また、貿易は、これによって建直されねばならぬものであるのです。私が、その中に踏込んだところの秘密の通路は貴下が滞在している聞に、自然に明らかになるでしょう。”(=シャッセからヘンミイへの文書)。それがどういう道だったのか今となっては知る由もないが、その秘密の道はどうやら島津重豪と通じた道のようで、樟脳を贈るなどしてヘンミイに好意を示す蘭癖大名の島津重豪の好意に応えることとする。次の章で紹介するが薩摩はもともと抜け荷大国で、琉球を通じて俵物(干し海鼠、干し鮑、干しいりこなどの唐人へ高値で売れる海産物)などの大規模な抜け荷を行っていた。蛇の道は蛇で、薩摩藩は藩御用達の薩摩屋から銅を入手できたから、オランダとの抜け荷に大した躊躇(ためら)いは無かっただろう。こうして2人の利害は一致しオランダと薩摩の銅の抜け荷密約ができたようだ。山脇悌二朗『抜け荷』119pによれば『その実行の時期は、寛政十年(1798年)と決めてあったようである。前に述べた林重兵衛の談話に「蘭船二般来るうち、一般は海中にて中買せんとの約束」』ということだった。そこへ陰謀にはうってつけのスチュワートが現れたのだ。この瀬取りを実行するにはスチュワートの船が秘密保持にはもってこいである。ヘンミイはスチュワートというアメリカ人船長が現れたときにその怪しげな船、怪しげな乗組員たち(アメリカ人の幹部船員やヘンミイがジャワ人と言い訳したインド人たち)を見て、最大のチャンスが現れたと思ったに違いない。普通のオランダ人の船長なら抜け荷の罪の恐ろしさを知っているだけにヘンミイの計画に恐れをなしてバタビアに通報する可能性すらある。だがヘンミイはスチュワートにこの悪巧みを共有するだけの可能性を感じたのであろう。

ヘンミイにはまだ謎がある。それは、前述したようにGourlay教授が指摘した彼がオランダ東インド会社にも、長崎の商人にも莫大な借金をしていた件だ(“A Camel”)。阿蘭陀商館物語」89p(宮永孝)によれば、1828年に来日した商館長のメイランの推測がそれである。『ヘンミイ氏は日本だけでも七万から八万フルデンの負債を残して行ったことである.…」と述べている。なぜ巨額の借金を作らねばならなかったのか明らかではないが、メイランは、「秘密の目的を達成するため」と推測している』。それを裏付けるかのように、1795年以来、ヘンミイの死亡より3年も前から経理記録が残されていないことだ。だが現在手に入る資料では彼がどのようにしてこのような借財を築いたかは明らかになっていない。証人としてはラスだろうが、彼の証言は残っていないようだ。

ジョージ・クリーブランド(ドゥーフが乗船して来た米船マサチューセッツ号の乗組員)の日記によると、新世界(アメリカ)人スチュワートは通詞の間で大変人気者だったそうだ。オランダ語に流暢なうえに陽気で明るいスチュワートは、恐らく多くの注意深いオランダ人と違って、長崎の通詞たち(140人の通詞社会の、幹部級ではない軽輩の通詞たちと思われる)にとっては開けっぴろげの付き合いやすいキャラクターだったのではないか、と思われる。伝統や因習にとらわれない、いかにも「新世界」人にふさわしいエピソードであるし、スチュワートの人たらしの才能もうかがえる。わずか数か月のうちに通詞たちはスチュワートに個人貿易(脇荷荷物と呼ばれる)を持ち掛けて日本の特産品を渡すまでになっただけでなく、スチュワートに脇荷の許可証まで与えた。これは全く前例のないことだった(以上“A Camel”9pから)。バタビアで売り払えば東インド会社の勘定とは別にスチュワート個人の儲けになる仕組みである。通詞たちが渡した商品代金は翌年の来航時に原価に上乗せして返済するのだろう。スチュワートは初回の来航で様々なことを学んだ。(1)長崎での貿易はオランダ船も唐船も長崎会所という公的な貿易機関が管理していること。(2)そこでのオランダ貿易には本方荷物(もとかたにもつコンパニヤ本荷)と脇荷物(わきにもつカンバン脇荷)の2種類があること。東インド会社の商品は本方荷物と呼ばれて東インド会社の正式貿易品として処理され、すべての売却代金は東インド会社に長崎商館を通じて支払われる、これが本荷(ほんに)である。一方で、商館長や商館員そして船長らに許されている私貿易(脇荷わきに)というシステムがあり、自分の金で購入した商品を売り捌き、その利益を個人で独占することがある限度内で公認されていること。従ってスチュワートはオランダ東インド会社が払う傭船契約料の他に、資本さえあれば私貿易(脇荷)の機会があること。(3)日本の銅は、持ち帰ってインドで売りさばくだけで莫大な儲けになること。(4)さらにはヘンミイが画策している日本の有力者であるサツマの大公との密貿易、これもおそらく莫大な利益を生むかもしれないこと。

勘のいいスチュワートは発見したのである。出島は素晴らしい「宝島」になりうることを。

もう一度スチュワートを長崎へ送って欲しいというヘンミイの願いは聞き届けられ、翌1798年再びスチュワートのイライザ号はオランダの傭船として長崎に来航した。

スチュワートはバタヴィア(ジャカルタ)で東インド会社の荷物の外に東インド会社から借金をして自分の荷物を大量に買い込んで船に積み込んだ。この時スチュワートが直接長崎へ来たのか、あるいは海上で薩摩と密取引をしたのかそれは定かではない。しかし2度目に来航してみると、長崎の環境は激変していた。出島は大火に見舞われてほとんどの建物が焼け落ち、いくつかの仮設の建物があるだけであった。またスチュワートが長崎を訪れる直前の4月に商館長のヘンミイは江戸参府の帰途、掛川で客死していたのである。代わりに商館員のレオポルドラスが商館長代行を務めていた(この辺の事情は9章 陰謀渦巻く出島へ を参考にしていただきたい)。ヘンミイと島津重豪とスチュワートの約束が、ヘンミイの死亡によってどうなったのかは闇に消えたままだ。

私の勘ではこの1798年の2度目の長崎入港の時にヘンミイから指示をもらって帰路薩摩と瀬取りをする予定だったのではないかと思う。9章で述べたようにヘンミイが江戸参府から帰る途中、島津重豪がわざわざ江戸郊外まで見送りに来て、長崎の通詞たちを遠ざけて自分の部下の堀門十郎(元大通詞。島津重豪がヘッドハントして自分の部下にした)に通訳をさせてヘンミイと何事かを話した事実があるからだ。単に旅の無事を祈る挨拶以上の会話があったのではないかと思えるのである。

ヘンミイは死んでいたし、スチュワートが顔馴染みになっていたかもしれない名村恵助は磔になっていたが、これらの変事にめげず、ラスを使って本方荷物と脇荷物を無事売り払い、600トンの銅を始め日本からの輸出品を満載してバタヴィアへ出航することになった。私の推理ではその後薩摩にひそかに立ち寄ろうとした可能性がある。

だがここで、スチュワートが操船するイライザ号は重大事故に見舞われる。その顛末を詳細に記録した『蛮喜和合楽』という文書があり、「いちざえもん」という方がその文書の元本を実見し、現代語訳にして楽天ブログに上げておられるのを発見したので、それを基にスチュワートたちに何が起こって、どういう顛末(日本人が胸を張れる結末となった)を迎えたかを紹介しよう。「いちざえもん」氏は村井喜右衛門となった人の子孫の家を訪ね、代々残されてきた文書を実際に確認されたそうだ。興味のある方はリンクでご覧いただきたい。https://plaza.rakuten.co.jp/kiemon

以下は「いちざえもん氏訳『蛮喜和合楽』」をもとに私が再構成したものである。

 

“10月17日(和暦)(洋暦11月24日)スチュワートの船は日暮れ前に礼砲の砲声を殷殷と響かせながら、およそ20艘あまりの曳船に引かれて出島沖から港口の神崎まで移動、そこまで見送って祝杯を上げたラス商館長代理らは出島に戻った(出船の際は商館長らが神崎まで見送ることが慣例だったと思われる)。錨を打って出航準備にかかっていたところ、にわかに風強まり、イライザ号は風に煽られて高鉾島の唐人瀬という浅瀬に打ち付けられ、舷側を数か所破られてしまう。たちまちのうちに怒涛のように海水が船内になだれ込んできた。雨と風がイライザを襲い、転覆を避けるために3本のマストを斧で切り倒し、懸命に二つの人力ポンプで排水作業を行ったが海水の勢いは増すばかりである。この夜は十六夜、大潮である、風雨もあり出島からはもはやこの危急の状況は見えない。急を知らせに乗組員の一人がボートを下ろして監視に当たっていた奉行所の番船に知らせ、番船は出島へ急行してラス等に通報した。通詞たち、オランダ商館員、奉行所の幹部らが総出で夜を徹して船を救おうと懸命の作業を続け、翌日には近在の漁船、港内の在留船らを総動員してイライザを曳航して一番近い浜辺近くに何とか引き寄せ積み荷を木鉢浦に運んだが、なだれ込む海水の勢いには勝てず、ついに19日朝600トンの銅を飲み込んだままイライザ号は深さ約10メートルの海に沈没した。21日ラスの泣訴により長崎奉行所より出島乙名紅毛通詞連名の「公告」により沈没船引き揚げを募った。漁師たちの中から泳ぎのうまい者たちが決死の勢いで沈没船の引き上げ作業に挑んだが、積み荷の中に樟脳があったせいで毒ガスが発生し何人もの溺死者が出る有様で、ついに諦めざるをえなくなった。

木鉢浦裏に仮設の小屋が建てられ、スチュワートら90人の乗組員(1800年の長崎再訪の際、スチュワートの説明によると80名になる)はそこに収容された。警戒は厳重で専用の通詞20人(身分の低い内通詞であろう)が配置され、入り口には探り番(仮設小屋に出入りする通詞や使い番の人間が物品を持ち込んだり持ち出そうとしないか、衣服を探って確認する番人)も出島と全く同じように配置された“(以上、「いちざえもん氏訳『蛮喜和合楽』」をもとに構成しました)。

この年末のクリスマスにスチュワートたちがどう過ごしたかは記録に残っていないが、ヘンミイの抜け荷疑惑で名村恵助が陽暦12月23日出島門前で磔の極刑に処された。これは明らかにオランダ商館と通詞たちへの長崎奉行の警告であり、通詞たちは抜け荷に関わることの恐ろしさを再認識したに違いなく、ラスの日記によれば“(商館長のヘンミイは)死んでいて幸いだった。生きていれば国外追放されただろう”とラスに伝えたと言う(同じく”A Camel”から)。ちなみに森永種夫『犯科帳』(長崎奉行所の裁判記録)によれば、オランダ人や唐人(当時の支那人は自分たちのことを唐人と呼んでいた)が絡んだ抜け荷の裁判は、日本人は死刑などの極刑に処せられたが、オランダ人や唐人は裁かれず、二度と日本へ戻れない国外追放(国禁)と言う処分であった。通詞たちの中には、ヘンミイの旅先での怪死と長崎の大火とあわせて名村恵助の磔という恐ろしいことが起こっているとスチュワートに伝えたものもいただろう。またこの磔についてラスは怯え切っていたはずだがだが、その話を聞いたスチュワートが怖じ気づいたとは思えない。彼のその後の大胆な行動に何の影響も与えていないからだ。木鉢裏は神崎鼻に遮られて、長崎の街(約4kmの距離)は望見できない。しかしここで暮らした100日間、通詞等との付き合いの中で、スチュワートの長崎貿易と日本についての知識はますます広範なものになっていっただろう。長崎入港時のプロトコ(旗合わせや確認文書などの詳細)、長崎港の警備体制、来航船を知らせる遠見番所の能力や通報システム、などだ。勘ぐれば薩摩との抜け荷の詳細な打ち合わせも薩摩に手なずけられた通詞を介して可能だったろう。スチュワートが通詞たちの人気者になったのはこの時のことで、”通詞たちは友好のしるしとして米や着るものをスチュワートに届けた“(“A Camel”から)ということである。季節柄、褞袍(どてら)を着て悦に入っていたかも知れないスチュワートを想像すると、思わず頬が緩む。

 

再び「いちざえもん氏訳『蛮喜和合楽』」をもとにその後の展開を伝えよう。

“方策なく厳寒期にもなり時が過ぎたが旧暦の正月になって長州櫛ヶ浜(現山口県周南市)の喜右衛門と言う船頭が我に策ありと名乗り出たのである。この喜右衛門は長崎港外の香焼島を根城に付近一帯の漁師達を組織し毎年8月かは翌年の5月にかけて手広く鰯漁をやっていた網元のような人である。彼のアイデアは、船体の一部が波の上に露出しているのを干満の潮汐差を利用して曳舟などで引き上げようと言うものだが、経費を請求するつもりはなく自前で行うという男気溢れる提案だった。長崎奉行はこれを許可した。これにより正月17日より作業にかかり、なんと29日に引き上げに成功したのである。使用した滑車900個、曳船は76艘、総経費500両、という大作業であった。画像挿入

イライザ号はスチュワート等の仮小屋が設置された木鉢の浜へと安置された。ラスやスチュワート、長崎奉行を始めとして長崎中が湧き上がり、終日木鉢の浜に引き揚げ船をひと目見ようと群衆が詰めかける有様であった。長崎のみならず九州中国四国一円がこのニュースに沸いた。長崎奉行はこの壮挙を説明図とともに江戸へ速飛脚を飛ばして報告し、老中首座松平信明(松平定信の後任)から褒め讃えられることとなった。長州藩からは永代帯刀を許され、晴れて村井喜右衛門となったのである。長崎奉行は銀30枚を褒美として喜右衛門に与えた。“

引き揚げられたイライザ号は、船底に船喰い虫防止の銅板を張った銅板包船で、これを初めて見た長崎の人々はそのテクノロジーに驚いたようである。岩との接触で出来た複数の裂け目はいずれも小さなものだった。600トンの銅は無事であった。海難の時に3本とも斧で切り倒したので、マストに必要な木材を調達する必要があったが、肥前侯(佐賀藩主もしくは平戸藩主)が松10本を提供したが足らず、市内皓台寺提供の杉3本を使ったが材質が良いものがなく相当に苦心したようである。それでもとりあえず形をつけスチュワートは洋暦の6月長崎をバタヴィアへ向かって出発した。この時は乗組員一同が舷側を叩いて歓喜の声を上げながらの出航だったという(『蛮喜和合楽』より)。だがこれは当時の常識ではありえない行動だった。6月は北東の貿易風に乗ってオランダ船が長崎に入港する季節である。つまりスチュワートにとっては逆風である。この時期の出航にはあらゆる人が反対したと伝えられる。案の定スチュワートは後日マスト二本を喪失して長崎港近くへ現れ、曳船に引かれて帰ってきた。スチュワートによると台湾沖で三日三晩の台風にあったそうである。この時偶然にも初めて長崎へ赴任する途中のドゥーフがフランクリン号と言うアメリカ船に乗ってこの台風に同じ台湾沖で巻き込まれていた。

 

ドゥーフによれば、彼の人生で体験した中で最も激烈な台風だったそうだ。ドゥーフたちは嵐の中でスチュワートの船を目撃したと言う。長崎へ帰り着いたスチュワートは船舶登録証を喪失していた。船舶登録は18世紀にヨーロッパの海運国で大型商船を対象に始まり次第に普及した。この頃は長崎でもこの書類を確認していたことがこのことでわかる。スチュワートはそれを台湾沖で英艦と遭遇し、船舶登録書を奪われる前に海に投げ捨てたと申し立てた。この船舶登録証は実は本物ではなく他船のものだったことは後の章で説明する。スチュワートが見たのは明らかにフランクリン号なので、英艦遭遇は明白な嘘である。長崎の人々は“スチュワートは薩摩の秘密の浦(港)に寄って抜け荷を行ったはずであり、それを糊塗するために英艦と遭遇したと嘘をついている”と噂したそうである(”A Camel”から)。薩摩の抜け荷の噂は長崎市中では流布していたこと、スチュワートもそれに関わっていたと人々は思っていた、ことが分かる。市中の噂は意外と正鵠を射っていたことになる。

このような形でドゥーフは初めてスチュワートと出会った。ドゥーフは弱冠21歳であった。9章でみたように、巨大な台風の洗礼を乗り越えて期待に胸を膨らまして到着した。だが、待ち受けていたのは焼き尽くされた出島の建物であり、仕えるべき上司ヘンミイは江戸参府の帰途掛川で客死していた。商館長代理のラスは帳簿の記録もしておらず、商館の規律やモラルは紊乱していた。唯一の救いは遭難したと思われていたイライザ号がマストを喪失した姿で長崎港にいて、貴重な貿易品の銅を始め積み荷の殆どが無事だったことだ。この最初の出会いについてドゥーフは自伝では何も触れていない。9章で述べたように、ドゥーフはバタビアへ長崎の惨状を報告するために自分が乗ってきたフランクリン号で折り返すのだが、ドゥーフ自伝Recollection of Japan47pによると、ドゥーフはバタビアへ発とうとしているスチュワートにこのフランクリン号で一緒に帰ろうと提案したということだ。貴重な積み荷である銅を運ぶに際し、沈没したうえ台風に遭難してバタビアへの航海も覚束なさそうなイライザ号を見てのドゥーフの提案だったのだろう。だが若いドゥーフの提案をスチュワートが聞くはずがない。彼には彼の計画があったからだ。彼はイライザ号で長崎を発った。案の定、彼はバタビアへ現れなかった。そのつもりなど無かったのだ。何故か?

それを説明するために、積み荷の銅600トンの価値を計算してみよう。新井宏という方が、「各種金属の比価」を研究発表されている。金属は時代によって価値が違う。たとえば古代日本では金は異常に安かったそうだし、19世紀には銅は貴重な資源だった。世界各地で貨幣に使われたし、黄銅砲など戦争の新しいテクノロジーを支える金属であった。日本銀行によると、江戸時代の1両は、江戸中期後期ともに銀60匁(もんめ)と安定している。新井氏の比価表によると江戸中期後期の銀/銅の比価はほぼ150(現代は100だそうだ。それだけ当時の日本では銅が割安だったことになる)である。600トンの銅を銀に換算すると、約4トンとなる。これを60匁(225g)で割ると、約1万8千両になる。これを現代の価値に換算すると幾等になるか?これが意外と難しい。当時と現代ではモノの価値が違うので、指標次第で大きく価値が変わるのだ。大工の賃金、蕎麦の一杯の値段、指標の選び方次第で1両の換算価値が変わる。そこで1両を安く見積もって現代の5万円、高く見積もって10万円、中を取って7万5千円で計算してみたのが下表である。

約9億円から18億円という仮説が成り立つ。7万5千円@両で計算すると13億円+である。以降、この物語では7万5千円@両で計算することとする。当時の幕府の財政が年200万両だったという。1万8千両は約1%に当たる。幕府財政が現代価格で900億円から1,800億円だったことになるが、幕府の年間予算の1%であることを考えれば、この銅の価値の半端無さが分かるだろう。

それはともかく当時も今も大金である。「痩せても枯れても銅」なのだ。当時長崎奉行が公告までして引き揚げ策を募ったのも、沈没船の積み荷の価値を考えれば当然だった。

で、スチュワートである。1年前はヘンミイと密約を交わしてバタビアへ積み荷を無事に運び、2年目の傭船契約を勝ち取った。だが、いまやヘンミイはいない。スチュワートにしてみればいつまでもオランダにおんぶに抱っこのつもりはなかった。この積み荷は自分がいただく。インドで売れば、さらに巨額の利益が舞い込むはずだ。スチュワートはほぼ丸1年の滞在で長崎を知り尽くした。そして「宝島」たる長崎とは自分独りで貿易をする。これがスチュワートの胸の中の計画だったに違いない。この物語に登場する唯一の悪漢の誕生である。

明けて1800年洋7月16日ドゥーフがヘンミィに代わる新商館長ワルデナールとともに米船マサチューセッツ号に乗って長崎に到着した。前年の1799年ドゥーフの説得を押し切って長崎から出航したスチュワートのイライザ号はバタヴィアへ戻らなかったので難破したのだろうと考えられていた。銅を始めとした積み荷も失われたと想定された。ドゥーフは自伝にバタビアに戻ってから翌年ワルデナールと一緒に長崎へ戻るまでの事は何も書いていない。その後の長崎での10何年かの生活があまりにも刺激的だったから、バタビアでのオランダ人の中の1年間はほとんど書くほどのことがなかったのかもしれない。

ワルデナールとドゥーフの航海は極めて順調で、30日という記録的な速さで長崎に到着した。1750年には67日もかかったことがあるから、彼らの航海は台風に遭遇しなかったのだろう。昨年初めて長崎を訪れ惨状を見てバタビアへ折り返したドゥーフには、上司のワルデナールも同行していることだし、幸先いい長崎再訪であったろう。だが曳舟に引かれ礼砲を轟かせながら長崎へ入港すると、ワルデナールとドゥーフ達は腰を抜かすほど驚いた。オランダ国旗を翻した二本マストのブリッグ船が港内に停泊していたのだ。ラスの説明にさらにドゥーフ達は驚くことになる。船の名はEmperor of Japan エンペラーオブジャパン号(日本皇帝号)で、船長はあのスチュワートだという、しかも長崎へ入港して50日にもなるという。エンペラー号とは、スチュワートが蓄積した日本の知識から考えれば、『天皇号』と訳しても構うまい。ラスが奉行所にこの船のことを説明したかは分からない。彼の日記には記述があると思われるが、まだ和訳されていないようである。私の推測ではオランダの国旗を掲げて、イライザ号引き揚げの大騒ぎで多くの長崎の人に顔を知られている船長(すなわちスチュワート)が乗っている以上、追い払うわけにもいかず、バタビアからの正式なオランダ船の到着を待っていたのではなかろうか。煩雑な上陸手続きを終えて、出島に到着したのは午後5時半である。日本の東端にある長崎では、真夏の太陽がまだ沈まず、昼間の暑さが続いていたろう。それでも真っ先にやらねばいけないことがある。風説書の作成である。鎖国時代(この頃の人である長崎の蘭学者志筑忠雄が1801年に鎖国と言う言葉を発明したばかりである。ちなみにWikipediaによれば志筑忠雄は『「引力」や「遠心力」などの言葉を創出し、ニュートン物理学を初めて日本に導入することとなった『暦象新書』(1802成立)がその代表的な仕事である。』という)の江戸幕府にとって、来航した新商館長と来航船の船長から世界情勢を報告させるのは極めて重大なことであった。幕府は1年おきに細々ではあるが世界情勢を聞き取っていたのである。火事で焼けた商館長邸に代わって建てられたカピタン(商館長を意味するポルトガル語を江戸幕府は変わらず使っており、オランダ人はそう呼ばれることを受け入れていた)の部屋に、検使(奉行所の上級役人)、出島乙名(出島町の責任者)、通詞目付(通詞たちを見張る監察官。ドゥーフは自伝でspy(スパイ)と呼んでいる)、大通詞(約150人の通詞社会の頂点に立つ長老)が集まって、風説書を作成するのである。バタビアで作成された原本を翻訳する、という通説を松方冬子氏は『オランダ風説書』で否定し、バタビアで作成した原本はなく、長崎で商館長と船長とが原案を話し、それを通詞たちが翻訳したのだと解き明かした。この説には一理あり、この頃の世界情勢はオランダにとって極めて芳しくない状況(ナポレオン軍に占領され、ナポレオンの弟がオランダ共和国の国王になっている。家康が朱印を与えたオランダ(正しくはネーデルランド連邦共和国)は存在しないことがひとつ。もうひとつは一年前にオランダ東インド会社が解散して長崎貿易は国の直轄になっていることだ。いずれも幕府に知られると出島のオランダ人は追放され、長崎貿易の独占特権を放棄することになる)にあり、幕府にこの年の情報をどう伝えるべきか、その機微をバタビアにいてはわからない。世界情勢を伝えるにあたり、情報の取捨選択や取り扱いは長崎での判断に任せるのが一番安全であったろう。風説書の作成はワルデナールにとっては上の空に近かったのではないか。スチュアートがなぜ長崎に現れたのか、そしてこの前例のない事態をどう切り抜けるか、それで頭がいっぱいだったはずだ。この年の風説書は例年になくあっさりした内容になっているのは、そのせいだろう。もちろんスチュワートについては一切触れられていない。この風説書は江戸幕閣へ送られる前に、長崎奉行が検閲している。ということは、スチュワートに率いられたオランダ船(少なくともオランダ国旗を掲揚している)については取りあえず報告を見合わせることを奉行も同意したということだ。年番大通詞はそこらの事情は分かり切っていて、しかも奉行の内意を得て風説書作成に臨んだことと思われる。22歳のドゥーフは一回り以上年上の36歳のワルデナール(日蘭学会の説では1758年生まれなので42歳)の助手としてその知恵を危機的状況下で学んでいくことになる。

風説書作成で一緒だった年番大通詞の一人が翌朝早速長崎奉行(肥田豊後守)の使いでワルデナールを訪ねてきた。スチュワートの船についてバタビアからどういう命令を受けているのか説明せよ、とのことである。通詞社会の頂点に立つ大通詞家は9家あり、毎年2人が年番を務める。この朝訪れたのは中山作三郎49歳である。ワルデナールはもちろんスチュワートの意図はわからない。だが前任者のヘンミイと密貿易を図っていただろうことは見当がついている。バタビアの見方がそうだからだ。しかも難破したはずのスチュワートが生きているということは、昨年積み出した銅はどうしたのか。迂闊なことは言えない。またラスが、恐らくスチュワートに言いくるめられて(ドゥーフはその自伝で、スチュワートがラスに銅の分け前を与えて抜け荷計画に引きずり込んだという見方を披歴している)、奉行所に彼の来航をとりあえずどう報告したのか、それを知らないといけないし、またラスの説明と食い違いがあってはならないのだ。ワルデナールは「バタビアではスチュワートの船は難破したと思っているから自分は何の命令も受けていない」と答えて中山を帰させた。すると翌日も翌々日ももう一人の年番大通詞馬場と2人でやって来た。ワルデナールの答えに奉行が納得していないのだ。オランダ商館ではいろいろな決定を下すにあたって会議を開いたようである。商館長の独走を許さずすべてを会議録として記録に残すためであろう。ヘンミイの時代の最後の数年にはドゥーフが発見したように書面の記録が残っておらず、従って愚鈍(といっても差し支えなかろう)なラスを適当にあしらって、薩摩との抜け荷やスチュワートとの密謀を図っていたのだろう。長崎オランダ商館日記では「政策評議会議」などと訳されているが、重要な決定事項を商館幹部の間で話し合う。だが日記によると3日間しきりに会議(ワルデナール、ラス、ドゥーフ、さらに数名の幹部であろう)を開き長時間に渡って討議したが、これという解決策が見つからない。ワルデナールの懊悩がよく透けて見える3日間であった。おそらくワルデナールがスチュワートに会わないと話ができないと主張したのが通ったのだろう、4日目の会議にスチュワートの出席が許された。来航船の船長と乗組員は出島に来ても宿泊は許されない。彼らには原則として行動の自由はないのだ。この商館での会議出席に奉行所の許可が必要であったろうことは当然である。こうしてワルデナールとスチュワートが対峙することになった。

ワルデナールは1764年生まれ。1778年、14歳の時に東インド会社のPallas号乗り組みの船員としてバタビアへやって来た。以来、ジャワ島のあちこちの支所でジャワ語の習得と会社の実務経験を重ね、1797年の5月13日(洋暦)にバタビアでコメ倉庫の管理官になっている(Wardenaar Wiki)。一方、スチュワートがバタビア総督府に雇われて最初の長崎航海に出航したのは同じ1797年の6月18日(洋暦)である(彼がバタビアにいつ現れたかはGourley教授の論文でも明らかではない。“in the spring of 1797”とあるだけである。1797年の3月か4月であろう)。二人はバタビアで1か月強、滞在が重なっている。この時、スチュワートはバタビアが初めてアメリカ船を傭船として契約した船長である。バタビアにとって初めての試みであり、政庁内でスチュワートは時の人であったろう。Bandaバンダという重要拠点の次長格かつ出納長で間違いのない仕事ぶりから(と推測される)バタビア政庁に転勤になったワルデナールは3年後に長崎商館長に任命されることになるのだから手堅い仕事ぶりで幹部候補生に近い存在だったと考えていい。長崎商館長はオランダ国及びオランダ東インド会社の駐日本全権大使といってもよい存在だからだ。その二人が狭いバタビア政庁で全く会わなかったとは考えにくい。面識はあったはずだ。そのうえ、ワルデナールは当然ながらヘンミイの密輸疑惑とそれに関わったと思われるスチュワートの役割についてのバタビア政庁の見方も知っている。先入観としてスチュワートについては「あまり信用ならない人物」と思っていただろう。

加えて、二人の出自は正反対である。オランダ人の祖先はジュリアス・シーザーの『ガリア戦記』に登場するバタフィ族である。二千年の歴史がありながら狭小な国土をスペインやフランス、イギリスの列強に翻弄され、権謀術数を駆使して生き延びた国である。

シーザー時代のバタフィ―族

 

存在価値を商業に求め、宗教(オランダはプロテスタント)や政治人権思想より利潤の追求を優先して(島原の乱では、幕府の求めに応じキリスト教徒(カソリック)が籠城する原城に砲撃を加えた。この件でヨーロッパでは非難を受けたらしい。ドゥーフはこれについて自伝で釈明している)、一度(17世紀後半から18世紀前半)は大海運国として世界の海を支配した民族である。そこでは人を簡単に信じない、商業上の約束(手形とか契約とか)は絶対に重んじる、会社(例えばオランダ東インド会社)へは忠誠を尽くす、という信条が尊重されてきた。近代資本主義の原型とも言ってよい。現にオランダ東インド会社は世界最初の株式会社として設立されたのである。ワルデナール(もちろん物語の中心人物であるドゥーフも)はそのような社会で育った人間なのだ。一方で、スチュワートはヨーロッパで迫害され(それは宗教上での迫害でもあり、王権からの迫害でもあった)、あるいはヨーロッパで食い詰めた人々が『自分たちが主人公の国を建設する』という歴史上全く新しい概念のもとに樹立された、いわば人工国家であるアメリカ合衆国の申し子のような人物である。この後の章で述べるがニューヨークで生まれ育ち、17歳で一攫千金を夢見てアジアへ飛び出し(ワルデナールも14歳でアジアへ旅立ったが、東インド会社の社員になることが夢だったはずだ。ドゥーフも同様である)、バタビアに出現するまでの日々は冒険と怪しげな行動に満ちた人間である。ワルデナールが乗船していたマサチューセッツ号の乗組員ジョージ・クリーブランドによると、スチュワートはマサチューセッツ号の誰とも仲良くなったという(”A Camel“)。社交性に満ち、おそらく口八丁手八丁と思われ、出会う人々を魅了する何かを持っている、そういう人物なのだ。しかもイギリスから独立したアメリカ合衆国がパリ条約(1783年)で承認されてからまだ13年、法よりも力と知恵(悪知恵というべきか)がまかり通る世界に育った人物だ。この二人の肌合いが合うはずがない。バタビア政庁に提出する公文書でもある商館長日記にワルデナールは抑えた筆致ではあるが二人のやり取りがかなりヒートアップしたものであることを伺わせている。

ワルデナールとドゥーフの疑念は、スチュアートが前年長崎を出航した際の積み荷(銅600トン、現在の時価で凡そ9億円から18億円)をどうしたのか、ということである。イライザ号も積み荷も喜右衛門の超人的な働きで回収できた後、イライザ号の修復が終わって出航する時にドゥーフは彼の乗船フランクリン号に乗って帰るべきだ、と主張した。それは銅600トンもフランクリン号に積載すれば確実にドゥーフの監視下でバタビアへ持って帰れるからだ。だがスチュワートはそれを拒否し、イライザ号で出航した。案の定バタビアへは現れず、バタヴィア総督府もドゥーフも彼は難破したものと思っていた。が、彼が生きていたとなると話は違う。ワルデナールはラスに話を聞いた。スチュワートが彼に話したところによると、日本出航後、11月ボルネオ沖で台風に遭遇して漏水が始まり、二晩三日の奮闘の後ついに船を放棄、彼と士官2名と14人の水夫はshallop(マストと帆と櫂を備えた大型積載艇)に乗り、当時スペイン領であるフィリピンのルソン島に着いた。残り63人の乗組員はLong Boat 大型ボートでそれぞれ脱出したが、その後彼らの行方は知らないという。彼はマニラでたまたまアメリカ人の知り合いと会い、そのアメリカ人が小さなブリック船と長崎で売り払うための商品を提供してくれたのでそれを持って4月19日にマニラを立ち、38日の航海後に長崎の出島へ着いたと言う。船も銅も難破で失われたというのだ。ワルデナールもドゥーフも信じなかったであろう。いかにも調子が良すぎる話である。現にエンペラー号を視察したドゥーフは、船尾楼にイライザ号のものと思われる装飾を見つけている。だがスチュワートはイライザ号沈没の証拠としてマニラで発行されたスペイン語による海難事故証明書なるものを提出した。印璽らしきものも押されており公文書と思えるが、誰一人としてスペイン語が読めず、結局判読不能で本物かどうかはわからなかった。ワルデナールはそもそも2年前の1978年に長崎を出航した際の高鉾島での遭難を、スチュワートが故意にやったと思ったようである。わざと船を沈めることによって銅をわが物にしたという疑惑である。この疑惑を立証するためにワルデナールは商館員に問いただして高鉾島での遭難時に片錨泊(錨を一つだけ打って停泊する)したことを突き止める。傭船の船長に聞くと双錨泊(錨を二つ打つ)が常識だと聞いて、スチュワートが意図的に難破させたと推理するが、これは喜右衛門の業績がいかにイノベーティブなものであったかを知らない推理である。喜右衛門の登場がなければ、イライザ号も銅も回収不可能だったからだ。次にワルデナールは1798年の傭船契約で既に15,000レイクスダールの前払いを受けていたことを突き止める。これらは近い将来スチュワートと対決する時のための材料としてワルデナールは自分の胸にしまいこんだ(8月9日の日記)。この15,000レイクスダールはどのくらいの価値だろうか。スチュワートがイライザ号に積み込んだ600トンの銅の計算式の時に、1両は銀60匁=225gという結果を得た。では1レイクスダールは銀でどれだけの価値なのか?調べてみると『証券経済学会年報 第49号別冊』の中にある『18世紀における国際的決裁とアムステルダム銀行』という論文がレイクスダールデルという通貨単位に触れており、銀含有量27.7gだそうである。論文写真と銀含有の写真挿入これは0.123両にあたる。すると15,000レイクスダールデルは1,845両という計算になる。例によって1両を7万5千円とすると138,375,000円、つまり1億4千万円弱である。当時の海運業がいかに時流の先端を行く荒稼ぎが出来る業界であったかを物語る。会社に忠実なワルデナールはスチュワートをそのまま長崎から単独で出航させるのは何としても阻止しなければとこの頃決心したようだ。だがそれを実現するためには商館内の政策評議会で賛成を勝ち取らねばならないし、マサチューセッツ号の船長の同意も必要である。だがそれとなく船長(正規船長のハチングと予備船長のスミットの2名がいる)たちに確認したがスチュワートをマサチューセッツ号に乗せ、代わりに自分がエンペラー号を運行するのは断られる(8月中旬)。そうこうするうちに9月11日、スチュワートが日本酒を300樽も仕入れたとの知らせが入る。日記には書いてないがワルデナールは憤激しただろう。スチュワートの首に縄をかけておくことなど不可能のようだ。いくら脇荷掛通詞たちにスチュワートに取引させるなといっても、無理のようである。スチュワートに軽輩の通詞たちがころりと言いくるめられるのだろう。19日、奉行所からようやくスチュワートが持ち込んだ商品の販売(脇荷)が許可された。その2日後、長崎会所(貿易管理機関)の目利役が判定したところ、スチュワートの荷物のほとんどが無価値であることが分かった。これについてはスチュワートはアジアの仕入れ先で騙されたと言い訳する。ああ言えばこう言うスチュワートを相手にワルデナールが苛立っているのがこの日の日記から読み取れる。だが砂糖だけは江戸時代極めて貴重品だっただけにワルデナールはスチュアートの砂糖篭を売り払って長崎での負債を弁済させようと通詞や奉行所に働きかけている。10月19日、脇荷掛通詞たちがスチュワートの商品(砂糖を含むのだろう)は長崎会所での入札の結果3,000レイクスダールデルの値が付いたと報告した。前掲の計算方法によると、約2,800万円となる。一見大きな額に感じるかもしれないが、当時の長崎で370両は端(はした)金に過ぎない。

西洋に開かれた唯一の窓である長崎からは莫大な金額の舶来品が全国へ出回った。「蘭癖大名」と呼ばれた渡来物には金に糸目をつけない大名も多かったし、裕福な商人も争って買い求めた。江戸期は贈答社会である。大小の藩は過失に目を光らせる幕府への対策から幕閣中枢への贈り物を欠かさなかったし、商人はより実入りの多い取引を勝ち取るために関係筋への気遣いを欠かさなかった。中でも贈って喜ばれるものの筆頭が長崎からの舶来もの、羅紗、ギアマン(ガラス製品)、時計や望遠鏡などの精巧品であった。長崎の平戸島を領有する平戸藩は6万石のいわゆる小藩の一つである。長崎商館はもともと平戸にあった。その関係上、平戸藩主は長崎商館長(カピタン)に年に一度挨拶する慣習があるのだが、当時藩財政が逼迫していたにも関わらず嘉永二年(1849年)には長崎聞き役に命じて毛氈10枚や羅紗2枚(藩主嫡子朝吉郎の鑓鞘を飾るもの)を買い求めている(山本博文『長崎聞役日記』96p)。このほかに長崎は唐貿易もにぎわっており、まさに江戸期随一のバブル都市であったといってよいだろう。から、長崎は金の唸る町だったのである。長崎奉行所は長崎会所の莫大な利益から年7万両もの地下(じげ)配分金(竈金など。現在の価値で52.5億円。1両@75,000円換算)を長崎の人々に配っていた。「阿蘭陀商館物語」によると、大通詞が3千両、小通詞(大通詞に次ぐ階級)で千両の年間収入があったそうである。また長崎庶民の犯罪裁判記録である「犯科帳」(長崎奉行所の判決記録を収録した森永種夫の著作)には、10両や100両の金が絡んだ犯罪がたくさんある。落語で1両が大金として取り上げられる江戸や大阪の庶民とは違う生活感覚が当時の長崎にはあった。だから370両という金額は出島を舞台にした貿易では小さな金額であったろう。それはともかく、この3,000レイクダールデルはたまたまスチュワートが長崎で作った負債と同額である。商品のうち鮫皮と竜脳は買い手がつかなかった。この竜脳は薩摩で精製されたものだった。エンペラー号は長崎に来る前に薩摩で取引(抜け荷)したという動かぬ証拠である。季節風の関係でマサチューセッツ号がバタビアへ向けて出航するべき日が急速に近づいている。ワルデナールはスチュワートを呼び、商品代金を長崎での負債弁済に充てること、オランダ東インド会社の負債は依然残ったままであること、したがって(15,000レイクスダールの前払いを受けていながら契約未履行のまま(銅の行方が知れない)で契約はいまだ有効との観点から)バタビアで会社に説明する義務を有すること、そのためにマサチューセッツ号でバタビアまで送還する、彼の持ち込んだ商品は脇荷として販売させる、と告げる。ワルデナールが知っている筈がないとスチュワートが高を括っている15,000レイクスダールデルの前払いの件を突きつけると、スチュワートが狼狽するだろうとワルデナールは信じ込んでいた。するとスチュワートが反論するには、その金はシーベルフ閣下(バタビア総督)に渡っている、なぜならミュルダーという人物を介してコロマンデル海岸(マドラスを含むインド大陸東南部の海岸地帯)で弁済済みだと言い出した。だからそのことをバタビアで釈明するつもりだ、と。スチュワートの面目躍如とも言うべき突拍子もない言い草である。ワルデナールは流石に気色ばんだようである。言い訳に耳を貸さないまま、「バタビアへ行くべき時に行かなかったではないか。そのせいで今まで気楽に暮らしていたではないか」と返答している。この商館日記はバタビア総督府に写しが届けられる公文書だからワルデナールの筆致は穏やかであるが、実際は両者のやり取りは相当熱を帯びていたのではないかと思われる。3日後(10月22日)ワルデナールはもう一度スチュワートを呼び出して会社への負債をどうするつもりなのか糺している。昨日のスチュワートの弁明を一言も信じていない証拠だ。それに対しスチュワートはワルデナールがいかなる権限で自分を抑留状態でマサチューセッツ号に乗せようというのか、と抗議してきた。実はこれはワルデナールの一番弱い脇腹を突いた反撃であった。ワルデナールは日記に「(スチュワートの)抗議にも脅しにも屈しない」との気構えをわざわざ書いているくらいだから、スチュワートの抗議が図星であり、脅威すら感じた証である。Gourley教授はワルデナールの悩みは「東インド会社に日本でのPolice Power警察権がないことだ」と指摘している(”A Camel“11p)。江戸幕府の法が支配する地域であり、法的にはオランダ商館長は寄寓者の代表に過ぎない。スチュワートの抗議にワルデナールは「他国の国旗(オランダ国旗)を無断で使用したからだ」と答えると、スチュワートはいやアメリカの国旗も掲げていたと言い返し、ワルデナールはそんなことを言うのなら明日の政策会議でスチュワートの送還を決議すると言い返している。これはもう喧嘩腰の言い合いだろう。翌10月23日、この日の会議は長いものになった。ワルデナールの商館日記にはこの会議についてのレポートが実に5ページに渡って記されているからだ。恐らくワルデナールはこの会議の運営と論理の展開を考えて一睡も出来なかったのではなかろうか。会議にはマサチューセッツ号の二人の船長ハチング(アメリカ人)とスミット(オランダ人)も招集された。ハチングはボストン人のよう(マサチューセッツ号はボストン船籍)だが、彼もオランダ語を解したようだ(彼はワルデナールと二人きりで会話を交わしている/商館日記1980年8月16日)。ニューヨークだけでなく当時のアメリカ北東部海岸地帯においてオランダ語は相当ポピュラーだったと思わざるを得ない。ワルデナールは次の点を追及した。⑴オランダ旗を無断で掲揚したこと ⑵イライザ号を沈没させて会社の資産(銅など)を喪失したこと ⑶運送契約金15,000レイクスダールデルを受領しながら義務を果たせていないこと ⑷長崎で今回新たに負債を発生させて会社負担となっていること。以上のことからスチュワートはマサチューセッツ号に乗船してバタビア総督府へ出頭すること、との提案をワルデナールは審議に付し承認を勝ち取ったのだ。船長ハチングもスチュワートをマサチューセッツ号に乗船させてバタビアへ行くことに合意し、スチュワートが長崎で仕入れた商品を積載したエンペラー号はスミットが船長としてバタビアへ行くことも同意を得た。その商品はバタビア総督府がスチュワートがバタビアで作った負債の返済の一部に充てることが出来る。ようやくワルデナールの意向通り丸く収まったのである。11月4日出航の前日、スチュワートが彼をバタビアに渡航させることについて、抗議の書面を用意して現れた。バタビアへ行けば、彼の商品が負債のカタに押収されることは明々白々だからである。ワルデナールはその抗議を受け付けなかったが、翌日の出航の際にはひと悶着あると思ったようである。だが彼の予想に反して11月5日、マサチューセッツ号とエンペラー号は平穏に出航した。オランダからの渡来船がバタビアへ出航する際は長崎奉行に謁見して挨拶することが記されており、それはワルデナールと二人の船長と想定されるが、詳細は日記にはない。

こうして1800年エンペラーオブジャパン号(天皇号)の出現はワルデナールの骨折りでどうにか長崎奉行所の疑惑を招くことなく解決した。ここまでの経過は分量としては長い文章だったが、印象としてはずんずんと出来事が起こり続けたように感じるのではないか、と読者の皆様には思えるのではないだろうか。だがワルデナールとドゥーフが長崎に到着してエンペラーオブジャパン号を見て驚いたのが7月16日、スチュワートがバタビアへ不承不承出航したのは11月5日であるから、実に111日も経過している。その間に日記に記述があるのは7月が8日、8月は5日、9月は4日、10月は5日、11月が4日の計26日に過ぎない。表をまとめたのでご覧いただきたい。現代から見れば江戸時代の時の流れは緩く感じるが、長崎のそれはもっと緩慢であった。一つには江戸との距離感である。3年後のロシアの全権大使レザノフが来航した時に幕府が最も利用したのが、裁断を仰ぐ長崎奉行との通信の時間的距離であった。長崎とのやり取りの往復に要する時間だけで2週間はかかる。「レザノフ来る!」の急報が数日かけて届いても、老中の決断は素早く出るはずもなく何らかのリアクションが長崎奉行へ届きレザノフに伝わるまでの時間単位は日数でも週数でもなく月が単位となる。ロシアという北方の大国の全権大使を平気で数か月間待たせるようなことが起きてしまう。幕府はレザノフが呆れ果てて諦めることを意図してやった気配もあるのだが。次はスチュワートの場合だが、5月に入港しても出航は風が変わる秋となる。今と違っていつでも出航できるわけではない。バタビアへ帰るマサチューセッツ号に乗船させるのだから尚更である。かくしてワルデナールがいかに解決を焦っても、スチュワートもマサチューセッツ号も11月初めまでは動きようがない。関係者はみなそのことが分かっているので、あたふたと動かないのだ。三つめは「長崎時間」である。私が小学生の時、子供会の集会で決められた時間に会場へ行っても誰も現れない。関係者のおばさんが不審そうな私を見つけて「あんた、長崎時間ば知らんとね。みんな、ゆっくり来るとよ」と教えてくれた。確かに会が始まったのは定刻より1時間以上も後だった。その刷り込みがあって私はすっかり時間にルーズになってしまったのだが。それはともかく、定刻などあまり意に介しない生活テンポが長崎にあったのは事実で、この物語のころは誰も物事の解決にあくせくしていなかっただろう。

そんな中でのワルデナールである。彼の日記は7月16日到着の日から25日まではわずかな例外を除いて毎日記述がある。着任早々で緊張していたことと、オランダ旗を掲げたエンペラー号が長崎にいて、ワルデナール等の到着を待ちわびていた奉行からの連日の問い合わせが続いたせいである。やがて記述は週に1回のペースに落ちる。この頃は輸送してきた商品の鑑定や入札が長崎会所で行われていたこともあったろうし、スチュワートは船中泊なので毎日顔を突き合わせていることがなかったせいもあろう。しかしそれだけではなく、ワルデナールも長崎ペースに慣れてきた、あるいは早期解決に動こうとしても動きようがなかったのかもしれない。ワルデナールの日記には特徴がある。それは「無力」という言葉が何度も出てくることだ。9月21日の日記には『当地にあっては些かなりとも権力を行使することができない、という無能力ぶり』という記述があり、10月23日の日記には2か所、『われわれは(恥かしいことに)本件を執行するための権限をもっていない』、『われわれが職務権限以外では無能力な状態』と 記している。ここにはワルデナールの懊悩が期せずして表現されているので、そのことを考察してみたい。

ワルデナールは1779年3月水夫として14歳でジャワへ来てオランダ東インド会社に職を得て以来、セマラン(中部ジャワ)、バンダ(ジャワ東のバンダ海にあるバンダ諸島(モルッカ諸島とも呼ばれる)の要衝)での駐在を経ながらオランダ東インド会社内での序列を上げ、1797年にはバタビア(ジャカルタ)で本社勤務となった。オランダの植民地統治は苛烈なことで有名である。世界史に汚点を残すほどだ。ジャワの人々に権限を委譲することなどはしなかった。それだけにセラマンでもバンダでもバタビアでも、オランダ人は「全能の人」として君臨した。だが長崎での状況はまるで一変する。前例に無いことは一切許されず、すべて奉行(重要なことは幕閣)の裁可を仰がねばならない。そのやり取りも直接の対話ではなく、年番大通詞を介して行われる。その一切を監視する通詞目付(ドゥーフは自伝でspyと表現している)が目を光らせている。またオランダ商館内においてもワルデナールは新参者である。長崎でのプロトコルについてはバタビアで入念なオリエンテーションを受けてきたであろうが、商館長代理ラスをはじめとした滞在が長い経験者のアドバイスも必須であったろうし、すべては政策評議会を開催しその審議内容は記録に残し公文書としてバタビアへ送らねばならない。会議での決裁はこれまでの勤務で慣れていたろうが、ここでは船長も出席が出来るし決議に関わることになる。彼と一緒に来た若いドゥーフは利発で将来性豊かだが、彼もワルデナールと同じく新参者である。その一切合切に加え、最も重要なポイントは前述したようにGourley教授が指摘した「警察権が無い」ことである。これは自由人スチュワートの私的財産(様々な疑問はあるものの)であるエンペラー号や積載商品を押収できないことを意味する。しかも長崎奉行所にはスチュワートが祖法の埒外にいる違法訪問者であることを絶対に悟られてはいけないのだ。長崎到着以来のワルデナールの考え方や実際の処置を見ると、能吏と言ってよい。生真面目な官吏タイプであり、今でいうコンプライアンスを重視するタイプであったろう。一方で、スチュワートはマイペースであった。日本酒200樽(300樽とも言われる)を買い付けるなど、ワルデナールが「一切スチュワートに商売させないように」と通詞たちに言ったにもかかわらず、相変わらず恐れ入った様子は全くなかったと思わざるを得ない。200樽や300樽(一斗樽か?今の価格では1樽7万円はする)の日本酒となると結構な額になった筈だが、それを信用売りした商人がいたということだ。もちろんその取引を取り持った通詞もいたことになる。マサチューセッツ号の乗組員クリーブランドの日記によれば、スチュワートはマサチューセッツ号の誰ともすぐに親しくなったという。二人の船長ハチングとスミットも特にスチュワートへの嫌悪感を示した様子は見られない(これは後にバタビアへの帰路時のハチングの行動で証明される)。とすると、実はスチュワートは日本人にもマサチューセッツ号の乗員らにも人気者であったのではないか、と思われるのである。イライザ号の沈没の後、木鉢の収容施設に滞在した彼に軽輩の通詞たちがいろんなものを贈って歓心を買ったことは既述した通りである。スチュワートに疑いの目を向けていたのはワルデナールとドゥーフの二人だけだったのではないか、という気がする。ワルデナールの無力感、会議に備えて懸命に理屈付けを図る裏には、彼は孤立していたのではないか、と思えるのである。ワルデナールは持病があったという資料を見た覚えがある(残念ながらどの資料かわからないのだが)し、彼は健康に自信があるタイプでなかったのか、3年後の1803年には若いドゥーフに商館長を譲ってバタビアへ帰っている。

一方で、ワルデナールが公言していないが、もう一つの隠れたミッション(役目)にも進展があった。長崎商館の存続を脅かしたヘンミイの抜け荷疑惑の尻尾を掴んだことである。ヘンミイ、上級通詞(後にスチュワートが関わった)を巻き込んだ計画の証拠書類を掴んだことである。ヘンミイは名村多吉郎と本木庄左衛門という二人の大通詞(最高位)に、「自分の計画を援助するなら個人用にもう1隻の船を長崎へ送らせる」からと文書で確認させたのだ。それを二人の大通詞から手に入れたのである。ワルデナールはその写しをバタビアの総督府へ届けさせている。薩摩藩、中でも藩主の島津重豪が絡んだ抜け荷計画の詳細は別の章で触れることにし、長崎を出航したスチュワートのその後をGourley教授の論文から追ってみよう。

スチュワートが乗船させられたマサチューセッツ号の船長ハチングとは同じアメリカ人であることから、親密になることはスチュワートにとっては訳ないことだったろう。それどころか口八丁のスチュワートは見事にハチングを“スチュワート・ワールド”の中に引き込むことに成功したようだ。バタビアへ直行する筈のマサチューセッツ号はなんとマニラに寄港したのである。スチュワートはハチングを言いくるめてアメリカ国旗を掲揚してマニラに入港したものと思われる。マニラに上陸するとスチュワートはスペイン総督(当時フィリピンはスペイン領)と会い、ハチングを紹介する。前年イライザ号が本当にフィリピン沖で沈没した(そして銅も海の藻屑となった)かどうかは不明だが、マニラでこのスペイン総督と知己になったのは事実のようで、スペイン語の海難証明書を作成できたのはこの総督のおかげであろう。ここでスペイン総督はスチュワートに日本との貿易が可能かどうか打診したようだ。私の推測ではスチュワートは、もちろん可能だ、と断言したと思う。日本への渡航は3回(1797年、1798年から1799年、1800年)に渡るし、長崎滞在日数は計20か月ほどにもなるからだ。入港と交易のプロトコル、あらゆる風俗習慣、通詞社会や奉行所の役割、などに慫慂していることを立て板に水のように話して総督を幻惑し、自分の価値を高く売り込んだだろう。このスチュワートの話に刺激されて「オランダが独占している日本との貿易」に割り込むことが出来れば大手柄になるし、個人的な儲けも巨大になるとスペイン総督は踏んだのだろう。スチュワートは、自分なら長崎と貿易できる可能性がある、と答えただろう。スペイン総督に期待を持たせただけでなく、実際にその腹案が膨らみ始めていたこともあったろう(その内容は次章で明かされる)。だが私はもうひとつ裏があると思う。昨年スチュワートはフィリピン沖で沈没したのではなく、マニラに寄港してスペイン総督に銅を売り払ったと思うのだ。総督の儲けが大きくなるように、市場価格より安く売っただろう。スチュワートは銅を売却出来ればそれでよいのである。そのうえでイライザ号を改修(改造?)してエンペラーオブジャパン号に作り替え、商品を仕入れ(砂糖以外はガラクタを売り込んだスペイン人の方が一枚上手だったかもしれない)、長崎に現れたのではないか、と思う。こう仮定すると、13億円と試算される価値の銅を安く売ったとしても10億円ほどの売却利益をスチュワートはどうしたのだろうか?私椋船(パイレーツ/海賊、往々にして国家公認)が跳梁する18世紀末にこれほどの大金を保管もしくは送金するシステムがあったのだろうか?それが解明されないと私の「マニラで銅売却仮設」はやや根拠薄弱になり沈没説が有効になるのだが、イライザ号の船尾の一部と思われるものがエンペラー号に使われていたという事実は、やはりイライザ号がマニラに無事寄港した説を補強すると思われる。前に紹介した『18世紀における国際的決裁とアムステルダム銀行』において“17 世紀に入り商業都市として発達するアムステルダムでは為替手形の利用が拡大し、預金業務や為替業務をおこなう出納業者(kassier)が出現してくる”とある。18世紀末においては為替システムはもっと進展しただろうから、それをスチュワートが知らないはずがない。問題はマニラでそれが有効だったかどうか、だ。今の時点ではそれ以上のことはわからない。因みにドゥーフは自伝の中で江戸参府で知ったこととして“越後屋(三越の前身)は日本の大きな都市には店舗があり、江戸で買ったものが気に食わない、あるいは合わないということであれば商品にダメージさえ無ければ江戸で買った価格を長崎で払い戻してくれる”という仕組みに驚いている(2019年シーボルト事件に関して重大な新資料が見つかったと長崎新聞が報じたが、それは三井越後屋の長崎代理店の中野用助という人物の手紙であった。ここから当時舶来品の到着地であった長崎に呉服商三井越後屋が出店していたことがわかる)。また米相場から「先物」というデリバティブの概念も日本から生まれた。日本の商業界は信用が極めて重視されて、当時の世界水準の先端を走っていたといえよう。国際決裁という国境を越えない鎖国で閉じた商業界だから可能になったという面も大きかったろう。

さて、マサチューセッツ号はその後バタビアへ到着した。ここからもGourley教授の論文を参照する。バタビアの政治的環境は激変していた。本国オランダで親仏派のリフォーマー(改革論者)であるHorgendorpホーへンドルプが“アメリカ人と自称するスチュワートは本当は敵国イギリス人であり、東インド会社は敵性人物を長崎貿易に使用している”と会社を非難する本を出版したのだ。彼は従来から東インド会社を敵視しており、そのうえ次期バタビア総督に就任するのでは、という観測まで出ているという。余談ながらこの本は意外な影響をもたらした。後に一時的にジャワ総督に就任(イギリスのジャワ短期統治期)したスタンフォード・ラッフルズにスチュワートはイギリス人と思いこませることになったのである。それはさておき、バタビア総督府によってエンペラー号は押収され、スチュワートは軟禁状態(とは言えスチュワートのことだ、バタビアの街を自由に歩き回っていたろう)でこの間の行状(特に1798年の銅の行方とヘンミイの抜け荷疑惑)について取り調べを受けるが、Gourley教授は「その進展は極めて緩慢」と述べている。長崎時間に通ずるバタビア時間とも言うべきテンポの遅さがあったのだろう。四季に恵まれた長崎に比べ、赤道に近い炎熱のバタビアはテンポがもっと緩やかだったかもしれない。

そこでスチュワートは業を煮やし始める。Gourley教授は簡潔に“Stewart saw his prospects for profit ebbing away.スチュワートは儲けの見込みが失われていく”と記しているのみであるが、ここの“儲けの見込み”とは何を意味するのだろうか?売却した銅代金の受け取り期限であろうか?そこで1802年(1年以上バタビアにいたことになる)スチュワートは脱走を決意する。これには3説あり、オランダの歴史学者は「セマラン(ジャワ島中部の都市)に行く振りをしてアメリカ船Portlandに乗船し、モリーリシャスに向かった」という。一方で日本の研究者の説として(誰の研究を意味するのか調査中)「停泊中のアメリカ船を乗っ取り逃れた」というのと「オランダ東インド会社の米運搬船を乗っ取り、後に米と荷物を売り払った」とあるが、Gourley教授は船舶乗っ取りは重罪なので米船でモーリシャスに向かった説が妥当ではないかとしている。さらにスチュワートの逃亡は、ヘンミイの抜け荷計画に関係する重要証人が消えたわけだから、東インド会社にとって渡りに船だったろうと推測している。それだけヘンミイが残した疑惑はバタビア総督府にとっても重圧だったのだろう。本国オランダのバタビア総督府のやり方に批判的な人物に長崎商館長が私的な動機による密輸疑惑の渦中で客死したという情報が広まったら、極めて厄介な事態を招来しただろうからだ。

こうしてスチュワートは1802年、いったん行方が知れなくなる。だが、彼の物語は終わらない。次の章で彼のさらなる破天荒な行動を紹介しよう。

PS

ここでワルデナールが突き止めたもう一つの秘密に触れなければならない。それは通詞社会のトップに君臨する大通詞の抜け荷関与の疑惑である。