42 フリートウッド

前の41章では8月15日和暦深夜までドキュメントが進行したが,ここで彼が書いた報告書とストックデールが執筆した航海日誌を元にフリートウッド・ペリュー艦長の動きを描いていこう。

長崎へ向かって東進を始めたフェートン号が五島列島南端の沖合い20kmを過ぎたのは10月15日陽暦,即ち和暦では8月15日の真夜中である。ストックデールが書いた航海日誌によると、「快晴 Light Breeze」とある。穏やかな夜であった。20kmの距離ではあったが、この時間に五島列島の島影を視認している。このさき、長崎で奉行の求めに応じて奉行所の遠目鏡でフェートン号の観察をしたドゥーフの報告からもわかるように、この時代の望遠鏡は既にかなりの高性能なものである。
やがて日の出とともに長崎の陸地が見えた。マストトップの見張りが「Land Ho!」と声を張り上げたはずである。この位置は緯度では、野母岬あたりになる。
正午には、五島列島と長崎の中間点に達した。昨日の正午からの24時間の移動距離は160km。常に北東からの風で船足は遅い。
フリートウッドはオランダ船船長が作った手書きの地図を広げた。オランダ船とは言え、実はアメリカ傭船のマウント・ヴァーノン号の船長J・デビッドソンから入手したものである。デビッドソンは1年前の1807年、オランダの旗を掲げて長崎に入港している。その時に、次回に備えて長崎に入港する手引になる地図を作成したのを英海軍が入手したのだろう。デビッドソンは長崎からバタビア(ジャカルタ)に荷を運んだあと、インドへ向かったと思われる。
実はデビッドソンは長崎奉行松平図書頭と会った可能性がある。図書頭は1807年9月に長崎に着任し、慣例として交代して江戸へ帰る奉行(この場合は曲渕甲斐守)とともに新任奉行は長崎に滞在中のオランダ船(帰帆は9月20日)を視察に行くからだ。もちろんアメリカ傭船であることは毛頭知らなかったのだが。

そのデビッドソンの地図によれば、オランダ人がCavallesと名付けた島の背後に長崎港の

港口がある。Cavalles島は長崎港を遮蔽しているので、その島の西側を回って長崎港に達

するのである。この島の日本名は伊王島と言う。だがフリートウッドは思いがけない光景

に当惑した。見渡す限り緑の陸地が連なるばかりで島など見えない。フェートン号のコー

ターデッキ(船尾艦橋)に立つフリートウッドら士官達もマストトップのワッチ(見張り

)もこの時まだ気がついていないが、全ての島は背景の陸地の緑に溶け込んでいたのだ。

今と違ってこの時の長崎郊外の沿岸には遠方から視認できるランドマーク(目印)は一切無い。漁村や集落もよほど海岸に近づかないと見えない。

当時の船乗りの常識として、フリートウッドは緯度計測の過ちだと判断した。報告書に「緯度の正確性を疑ってしまった」とフリートウッドは書いている。六分儀による位置測定は些細なことで5kmや10㎞の誤差は当たり前なのだ。Dead Reckoningといって、周囲の地形から位置を判断する手法は地初めての土地ではやりようがない。

フリートウッドは南下を命じた。長崎はもっと南にあると判断したのだ。こうしてフェートン号はいくつもの岩だらけの小島が集まった地点に来た。今は「三ツ瀬」と呼ばれて、釣りの名所となっているところである。その先に高く切り立った岬がある。その向こうに長崎港があると思い、その岬の南を巡ると、現れたのは広い海であり、その先の遥か彼方に高い山を見た。雲仙岳(標高1,483m)である。間違いに気が付いたフリートウッドは180度航路を変換して岬を戻り、右手に野母半島を見ながら北上した。

この時にフリートウッドは「緯度32度46分で陸地に向かえば」三ツ瀬にたどり着くと書いているが、実は三ツ瀬の緯度は32度36分50秒である。フェートン号の観測は約10分もの狂いがあったことがわかる。緯度10分の誤差は、距離にすると18.5kmにもなる。大洋の真ん中なら問題ないにしても、沿岸の港を探し出すには大変な誤差となる。

艦上では一番新任の士官ストックデールやMidshipman 士官候補生等が懸命に六分儀で天測を続けていたはずだが、19世初頭においてもこの誤差は避けられない。

フェートン号のこの奇妙な動きは野母岬権現頂上の遠見番所からは眼下に丸見えだったはずだが、その注進はない。恐らく沖出役で全員海上に出動して無人だったのだろう。もし熟練の遠見番がこれを見ていたら、「オランダ船らしくない不審な動き」と注意を喚起できたかもしれない。

だが北上すると、思いもかけない幸運が舞い込んで来た。山の中腹にオランダ国旗を掲げた島を視認したのだ。これでようやく伊王島を特定できたのだ。なぜ伊王島にオランダ旗が翻ったのか?恐らくバタビア発のオランダ船も同じように背後の緑の陸地に溶け込んだ伊王島を見つけるのが困難なため、来航船が近づくと目印のオランダ旗を掲揚するようになったのだろう。これが午後3時15分とストックデールは日誌に記している。この時刻には検使とオランダ委員の一行は、高鉾島付近で待ちわびて、さらに沖へ出ようとしている頃である。

フリートウッドは伊王島の西端を回ると東進を命じた。島の東側には別の島(香焼島)があって、その水路は狭く危険だからだ。
恐らく検使一行とフェートン号とがお互いを視認したのは、ほぼ同時であったろう。マストトップのワッチ(見張り)の叫び声にコーターデッキの士官たちは一斉に遠目鏡で凝視しただろう。お互いの距離は約3マイル弱(5㎞)である。

フリートウッドは興奮を抑えながら、南支那海で何度も繰り返したドリル(演習)通りに選抜したチームに待機を命じ、第一マストと第2マストの帆を絞って船足を制御した。そしてオランダ人水兵のメッツェラール(Metzelaar)をコーターデッキに呼び上げて自分の横に立たせた。

「オランダ旗を掲げよ」とフリートウッドは命じた。巨大なユニオンジャック(英国旗)に代わってオランダ旗が艦尾に翻った。
この頃、36章で見たように沖へ出ていた隠密方吉岡十左衛門が必死でこの不審な異国船を尋問しようとフェートン号の巨体に取り縋ろうとしていたのだが、ストックデールの日誌にもフリートウッドの報告書にもそのことは一切書かれていない。恐らく長崎港口付近に数多く出ていた漁師の小舟の一つとして無視していたのだろう。
「オランダ旗だ!」ワッチの叫び声に士官たちは再び一斉に遠眼鏡を覗いた。幔幕が張られた格式ばった大型船の脇の和船が赤白青の水平三色旗を掲げている。

「あの船を目指せ」その命令よりも早くボースン(甲板長)の笛で操帆と舵取りが行われた。この時は8m/sから10mの割と強い風が吹いていたが、フェートン号の操船は見事でオランダ船へ向かうと至近距離で停止した。
オランダ旗を掲げた和船が近寄ろうとするが、逆風でなかなか近づけない。

これを見たフリートウッドは小艇にオランダ人水兵メッツェラールと15人ほどの水兵たちを乗組ませ、その小艇がオランダ人の船に向かいやすいように素早く舳先を回した。そして小艇をスルスルと海上に降ろすと、小艇はオールを揃えて漕ぎ出し、すぐにオランダ人の船に近寄った。この時の時刻を午後5時30分とストックデールは日誌に記している。日没(午後6時02分)は近いがまだ明るく、快晴であった。
オランダ人二人が船縁に出て「どのこの国の船か?」と聞くので、すかさずメッツェラールが「バタビア(ジャカルタ)から来た」と返事した。オランダ人は「去年帰国した商館員イイキスは渡来しているか?」と聞くので「乗船している」と話を合わせてメッツェラールが答え「こちらへ乗り移られよ」とオランダ人に呼び掛けた。それに対してオランダ人が「もうすぐ日本の役人(検使のこと)がこちらに来る」と答えた。検使が乗る大型船はオランダ人の船のすぐ脇に近寄ろうとする時、それを見たフリートウッドは「オランダ人二人を捕らえよ!」とメガホンを口に当てて叫んだ。途端に水兵たちは隠し持った剣を抜き、応答していたホウセマンの体を掴むと小艇へ引きずり込んだ。もう一人のオランダ人シキンムルはそれを見て慌てて乗っている船の後ろに逃げたが、それを追って抜身の剣を振りかざした水兵たちが乗り移って来たので漕ぎ手たちは悲鳴を上げながら海へ飛び込み、大混乱となった。ホウセマンとシキンムル、二人のオランダ人を拉致した小艇はその混乱に目もくれず本船に戻ると素早く甲板へ吊り上げられた。日本人が見たこともない早業だった。
拉致された二人のオランダ人はフェートン号艦上に降り立つと、恐怖に捕らわれてはいたが勇を振るって「船長に会いたい」とメッツェラールに懇願した。この前例の無い緊急事態がなぜ起こったのか、を直接確かめたかったのだ。
メッツェラールがその言葉を訳すと、オランダ人を取り囲んだ水兵たちの中から長身の士官が前に出た。オランダ人二人が驚いたことには18歳か19歳の若者であったことだ。だが乗組員の誰もが彼を畏怖していることはすぐに分かった。仕立ての良い士官服に磨き上げられた長靴の士官はたとえ年齢は若くても薄汚い水兵たちの中で光彩を放っていた。彼の他に士官の姿もあったが、貫禄と立ち居振る舞いがまるで違った存在だった。艦長フリートウッド・ペリューがオランダ人の前に出現した瞬間である。

フリートウッドはメッツェラールと共に二人をコーターデッキ下の広々とした艦長室へ連れ込ませた。そして自ら短筒(ピストル)を抜くと二人の胸に突きつけて何事かを尋ねた。メッツェラールがそれを訳した。
「バタビアから2艘のオランダ船が着いている筈だ。どこにいる?まだ港内に停泊しているのか?嘘を言えば命を落とすことになるぞ」

ホウセマンとシキンムルは首を横に振って「今年は来航しておりません。神に誓って真実を申し上げます」と答えると、フリートウッドは

「バタビア(ジャカルタ)を出航したポルトガル船から今年は2艘のオランダ船が長崎へ向かって発った、という情報を入手したのだ。もうとっくに入港している筈だ」と自信たっぷりに言った。
これこそが7月10日にマドラスを出航して、3か月もの航海をして長崎へ遠征してきた目的をフリートウッド自らが明らかにした瞬間である。ナポレオン戦争でフランスに敵対するポルトガルは英国の友邦である。そのポルトガル船から得た「今季2艘の船がバタビアを発して長崎へ向かった」という情報に、その2艘の捕獲のために父エドワード・ペリュー提督はインド洋艦隊司令長官職を去る間際に、目に入れても痛くないほど溺愛する次男フリートウッド・ペリューのために日本遠征を命じたのだ。インド洋艦隊の後任司令ルーリー提督に全権を移譲する前に、艦隊屈指のフリゲート艦フェートン号をインド洋の第一線から剝ぎ取って、戦略的に何の意味もない日本への航海に向かわせたのだ。長崎から様々な品々を積載してバタビアへ向かうオランダ船、その最大の価値ある積み荷は銅である。スチュワートの章で見たように、その銅の価格はヨーロッパの市場で売り払えば現在の10億円に近い価値がある。2艘で20億。既定の分量を国王に献上しても艦長には30%ほどの分配金がある。ほぼ6億円だ。これだけの富をフリートウッド・ペリューが手に入れれば、本国艦隊(青艦隊と赤艦隊がある)の司令長官の職も望める筈だ。これがエドワード・ペリューの目論見であった。
ホウセマンとシキンムルは海上で白刃を振るわれて拉致された恐怖に加えて今また長身の艦長らしき若い士官から胸元に銃を突き付けられて、恐怖に口も利けない状況だったろうが真実を言うしかなかった。「バタビアからは今年は1艘も入港しておりません」と。
「嘘をつくな、正直に言わないと死ぬことになるぞ」とメッツェラールに促されても二人の証言は変わらなかった。

見切りをつけてフリートウッドは「それなら自分で見つけ出すまでだ」と言い捨てると、二人を置いて艦長室を出た。陽が西に傾いている。まずは安全な場所で停泊する必要があった。デビッドソンの地図には長崎港入り口にあるPapenbergと言う名の三角錐の小さな島が来航船の停泊地に定められている、とある。日本名は高鉾島だ。その名の通り「おくんち」の山車(だし)の鉾の形をしている。Papenbergとはオランダ語の「司祭」で、キリスト教弾圧の頃、この島で多くの禁教者の処刑が行われたことからそのような名をオランダ人がつけたと言う。この島から1.4㎞も長崎の町を目指して北東へ行けば、そこは東西(東は女神、西は神崎)から岬が迫って500mにも満たない隘路になっている。バタビアからの来航船は高鉾島に停泊し、所定の検査を受けた後、何十艘もの引き船に曳かれて出島へ向かう。
フリートウッドはこの狭い水路を観察して驚嘆した。まさに天然の要害である。フリートウッドがまさに体験したように伊王島が見事な遮蔽物となって外海からはこの水路が見えず、慣れた船乗りでなくては長崎港へ辿り着けない。この水路を抜けて長崎港に入れば間違いなく袋のネズミなる。1647年(正保4年)、貿易再開を願って訪れたポルトガル船2隻は、各藩から動員された900隻の船で長崎港に閉じ込められたが、その故実をフリートウッドが知っていたかどうかはわからない。だが彼の生まれ持った戦士としての鋭い勘はそれを見抜き、水路の外、高鉾島から1.3㎞南東、北東7㎞に長崎の町の全景が見える海上に碇を下ろして停泊した。
航海日誌によれば午後6時である。間髪を入れずフリートウッドは港内捜索を決断した。オランダ人の供述を信用せず、オランダ船2艘は港内のどこかに隠れていると見たのだ。自らが先頭に立って港内を捜索する。これは若い海軍士官らしい俊敏な決定だった。
フリートウッドは積載している全ての小艇3艘の武装と3隊の編成を配下の士官に命じた。たちまちボースン(甲板長)の鋭い笛が鳴り響き、南シナ海で散々繰り返したカロネード砲(近接戦闘用の小型榴弾砲)の取り付け作業が始まり、1艘あたり40人から50人の乗組員が選ばれ、それぞれが剣や銃で武装した。350人の乗組員のほぼ三分の一が出動することになる。
フリゲート艦には通常カッター、ランチ、ピンネースと言う3種の小艇が積載されているが、その漕ぎ手はカッターが12人から16人(片舷6人から8人)、ランチはもっと大きく18人から24人(片舷9ンから12人)、ピンネースは10人から12人(片舷5人から6人)で、和式の手漕ぎ櫓と違ってボートレースで見るように両舷に漕ぎ手を配置してオールで漕ぐから快足である。

兵員を満載した3艘をスルスルと海上に降ろしたのは午後7時である。日没は午後6時02分、快晴のこの日、西空はオレンジ色から暗い紫に変わり、午後5時21分に東の空に昇った満月が海面を明るく照らしていた。大型の番船数隻や帆を立てた種々の小さな船が彼らを監視して海上にいて、他に3艘のジャンク(唐人の船)を見かけたが、何も手出しをする様子は見えなかった。女神と神崎の岬の間の隘路を抜けると、両岸に軍隊駐屯地のようなものが見えた(西泊と戸町の番所である。この年の警備当番は佐賀藩)が、西洋の石造りの要塞と違って長く白いカーテンが張り巡らされて(幔幕のこと)いるだけでその背後に兵士たちの小屋やテントが見えたが大砲は見当たらない。フリートウッドが何ら脅威を感じないものだった。弓と矢と刀で武装した兵士の姿も見えたが西洋のように士官と兵の階級の区別がわかる制服を着ているわけでもない。

彼らが長崎港へ侵入していくと様々な鐘の音があちこちで鳴り響き、町全体が恐怖と喧騒に覆われ始めていくのがわかった。だがフリートウッドは全く臆した気配がない。20分ほどで出島に近づいた。フリートウッドは「ピストルの射程」というから、出島の水門から20mほどまで近寄ったのだろう。だが彼は上陸しなかった。
報告書で彼は「もしもそれが我々の目標であったとしたら、上陸したかもしれない。」と述べている。
これも重要なポイントである。彼の眼中には貴重な荷を満載したオランダ船しか無かった。フリートウッドの報告書を発見した宮地正人はフェートン号の長崎遠征を『快速船たるフリゲート艦により、北方への航海が可能なぎりぎりの季節までに、北緯三二度以北まで航行させ、長崎港での敵国艦隊の有無と同港の軍事的機能如何を確認させる、これがマラッカにおけるドゥルリーの指令だったと、筆者は今のところ推測している。(「ナポレオン戦争とフェートン号事件」より引用)としているが、父エドワード・ペリュー提督の後任ドルーリー提督のマカオ占領計画と関係があるならば、フリートウッドは彼の報告書にフランス艦隊もしくは艦船の同行について何らかの情報を記述すべきであろうが、それは一切ない。台湾北方(9月8日から9月14日)と東シナ海(9月16日から10月3日)での長期の遊弋はオランダ船を求めての行動である。

また、もし航海の目的がオランダの通商破壊とかフランス艦隊の動向を探るのであれば、強行上陸して商館を襲いバタビアからの指令など機密文書などを奪った筈である。出島には何の関心も示していない。しかも「(出島は)目標ではない」と明言しているのだ。
フリートウッド率いる3艘の小隊はそれから大波止へ向かい、北上して佐賀藩平戸藩島原藩の屋敷が並ぶ大黒町の海岸や北瀬崎(西坂の崖下)の御米蔵のあたりを漕ぎ回った。これが「異人が大波止や大黒町に上陸した」と流言飛語が広まった原因である。様々な鐘のが音狂ったようにそこら中で鳴り響いていたが、フリートウッドがそれに怯えた様子や警戒感は無い。
それから長崎港の一番北になる浦上川の河口を巡り、この川は大型船が遡行できないのを確認すると、フリートウッドはオランダ人の証言が正しかったことが分かった。満月が輝く狭い湾内には大型の西洋式帆船の影も形もなかった。

フリートウッドは気持ちの切り替えが早い若者であったようだ。ここまで実に3か月間の大航海であったがオランダ船がいない以上、富への未練や執着を残した気配はない。まだ満年齢18歳10か月、前途洋々の人生がこれから広がる青年らしさが伺える。

3艘の小隊は西へ向かい長崎対岸の稲佐の辺りへ来た。ここでフリートウッドは手勢を率いて自ら上陸した。彼は「小ぎれいでがっちりした外見の家に立ち寄った。そうしたところ、居住者達はびっくり仰天してみな逃げてしまった(報告書)」と言う。
これはあちこちで半鐘(火の見櫓に備えられた鐘)が鳴っている「敵地」で、フェートン号の艦長としては大胆かつ350人の部下を持つ指揮官としては無謀な行動である。ここにもフリートウッドの若さゆえの冒険心を見ることが出来る。彼にとって長崎遠征は父エドワード・ペリュー提督から指示されたオランダ船の捕獲(と富の収奪)の他に、長崎を初めて訪れた英海軍の軍艦という歴史的意義の意味があった。英船は1623年に平戸から退去を命じられた後、正式使節は来航していない。彼はこのことを十分に認識しており、だからこそ長崎の土を踏んだという実績を残したかったのだろう。

稲佐郷は大波止の対岸1kmの稲佐山の麓に広がる西岸では一番大きな集落で、1598年に悟真寺が唐人によって創建されたことで知られる。長崎に来航し、あるいは定住した唐人の菩提寺となり、長崎で死亡した唐人に加えオランダ人も埋葬され国際墓地としての機能もあった。フリートウッドがそれを承知していた形跡はない。この他、稲佐郷にはかつて銅貨鋳造所や煙硝蔵もあったが郷の発展と共にこれらはよそへ移された。

とにもかくにも長崎の土に足跡を残したフリートウッドはフェートン号に戻るのだが、彼らは日本側から一切の抵抗を受けていない。これはどうしたことだろうか。
37章で見たようにオランダ人が拉致されたとの報に図書頭は緊急配備を行った。町年寄の一人で砲術家の薬師寺久左衛門に石火矢大筒と弾丸や煙硝の配備を命じ、「石火矢配備の地車の音や運搬手の声が山谷に響き雷のようだ」と「通航一覧」は伝えるがそれはどうなったのか?長崎代官高木作衛門の舎弟高木道之助は一隊を率いて稲佐郷への出動を命じられた筈だが彼らは稲佐にいなっかたのだろうか?
考えられるのはそれらの準備中に早くもフリートウッド率いる3艘が港内を徘徊して大混乱となり、大筒の配備や稲佐郷への一隊派遣も出来ていなかったのだろう。普段から段取りを訓練していない限り「いざ鎌倉」となっても対応できなかったと思われる。大波止で準備中に3艘徘徊の報を聞いて右往左往していたのではなかろうか。
一方、フリートウッドは航海日誌によれば9月中に火器演習を8回、積載ボートの修理を5回行っており、乗組員の練度は高い。しかもナポレオン戦争の最中だから実戦慣れしている。西洋式のオール漕ぎで快足を飛ばしフリートウッドは何の抵抗も受けず悠々とフェートン号に戻った。のちに図書頭が激高したように佐賀藩が警衛する西泊と戸町の両番所は3艘の往来を何の手出しもせず見過ごしたのである。

フェートン号では日本側の夜襲に備えて厳重な警戒態勢を敷いていたが、とっくに日本側の反撃を見くびっていたフリートウッドは特に緊張も見せずに艦長室に入った。

捕らえられたオランダ人のホウセマンとシキンムルは、フリートウッドがオランダ船の捜索に出かけた間にオランダ人水兵のメッツェラールともう一人の水兵合わせて二人の監視下にあったが、同国人メッツェラールのよしみで当初の恐怖からは多少は立ち直っていたと思われる。二人はほかの士官から「艦長自身が小隊の指揮を執って港内探索に出た」と言う話も聞いているし、「バタビア総督にダーンデルスDaendelsが着任した」とも知らされた。ダーンデルスのバタビア到着はこの年の1月だから来航船が来ていないので出島のオランダ人はそれを知らなかったのだ。来航船が無い年は出島のオランダ人も日本人同様世界から隔絶されるのである。また二人は士官たちからフリートウッドの本当の年齢を知らされたであろう。

帰って来たフリートウッドは艦長室に戻って二人に「話は本当だった。オランダ船はいなかった。命拾いをしたな」と笑った。二人は改めてその若さとともに精気に満ちた容姿に驚いた。艦長と言いながら、ホウセマンらが見慣れた潮焼けして運動不足から肥満気味のオランダ船の船長たちと違って、長身を糊の利いた軍服に包み、身のこなしが機敏でいかにも颯爽とした立ち居振る舞いである。しかも350人の荒くれ水兵が彼の命令にキビキビと動くのだ。それもまた見慣れた商船とは違う、いかにも軍艦らしい光景であった。

ホウセマンとシキンムルは「オランダ船がいないことが分かった以上、我々を解放してください」とフリートウッドに懇願したが、聞き入れられることは無かった。代わりに寝場所を指示されただけであった。こうしてオランダ人二人にとって嵐のような10月4日(日本では8月15日)は漸く幕を閉じようとしていた。