33 ペリュー報告書とドゥーフ日記 

これまでフェートン号の艦長であるフリートウッド・ペリューの生い立ちや若くしてあげた勲功などを取り上げてきた。だが、この長崎への歴史的な航海でストックデールが書いた航海日誌にもフリートウッド・ペリューの肉声はほとんど皆無である。唯一残されているのは長崎港滞在中に書いた数枚の手紙だけが彼の足跡である。その他には拉致されたオランダ商館員の『船長が非常に若い十代の若者であること、日夜24時椅子に着座して不動の、堂々たる指揮官の風情であった』と言う証言(「長崎オランダ商館日記」)しかない。だが、ここで幸運にもペリュー艦長が帰還後に提出した報告書が存在することがわかったのだ。宮地正人が発掘し、その全文が宮地正人「ナポレオン戦争とフェートン号事件」(『幕末維新期の社会的政治史研究』の序章に収録、岩波書店1999年)と言う論文に日本語訳でまとめられている。残念ながら原文の英文ではない。 7,200字、原稿用紙約18枚分の報告書である。

その内容は、①長崎との貿易に関わるあらゆる情報を公開しないオランダへの非難と、オランダ人の航海術への侮蔑、②長崎港口発見の困難さと、取るべき進路、港口の島々、港口の番所(警備所)の詳細、③この航海の歴史的意義の自負(注意して読み解かねばならないが)、④長崎襲撃時の行動詳細と、拉致したオランダ人や目に触れた日本の船や奉行所の人々の観察、⑤これは極めて重要なことだがフェートン号が長崎を襲った真の目的の吐露、⑥出島のオランダ人の境遇と、監視する日本人との関係についての的確な考察、⑦奉行所が調達した食料や薪、水などから感じた日本人の几帳面さや清潔さ、が綴られている。

フリートウッド・ペリュー艦長については長崎襲撃時に日本側やドゥーフに書いた短いメモのような手紙しか知られていない。これまで彼については、日本の船や中国のジャンクを焼き討ちすると脅迫したことが重大視され、後に水兵への過酷な鞭打ち刑が原因で反乱を起こされたことで、粗野で冷酷な艦長と言う印象を持たれやすい。それは事実ではあるが、この時フリートウッド・ペリューは満18歳10ヶ月(1789年12月13日生まれ)、19歳にも満たない年齢にしてはこの報告書で見る限り冷静な観察と分析をしており、意外と大人びた印象を受ける。それはやはり9歳でMidshipman/士官候補生として乗艦して年嵩の水兵達を顎で使いながら成長し、15歳で士官に昇格、16歳で艦長(Javaという小型艦)、今や350人の乗組員を指揮する立場が彼にそのような子供離れした視野を持つ機会を与えたのだろう。ネルソンなど名家の出身者達も押し並べて幼少から海軍に所属したが、ネルソンですら士官には18歳、艦長になったのは20歳だから小型艦とはいえ16歳で艦長になったのは父エドワード・ペリュー提督の身贔屓(ネポティズム)が過ぎると言えよう(彼だけではない、長男のポウノルPownollも弟フリートウッドのような適性に欠けるにも関わらず、巨大戦艦(戦列艦)の艦長に若くして就任したのだ)。

そしてまたもう一つの発見は、フリートウッド・ペリューも実に筆まめな父エドワード・ペリューの息子だけあって、立派な報告書が書けると言う事がわかったことである。父譲りのある程度の文才はあったと言える。筆まめでは無かったようだが。

私自身が19歳前後の頃の考え方や判断を思い出しても、また今の若者たちの思考などと比べても、フリートウッド・ペリュー艦長の報告書には、成熟した人間の感じが強い。

この報告書で明らかになったことだが、フリートウッド・ペリュー艦長は、長崎港への手書きの地図を所有していた。これは今まで全く知られていなかったことで、驚くべき発見と言えよう。その手書きの地図はバタビア(ジャカルタ)でオランダと傭船契約を交わしオランダ船と詐称して長崎へ来た米国船マウント・ヴァーノン号の船長から入手したものである。通常来航船の船長名は長崎オランダ商館が幕府に提出する公文書『オランダ風説書』に書き留めてあるがマウント・ヴァーノン号の船長の名前は残念ながら書いてない。このマウント・ヴァーノン号は同じく傭船であるデンマーク船スザンナ号とともに1807年、つまりこの物語の前年に初めて長崎へやって来た。松平図書頭が長崎へ着任した9月に停泊していた2隻の来航船がマウント・ヴァーノン号とスザンナ号であったのだ。松竹の表挿入 9月末(和暦)に長崎を出航した後バタビアで荷を下ろし、傭船契約を終了した後はインドへ向かい、そこで日本の情報を求めていた英海軍/エドワード・ペリュー提督に長崎地図を売り渡したか、あるいは洋上で英艦に拿捕されて地図を押収されたか、だろう。その地図は正確であった、とペリュー艦長は評価している。実はストックデールの航海日誌の中に、台湾海峡、および長崎港口の2枚の地図が挿入されている。地図挿入 この地図こそが、マウント・ヴァーノン号の船長の手書きの地図を模写したものと考えて間違いないだろう。 ストックデールが模写した長崎港口の地図には、 艦上から測深した海底深度が丹念に記されている。この航海全般に渡って、フェートン号は陸地に近ずく度に測深し、日誌に記録している。これは将来英海軍の海図として残すためであろう。これによりフリートウッド・ペリュー艦長が②で書いているように長崎港口を探し求めて、あちこちさまよったフェートン号の航跡がほぼ解明された。それは次の章で詳細に伝えていこう。

上述した①の長崎の情報を公開しないオランダへの非難、の意味を考えてみよう。専ら日本ではオランダは世界への唯一の窓として評価されているが、その窓は「オランダ風説書」(オランダ船が来航する毎に幕府へ届けられる世界情勢解説の公文書)に依拠しており、そこで報告される世界情勢はバタビア(ジャカルタ)と長崎オランダ商館との間でオランダにとって都合のいい様に“創作”されていた。日本にとって唯一の世界への窓は歪んだレンズ越しであった。この物語の時期(ドゥーフの在任中を含む)はその“創作”が一番激しく、アメリカの独立を始め、ナポレオンによるオランダ併合(つまり江戸幕府公認貿易相手国であるオランダ(ネーデルラント連邦共和国)の消滅とバタヴィア共和国の成立、さらにはナポレオンの弟を国王とするホラント王国になっており、オランダ国王はイギリス亡命していること。バタビア(ジャカルタ)他インドネシアはナポレオン軍の支配下にあったこと)や東インド会社の破産なども伝えられていない、というより隠されていた。一方で、 ヨーロッパにおいてはオランダが日本との貿易を独占するために日本についての情報を全て隠蔽していたことが、このペリュー艦長の報告書によってわかる。 ペリューはこう述べている。

オランダ人は、もちろんのことながら、日本が知れ渡るのを隠蔽することに関心を持つだけではない。非常に危険だとの観念がこの地域への航海と結合されることを切望してもいる。このために、彼等は自分達の航路に係わるいかなる海図をも決して公開してこなかったし、また、彼等のどのような発見―――それは、しかしながら私は思うのだが、非常に限られたものだ―をも、他の諸国民の福祉のために伝達しようとはしなかった。』

彼によれば、日本への航海がいかに危険を伴うか、という情報の拡散にオランダは腐心していたようだ。オランダ船唐船以外の外国船が迂闊に長崎に入港すると幕府に厳しく取り締まられ、死罪にすらなる恐れがあると喧伝していたのだろう。もちろんそれは人道的な目的のための警告ではなく、長崎に他国の船が貿易を求めて寄港することを阻止するためだった。オランダは当時フランスの属国としてイギリスの敵国であったからフリートウッド・ペリューのこの意見は当然な面はあるが、オランダの日本貿易独占と情報の秘匿を苦々しく思っているヨーロッパ諸国の思い(国際世論)も代弁しているのではないか。だがこの物語ですでに見た通り、スチュワートの来航もロシア使節レザノフの来航も日本は無法に処断してはいない。長期にわたる軟禁という手法ではあったが、出航時には食料や薪水を補給するなど「人道的」な扱いはしているのだ。事実を隠蔽し、日本への海図も非公開にしてまでも、日本との貿易独占へのオランダの意思の固さと固陋さを我々はこの報告書の指摘で確認できるのだ。

杉浦昭典先生によればオランダの造船技術は17世紀18世紀においては世界最高水準であったということであるが、その航海技術についてはフリートウッド・ペリューによれば『あらゆる海洋諸国民の中で、オランダ人が航海科学への寄与がもっとも乏しかったということは、すべての航海者の間で確かに悪名高いものになっている。どんな発見を彼等がなしたにしろ、概していえば、彼等につきまとって離れない狭量で下劣な政策の結果、彼等の海図は、世界のいかなるものよりも、 依拠されることが少ない。 経度は相変わらず推測航法によって決定されており、航海についておこなわれた現代的で重要な諸改善は、彼等にとっては知られていないか、考慮には値しないもののように見える。』

と身も蓋もないほど見下されている。これは英海軍のオランダ航海術の共通認識であったのだろう。経度が天測ではなく推測航法によって決定されているのというのは驚きである。当時の急速な航法の進歩がオランダ人には関心がなかったというのもショックである。そのオランダを日本は信頼し切っていたのではあるが。

さて一方で⑥出島のオランダ人の境遇と、監視する日本人との関係についての的確な考察、について考えよう。これは長崎港を襲撃した後にペリュー艦長自らが港内を探索し出島に近づいた時のことである。

これらの不運なオランダ商人達が居住することを運命づけられているものよりも、みじめな状態を想像するのは不可能である。 厳しい警備隊がこの島にはつけられており、そこから彼等は離れることを決して許されてはいない。 どのような種類の書籍ですら彼等には許されず、書籍や禁じられている他の品物を密輸入しようとするいかなる試みも死罪をはっきりと伴っている。』

と出島に居留するオランダ人の窮状を描いている。ここから分かることは、出島におけるオランダ人の環境、つまり厳重な統制下にあることを正確に認識していることである。その知識の度合いが尋常ではない。噂話程度の情報ではないのだ。この知識はどこから来たのか。マウント・ヴァーノン号の船長からの知識も含まれるだろうが、私はスチュワートの影がある(15章と18章)と思うのだ。マウント・ヴァーノン号の船長は一度きりの訪日である。だがスチュワートは長崎滞在日数が実に718日間である。彼特有の観察眼で、長崎奉行所の役人と通詞達の監視体制と、来航した船の武装解除(小火器や火薬樽の押収と陸揚げ)、船内の本や書類の徹底検証(キリスト教関係本の密輸阻止のため)、時代錯誤の衣装の強要(江戸参府の折は2世紀前の徳川家康時代の正装をしなければならない)などのディテールまでスチュワートほど精通した西洋諸国の人間はいない。それらの知識を8億円(現在の時価)とも10億円とも推定される彼が横領した銅の話とともにベンガルにおいて吹聴したのだろう。英海軍の若き艦長が出島のオランダ人の境遇について詳細に承知しているのは、日本に精通したスチュワートという情報源があったから、と考えるのが正解であろう。拘留したオランダ人の身なりをフリートウッド・ペリュー艦長は「みすぼらしい」と断じ、着替えの帽子や衣服の提供まで申し出る。オランダ人はこれを頑なに拒否し、またフェートン号来航の目的を水や食料の補給のためだけにして彼らオランダ人の存在とは無関係だと言ってくれとフリートウッド・ペリューに懇願するのだが、その理由を「(オランダ人への)日本人の報復にある」と彼は正確に見抜いている。その判断力に私は感心するのだ。19歳未満の若者の判断力理解力を超えているというのはこの点である。

また、これは私の全くの推測であるが、フリートウッド・ペリューが敵側のオランダ人の身なりに関心を持ち着替えの提供まで申し出たことに彼なりの身なりへの日頃の気遣いがあるのではないか、と思える。数ヶ月の航海中はマラッカとマカオの寄港時を除けばシャワーも入浴も無い。だが彼にはおそらくインド人の少年の召使が1人もしくは複数いたことだろう。彼らの世話でいつも手入れの行き届いた士官のユニフォームをきちんと着こなしていた艦長像が思い浮かぶのである。マドラスの社交界で「こんな美しい青年は見たことがない」と感嘆されたフリートウッド・ペリューである。彼がダンディであっても少しも不思議ではないのだ。りゅうとした士官の正装は、思い思いの服で乗艦している水兵たち(この頃はまだ水兵の服装規定もなく、制服も支給されていなかった)への権威づけとしても極めて有効であったに違いない。

さて、冒頭にこのフリートウッド・ペリュー艦長の報告書は、宮地正人「ナポレオン戦争とフェートン号事件」(『幕末維新期の社会的政治史研究』の序章に含まれていると書いた。むしろこの報告書は宮道論文の中では付録のような存在で、論文の主眼はナポレオン戦争下でなぜフェートン号がはるばる長崎まで航海して来たか、その目的について分析しているのだが、その推測について異議があるのだが(20章 航海目的の解明)その反論は別の章で展開することとする。

この報告書がフリートウッド・ペリュー艦長の肉声とするならば、襲撃されたオランダ側の資料として貴重なのが、オランダ商館長ドゥーフが記述した秘密日記「長崎オランダ商館日記」(日蘭学会編纂)と、彼が本国オランダに帰国後に書いた「Recollection of Japan」である。

「長崎オランダ商館日記」は時々刻々と変転する情勢をリアルタイムで日記に残したドキュメントであり、出島商館に住むオランダ人側の記録であるとともにドゥーフから見た日本(長崎奉行書と長崎の人々)の対応が記されていると言う点で価値がある。拉致された商館員2人が証言するペリュー艦長とのやり取りの模様は極めて重要な資料である。また彼の時刻表記は現代と共通する定時法なので、日本側資料の不定時法(”巳の刻“、など。日の出日の入りが基準になるので時刻や時間が季節により違いが出る)と比べて、3日間の出来事の時刻確認が容易になる。

またもうひとつのポイントは、日本が200年にわたって鎖国を続けた結果、西洋の軍艦と海戦の知識が皆無だったことがわかることである。奉行松平図書頭はフェートン号への攻撃や焼き討ちを企図するが(結局、兵力不足と資材調達困難で実現できなかった)、その度にドゥーフの意見を求めざるを得なかった。200年以上の間に数百艘のオランダ船が来航したにも拘らず、武装解除や火薬の押収と保管はしたものの、西洋の近代戦については目と耳を閉ざし続けた報いであった。松平図書頭の切腹後に事件を捜査した後任奉行曲淵景露においても、フェートン号の戦闘力を含め西洋諸国の軍艦の威力と海戦手法をドゥーフに尋問せざるを得なかった。ようやくその必要性が認識されたと言うことだ。これらの経緯はドゥーフの日記と回想録によって明らかになったのだ。

私のような後世の研究家にとって極めて残念なのは、商館長ドゥーフが拉致されなかったことである。レザノフを乗せたロシア船のときには、奉行の要請で船籍の確認にドゥーフ自らがロシア船に行き、レザノフと会見している。その様子はドゥーフらしい几帳面さで「商館日記」と「Recollection of Japan」に記述されている。 ただ10月4日フェートン号が長崎港に出現した時ドゥーフは病で伏せっていた。そのために書記役と書記役補がフェートン号へ向かって拉致された。もしこれがドゥーフであったなら彼独特の鋭い観察眼でフェートン号の艦上の様子や ペリュー艦長とのやりとりが記録に残ったはずである。これは極めて残念なことである。

一方、「Recollection of Japan」(日本回想記)は、オランダ帰国後にドゥーフが日本滞在の十数年間のことを回想したものだが、フェートン号事件についても彼の脅威的な記憶力を頼りに資料も無く(その理由は別の章で詳述する)書き記しているが、商館日記に記載されていない詳細があり、それが事件の再現に役立つのである。

と言うことで、次章からの再現は、日本側は「崎陽日録」と「通航一覧」をベースとして、イギリス側は艦長報告書と航海日誌にストックデールが書いた異例の感想文をベースとして、オランダ側は「長崎オランダ商館日記」と「Recollection of Japan」をベースとして、事実を元にして進めていきたい。