41 襲撃 8幕 転機

なぜホウセマンが出現したのか? それを語るには少し時間を戻さなければならない。

検使の二人が図書頭から「オランダ人二人を取り戻すまでは生きて帰るな」と厳しく叱責されて西役所を出たから用部屋日記にはその記載が無い。彼らの行動を伝えるのは「崎陽日録」である。
異国船に再度向かうことになった菅谷保次郎と上川伝右衛門は、通詞無しでは交渉できないので大通詞の中山作三郎と名村多吉郎を連れて行こうとしたが所用があると断られた。そこでもう一人の大通詞石橋助左衛門に声をかけると「今打ち合わせ中なのであとから追いかけます」というので御役所付溝口仙兵衝林與次右衛門を召し連れ波戸場(西役所からなだらかな坂を120mほど下る)へ行くと石橋助左衛門が走って來て「西役所で打ち合わせが続いておりしばらくお待ちください」と言い捨てて役所へ戻った。これで大通詞3名が同行不能になった。
大通詞の定員は普通4名でもう一人は加福安次郎(1808年まで)または加福喜蔵(1808年から)の筈だが全く名前が出てこない。この年に安次郎が喜蔵に家督を譲っているからこの頃は病に臥せっていたと思われる。
この大通詞3名がともに同行を断ったことは怯えのせいもあったろう。石橋助左衛門51歳、中山作三郎57歳、名村多喜朗は生年不詳だが同様な年齢であったろう。長崎では大通詞は町年寄格の大御所である。幕臣とはいえたかが与力の検使に随行して危険な任務に赴くだろうか。しかも中山作三郎は、図書頭が検使二人に「再度異国船へ行ってオランダ人二人を取り戻して来い」と命じたときに、上條徳右衛門の袖を抑えて「御引止めください、卵を岩にぶつけるようなもの」と必死で請願したほどであるから、なおさらである。
なぜかこのあたりの事情は「通航一覧」のどこにも記載が無い。大通詞への遠慮かもしれない。「崎陽目録」にだけ詳細に3人の大通詞の同行不能が詳しいことは著者丹治擧直の何らかの意図があったのかもしれない。ちなみに検使二人に同行して終始異国船との交渉にあたった小通詞末永甚左衛門は事件後の調査でその勇気を称賛され、大通詞に昇格という異例の褒賞を受けている。これが意味するところは私の推測が正しいと言えるのではないか。
召し連れる通詞がいなくなった検使二人は大波止から海岸沿いに南へ200mほどの出島へ行き、出島橋を渡って両側に建物や蔵が並ぶ通りを右へ向かい一番奥まで90メートルほど歩き、海につながる水門の近くの通詞会所を訪ねた。ここはオランダ通詞の詰め所である。
ここで検使二人は居合わせた通詞たちに「同行できる者はいるか」と声をかけたところに名村多吉郎が現れたのでこれ幸いと同行を命じると、カピタン(ドゥーフ)から用事で呼ばれたとすぐに出かけたので見合わせていると、警備の者たちが異国船を発した小舟が数艘港内に侵入したとの警報を聞き、再び大波止へ戻った。速足であったろう。そこに石橋助左衛門と末永甚左衛門(小通詞並)の二人の通詞がいたので乗船を命じて船を出した。船は長崎奉行所の堂々たる御用船佳行丸である。だが石橋助左衛門は異国船からバッテイラ(ポルトガル語起源の小舟のこと。長崎では日常語である)が出たと聞くと「波止場へ行けとのお指図を受けておりませんのでひとまず戻り、確認してから直ちにあとを追います」と言うので周りにいた他の船に乗せて帰した。
この時の状況を当時の感覚で振り返ろう。港内からはすべての船が消えている。満月だが対岸の水之浦までは1㎞以上、灯火は見えず、稲佐山は黒々と聳え、漂う海は黒い波が打ち返すだけである。遥か彼方の神崎方面には巨大な異国船が潜んでいる筈である。さぞかし不気味な夜であったろう。石橋助左衛門51歳、怖気(おじけ)づいても責めは出来まい。
彼らが何時に船を出したか?異国船からのバッテイラ3艘が本船に戻ったと確認されたのは10時ごろである。それまでは不安と戦いながら待機していたのであろう。大波止や大黒町に異国人が出現したという騒ぎの最中に彼らがどう行動したかも一切わからない。
が、この後の出来事から推測して大波止を出たのは11時ごろであると想定される。付き従う通詞は小通詞並の末永甚左衛門、この時40歳。検使の乗船佳行丸に随行する御役所付御役所付溝口仙兵衛と林與次右衛門も乗り移り、一行は沖を目指した。
すると途中で遠見番嘉悦忠兵衛の船が佳行丸の提灯を見て、近寄って来た。野母御番所の沖遠見番出役の5艘は恐怖心と戦いながら異国船見張りを勤めていたのである。異国船の様子を尋ねたところ、特に変わりはないと言う。そこでさらに沖へ出て異国船へ近づいた。

異国船の船縁は和船より高く、見上げるほどである。舷側には2段構えの砲門がずらりと並び、砲口が突き出ている。末永甚左衛門が大声でホウセマンを呼んだ。異国船(ここからはフェートン号と呼ぼう)は敵地の中にある。終夜、厳重な警戒をしているから、早くから高いマスト上のワッチ(見張り)から警報が出され、コーターデッキの士官たちも望遠鏡で、近づく小舟に砲や銃器の所持が無いことを確認していただろう。フェートン号船上で話される会話は末永甚左衛門には聞いたことのない言語だったが、「捕われたオランダ人と話がしたい」と言う末永のオランダ語を聞いて、すぐに反応があった。ホウセマンが船縁に姿を現したのだ。検使二人が提灯を掲げて「ホウセマンか?」と声をかけると、ホウセマンが帽子をとって会釈した。その無事な姿を見て検使二人はさぞかし安堵したことだろう。フェートン号の船縁には多くの人間が現れて検使一同を検分している様子だ。
検使達は「どの国の船であるか?いかなる理由で二人のオランダ人を捕らえたのか?貿易をしたくて渡来したのか?」と甚左衛門にオランダ語で通訳させた。これが日本側とフェートン号側との、初めての会話である。貿易が願いか?と尋ねたのは貿易を求めて不審船が現れた前例がいくつもあるからだ。
これに対し、ホウセマンは何事か船上で指示を貰ったのだろう、「夜中に本船へ他の船が近づくことは出来ませんので、御検使様は明朝お越しください」と答えてホウセマンは姿を消した。
だが検使としてはこのまま引き下がれない、「異国船に乗りつけたい」と漕ぎ手に命じて乗船をフェートン号へ漕ぎ寄り「もう一度呼び出せ」と命じたので。甚左衛門が声をかけるとホウセマンが再び船縁に現れた。

「もう一度聞くが、もし願い事があるのであれば取り計らうことも出来るから、頭分の者がこちらの船へ来て貰いたい」と通訳させると、ホウセマンが再び船内に戻り船主と相談している模様だ。そのうちにフェートン号から2艘の小艇がスルスルと海上に吊り下げられ、検使達の船を挟み込んだ。見ると小艇には前後に砲(近距離戦闘に使う散弾を使う小型のカロネード砲だろう)を積み込み、抜身の剣も見え、持っている短筒や小銃や砲には銃弾が装てんされている様子で、しかも舷側の二段の砲列には一挺に二人ずつ水兵が取りつき命令一下砲撃する勢いなので、検使一行は恐れおののき生きた心地がしなかった。フェートン号から離れて帰ろうと思うも、事情を聴かずして戻れば検使の役目が果たせず図書頭の「生きて帰るな」という激しい叱責が、検使の乏しい勇気を奮い立たせた。
ホウセマンに同じことを再度尋ねると異国人が出てきて何か言っているが、その言葉がわからない。そのうちにホウセマンがまた現れて「この船は支那から来たそうです」と答えるので、甚左衛門が「船がずっと大きいので支那の船ではあるまい。真実を言うべし」と言うと、今度は「辨柄仕出し(ベンガル(インド)から出航した)との返事が返って来た。
「なぜオランダ人を捕らえたのか?どのようにも取り計らうからまずオランダ人を解放するように伝えよ」と言うと、それからどれほどの時間が経ったのかはわからないがホウセマンが次の様に答えをよこした。
「船中は食物類が乏しくなっております。これらの品々を補給して貰えれば、オランダ人を戻し他に用事もないので明日にも帰帆いたします」とのことである。
しかも横文字(外国語)の手紙を寄越した。甚左衛門が読むと“ベンガル出航、船主の名前、水食物類が乏しいので届けて貰いたい”とのことである。これを訳して検使達に伝えると、「この品々、今は夜なので用意できないが明日迄には必ず届けるから二人のオランダ人はいま解放して欲しい」と甚左衛門に訳させたが、フェートン号からは拒否された。
「では乗組員のうち二人をこちらへ代わりに寄越して欲しい」と甚左衛門が検使の言葉をオランダ語で伝えると、この要求がフェートン号側には奇怪に思われた(この要求が理解不能であったろう)気配なので「今晩二人の人質を預かっても心配には及ばない、明朝食物類は届けるから二人のオランダ人を戻せば、こちらに預かる二人の人質も返すから、人質を出すべし」と伝えても、承諾しない。
そこで検使二人は意を決して「オランダ人二人を戻さないなら、帰ることなど出来ぬ、我々二人が異国船に乗船する」と言った。これは決死の面持ちであったろう。
甚左衛門が訳して伝えると「ではこちらにお越しください、と船主が言ってます」とホウセマンの返事が返ってきた。
だがこの答えに甚左衛門は不審を抱いた。オランダ人二人に加えて、検使二人まで異国船に捕らわれるのではないか、との疑念である。だが検使二人は「どうなっている?」とオランダ語でのやり取りについて尋ねてきたので甚左衛門が内容を伝えると「では我々は乗船する」と言い出した。だが気懸りな甚左衛門はホウセマンに「御検使様お二人が乗船されても御検使様に失礼なこと(万一のこと)は無いか?」とホウセマンに問うたところ、「これは異国人の言ったことですから、自分としては何とも言えない」と答える。甚左衛門はこの答えで気懸りなことが解消出来ず、検使の乗船取り止めを進言し、御役所付の溝口仙兵衝と林與次右衛門の二人も甚左衛門に同調して乗船に反対した。40歳の末永甚左衛門、小通詞並ながらしっかりした人物であることが窺える。
そうしているうちに、ホウセマンが大声で「早く船を離れてください」と何度も叫び立てたるので検使一行は異国船を離れてほぼ数百メートルの距離の神崎まで行き、滞船した。
ここで今起こった出来事の報告書を急いで書き、寄越した横文字手紙を添えて、御役所附林輿次右衛門に持せて西役所へ急行させた。検使二人は両御番所の警備体制がその後どうなっているか確認するために漕ぎ出したところ、同じく両御番所の警備強化を催促するため派遣された山田吉左衞門と花井常蔵に行合ったので同船させ、山田と花井が図書頭から指図の内容を確認した。そこへさらに派遣された用人木部幸八郎も来たので一同一緒に戸町御番所(両御番所のうち南側海岸)へ行き、番頭蒲原次衛門へ警備人数の増員の進捗を確認したところ、「深堀勢(戸町の西に隣接する佐賀支藩)諌早勢(東25kmの諌早藩/藩主は佐賀藩家老職)とも未だ到着いたしません。お待ちください」と言うのみであった。ちなみにこの蒲原次衛門は長崎番頭という肩書である。つまりは両御番所の責任者であった。彼はのちに、両御番所の人数手薄の責任を取ることになる。

 

ここで前章の最後のパートへ移ろう。
「その時に、検使らと異国船に赴いた小通詞末永甚左衛門が奉行所に帰って来たからだ。

なんと彼は拉致されたオランダ人の一人、ホウセマンと会って、手紙を託されたと言うのだ。」これはドゥーフが書いた長崎オランダ商館日記(四 199p9に記された記述である。

一方で、検使達が末永甚左衛門を連れて大波止を出発して以降は「崎陽日録」に依っている。ここでは「ここで今起こった出来事の報告書を急いで書き、寄越した横文字手紙を添えて、御役所附林輿次右衛門に持せて西役所へ急行させた。」と言う。だが「通航一覧」の用部屋日記に『夜八つ時頃(午前2時・午前1~3時)末永甚左衛門戻る 沖の様子を奉行松平図書頭直に尋ねる(416p)』とあるので、末永甚左衛門が林輿次右衛門と共に横文字(外国語)書簡を持ち帰った、が事実であろうと思われる。

これは待ちに待った情報が遂に図書頭に到達した瞬間である。オロシャ船(ロシア船)かどうかもわからない謎の大型船がオランダ船を偽装して剣を振るってオランダ人二人を拉致したその意図は何なのか、夜の長崎港内を3艘の小艇で捜索したのはなぜか、検使や沖出役の者たちが口々に言う軍艦らしき重武装はいかなるものか?これまで一切の情報がなく、出迎えの検使一行も役所の人間も町中の人々もただただ恐れおののいて腰も立たない状況であったから、拉致されたホウセマンと会い、しかも書簡を携えて戻ったとあれば図書頭の興奮はとうぜんであったろう。だが横文字であっても字数を見れば、極めて短い書簡であることは判った。そうであっても異国からの貴重なメッセージである。直ぐに末永甚左衛門を招き入れ、訳を命じた。その内容は『ベンガルからの船が一隻来ました。 この船長の名前はペリューと言います。〔船長〕閣下は水とすべての食料品に事欠いており、船長はそれを提供されるよう要請しています。(署名) ホーゼマンおよびスヒンメル』というものであった。

図書頭はこの情報に眉をひそめた。確かに、水と食料が不足した船舶が禁止令を知っていながら長崎港へ助けを求めてきた例はいくらもある。だからといって日本の国法を破り、オランダ人を拉致する行為は許されるものではなかった。幕臣の中でもエリートである図書頭は法と秩序にとりわけ謹厳であり、そんな彼の胸中には怒りが渦巻いていたが、同時にこの短い書簡は、「御国の預かり人」であるオランダ人を取り戻す端緒でもあることを理解していた。
末永甚左衛門は「船は非常に大型で四十門以上の加農砲(キャノン砲)を備えております」とも伝えた。これまで検使や遠見番、隠密方などがそれぞれの異国船観察情報を伝えて来てはいたが、間近から冷静に異国船を観察して来た末永の情報は、やはり恐るべき戦闘力を持つ相手と言うことが再確認できた。
「かぴたん(オランダ商館長)を呼べ」と命じすぐに現れたドゥーフに書簡を見せて問いかけた。「これが異国船の要求だが、もし水と必需品を彼らに与えたならば、拉致された二人のオランダ人は解放されると保証できるか?」と。会話は年番大通詞中山作三郎を介して行われた。語学の天才とも思えるドゥーフはこのあと9年も日本に滞在せざるを得なくなり、日本語で俳句を作り、初の蘭日辞典ドゥーフハルマを編纂するほど日本語に堪能になるが、この時期の日本語能力は判らない。たとえ日本語で奉行と会話が出来ても、それは通詞が許さなかっただろう。通詞の職権維持のためには、勝手に奉行と商館長が対話するなど許せないのだ。
ドゥーフはしばし考えて答えた。「御奉行閣下(これは実際に奉行を指す際の商館長の表現である)、残念ながらその保証はできません。何故なら、私は今やその船が確かに敵国の船であると推測するからです。」このような状況で安請け合いが危険なことは、日本滞在8年、商館長になって5年になるドゥーフにとってはよくわかっている。状況が暗転したときに責任転嫁(それは往々にして通詞たちによって行われた)されることがあるからだ。

図書頭は「ではどうするのが良い、とかぴたんは考えるか?」

そう聞かれたドゥーフの頭脳はすさまじい速さで回転しただろう。最初のショックは異国船に旗合わせに出たオランダ人委員二人が拉致されたこと、次のショックは異国船から発した小艇が出島を襲うだろうとの恐怖から西役所に逃げ込んだこと。だがいま二人は健在との報が入り、異国船の目的が水食糧の補給とわかってからは、ドゥーフはほかの危険と対峙しなければならない現実に気が付いたのである。

それは異国からの訪問者が世界の現実をもたらすことだ。世界の現実とは何か?いま現在のオランダは、家康が貿易の免許状を与えた「オランダ共和国」とは別物の「バタビア共和国」(Bataafse Republiekバターフセ・レプブリーク/フランス革命の理念を取り入れた新しい政府体制/1795年成立)から1806年にはナポレオン・ボナパルトによって解体され、「ホラント王国Kingdom of Holland」が成立しているという事実だ。バタビアはシーザーの時代のライン川下流(現在のオランダ)に住んでいたBATAVI(バタウィ)を語源とする。
ホラント王国の成立は1806年6月5日で、この知らせは翌1807年アメリカ傭船のマウントヴァーノン号が出島にもたらしているからドゥーフは当然知っていた(「ドゥーフ『日本回想記』2章注11/191p」。
「23 レザノフ来たる!」で伝えたように、レザノフは当時の駐露オランダ大使の「レザノフ一行の手助けをするように」という指令をもたらしたのだが、この駐露大使を送り出した国は「バタビア共和国」であったから、ドゥーフはその事実を隠し通すために必死の努力をした。その再来が今回の異国船である。この異国船への日本側の対応次第で、どういうことが起こるか、予断が許されない。もし今のオランダは家康が免許状を与えた国ではないと幕府が知ったなら、祖法(家康が決めた掟)に極めて忠実な幕府は出島からオランダ商館を放逐するという可能性が非常に高い。頭の回転が速く、状況判断に優れた能力を持つオランダ全権大使ともいうべき立場のドゥーフには、フェートン号が長崎港にいる限り最悪の事態を常に恐れていたことに我々は留意する必要がある。

ドゥーフにとっては最善の道は、この異国船が配下のオランダ人を釈放し、何らかの衝突もなく消えてしまうことである。だから異国船が水や食料の補給を要請しており、それが満たされればオランダ人を解放して退去するのなら、これは願ってもないこととなる。

ドゥーフは慎重に考えをめぐらした後、図書頭に提案した。

「もし船長がホウセマンとシキンムルを解放するなら、私(ドゥーフ)は彼に私の名誉にかけて水と食料品が与えられることを確約する、という内容の、短い手紙を一通、船長あてに書くべきだと思います」と言い(商館日記四/200p)、さらに「そのためには奉行閣下に手紙を送っていただく必要があります」と付け加えた。

図書頭にとって日本の国法を無視してオラダ人二人を違法に拉致した異国船の要求を吞むことは我慢がならないが、ここは我慢のしどころと言うのもよくわかっていた筈だ。
ドゥーフはまた食料についても確信があった。遠洋航海の船にとって貴重な食料の中には必ず肉が必要であり、牛やヤギは出島内の小さな農園で飼育しており、それが役に立つはずだった。図書頭の許可を得てドゥーフが作成した手紙は次のないようである。

『当湾内に投錨中の船の船長宛て
貴殿よ。現在私は貴下により船上に拘留されている二人のオランダ人から、貴下が水と若干の食料品とを必要としている旨の報告を受けている。もし貴下がこの手紙を受取りしだい、上記二人のオランダ人を送り返すなら、私は貴下に、この国におけるオランダ人の上長〔商館長〕として私の名誉にかけて、貴下が、長崎奉行閣下から、水とその他の食料品を恵与されることを保証する。            1808年10月5日、早朝1時

追って、貴下が必要とするものがあれば、どうぞそれを手紙にして両オランダ人に与えて欲しい』。

図書頭は中山作三郎に内容を確認すると、末永甚左衛門にこの手紙を届けさせることを命じると末永は躊躇なく応諾した。問題は誰を随行させるかである。幕府が派遣した与力や同心、図書頭の家来、数多くの地役人、彼らの中にはこの騒動で浮足立っているものが少なくない。図書頭は菅谷保次郎と上川伝右衛門をりつけオランダ人を取り戻すまで生きて帰るなと命じたあとで上條徳右衛門に「日頃猪武者と呼ばれる者もこの非常時には臆している。猪武者で無い者はなおさらである」とこぼしている(「通航一覧」415p)。真夜中、沖に黒々と潜む不気味な異国船に末永甚左衛門を警護して行くのはよほどの胆力いる仕事である。図書頭の配下の者たちは誰に命が下るか、固唾を飲んでいたに違いない。
図書頭がどう指名したかは明らかではないが、随行することになったのは人見藤左衛門である。かれは長崎奉行の目付役である岩原目付屋敷に勤務する支配勘定の一人である(もう一人は中村継次郎)。勘定方という役目上、猪武者タイプではないだろう。だが非常時には見かけや職種に関わらず、人間の本質が出る。人見藤左衛門はこれ以降、常に末永甚左衛門と共にいて異国船との交渉に従事し、事件後に御褒詞を賜ることになる。

こうして支配勘定方人見藤左衛門と小通詞並の末永甚左衛門はドゥーフの書いたオランダ語の手紙を持って、沖の異国船(フェートン号)へと向かった。
図書頭は「オランダ人二人を取り戻すために求めている品々を用意せよ」と命じた。

崎陽日録によれば、

付其旨波戸場役呼出し野菜薪蕪根キ等用意申付御代官手代え水船壹艘早々差出候やう申渡

右品々取揃え差遣し沖検使差図を相請渡し候様申付遣す

又御船頭隠居土師喜八再勤の事水主共帶刀願書御代官手代持參す 此節非常の義にも有之間支配にて程能樣取

すなわち「その旨を伝え、波戸場役を呼び出し、野菜や薪、蕪、根木などを用意するよう指示し、御代官の手代を通じて水船一艘を早急に差し出すように伝えた。

右の品々を揃えて送り出し、沖にいる検使に指図を請け渡すように指示した。

また、御船頭隠居の土師喜八が再び勤めること、水主たちが帯刀することについての願書を御代官手代が持参する。この非常時にあたって、適切に処理するよう指示した。」

長崎には水船(みずぶね)というものが存在していたことがわかる。廻船などに水を補給する役目で長崎奉行所の監督のもとで行われていたという。奉行所は水の供給に関する規則を定め、適切な料金を徴収することで運営を支援し、水船の運営には地元の船大工や漁師などが関与し、船の管理や水の供給作業を行っていた。

一方で、この大混乱のさなか、図書頭は江戸へこの大事件の勃発を伝えるという緊急の任務があった。それに着手したのはこの初日(旧暦8月15日)の夜である。が、この夜は異国船小艇から異人たちが上陸したというデマが流れ飛び、図書頭は自ら大波止へ出陣し、さらに異国船へ向かった検使二人と小通詞並の末永甚左衛門がホウセマンと会い手紙を持ち帰るという、それこそ分刻みで事態が急転した。そのため注進状を作成した様子を記録した用部屋日記を読んでも、それが前述のいろんな出来事の中でいつ頃なのかが特定できない。

用部屋日記よれば、呈書役の熊谷興十郎が書面を作成し、奉行以下で読み合わせし(上條も含まれるだろう)その内容を吟味したとある。呈書とは、長崎奉行所の御白州での判決など公文書を作成する係で、熊谷興十郎は検使に出た菅谷保次郎と上川伝衛門等とともに昨年の図書頭赴任に伴い、長崎へ来た6人の与力の一人である。読み合わせは、老中への報告であるから内容に手違いはないか、正確に伝わる文面であるか、書式に手抜かりはないか、そしてどういう事柄を緊急報告に含めるべきか、の確認であったろう。

その原文は「通航一覧」421p上段から下段に収録してある。

文化五年八月十六日松平圖書頭御屆

十五日辰刻比白帆船相見候段深堀詰松平肥前守家来注進いたし、幷野母御番所遠見番之者共より、阿蘭陀船之段、追々注進申出候付、検使之者差出、爲旗合在留紅毛人二人召連、神崎辺において右船近寄候處、右船よりも紅白青之旗差出、疑敷も無之阿蘭陀人之旗印に付、猶近寄通辯仕候處、紅毛船にて 咬留肥仕出しに候段、紅毛言を以申聞候間、乗移り可申處、右船より小船を下し十四五人下立、紅毛人乗船に近寄、遂對談候趣相見候處、右十四五人之者共剣抜き連、水主も驚、右爲旗合罷出候紅毛人二人を召捕本船に連行、理不盡之様子相見候得共、荒立候而は直に帰帆可仕候も難計候に付、其儘検之者罷り帰り、右之趣申聞候、先穏に取計、若ヲロシャ船に御座候得は、湊内に蝦夷地亂妨をも相糺候積に付、又々検使之者差出、本船に乗移召捕候紅毛人二人取戻候樣申付差出し候、若紅毛人差戻し不申、其儘帰帆仕候様子に御座候は右打碎候様、松平肥前守、松平官兵衛申達候、右は當御番所、其外厳重に相備候様申渡候

一)夜六ッ時過小船二三艘人數二三十人程乗組、湊内乗入候段注進申出候付、早々召捕候様、両御番所検使を以て及差圖、猶又當所詰聞役之者(関傳之允)にも其旨申渡候處、夜中之儀故聢と不相分、右小舟乗帰手合不仕候事

一)右に付、大村上総介にも人數差出、陸地相固候様申達、其外近国諫早聞役にも右之趣申渡、此上類船等も相増候様子候はば、人數差出候可申達、委細之儀は吟味之上、猶追々可申上候事、

八月十五日 松平図書頭

少し嚙み砕いた文は以下のようになる。
長崎奉行松平図書頭、畏み畏み謹んで老中様へ御届申し上げます。
去る十五日辰刻、白帆船相見候段、深堀詰松平肥前守家より注進いたし、並びに野母御番所遠見番の者共よりも、阿蘭陀船の段、逐一注進申し出候につき、検使の者差し出し、為に旗合在留紅毛人二人召し連れ、神崎辺に於いて右の船に近寄り候処、右の船よりも紅白青の旗差し出し、疑い無き阿蘭陀人の旗印に付き、尚も近寄り通弁仕り候処、紅毛船にてバタビアからの船であると紅毛言葉を以て申し聞け候間、乗り移り申すべきところ、右の船より小船を下し十四五人下り立ち、紅毛人我が船に近寄り、遂に対談仕り候趣相見え候処、右十四五人の者共剣抜き連れ、水主も驚き、右の為に旗合罷り出で候紅毛人二人を召し捕り本船に連行し、不尽理の様子相見え候とも、荒立ち候いては直ちに帰帆仕り候も難計り候につき、その儘検使の者罷り帰り、右の趣申し聞け候。まず穏やかに取り計らい、若しロシア船に御座候えば、湊内に於いて蝦夷地乱妨をも糺明候積りにつき、再び検使の者差し出し、本船に乗り移り召し捕り候紅毛人二人取り戻す様申し付け差し出し候。若し紅毛人差し戻し申さず、その儘帰帆仕り候様子に御座候えば右打ち砕き候様、松平肥前守、松平官兵衛に申し達し、右は当御番所、その外厳重に相備え候様申し渡し候。
一)夜六つ時過ぎ小船二三艘人員二三十人程乗組み、湊内乗り入り候段注進申し出候につき、早々召し捕り候様、両御番所検使を以て差し図り、尚また当所詰め聞役の者(関傳之允)にもその旨申し渡し候処、夜中の儀故聢と相分からず、右の小舟乗り帰り手合せ仕らず候事。
一)右に付き、大村上総介にも人員差し出し、陸地相固め候様申し達し、その外近国諫早聞役にも右の趣申し渡し、此上類船等も相増し候様子に御座候えば、人員差し出し候可く申し達し、委細の儀は吟味の上、追々申し上げ候事。
八月十五日 松平図書頭

以上が松平図書頭の報告である。ポイントは次の点である。

  • ロシア船の可能性に言及しつつも国籍を特定できていない
  • オランダ船に完璧に偽装してオランダ人を拉致したこと
  • 検使の怯懦逃亡には触れず彼らの言い分をそのまま採用したこと
  • 検使にオランダ人を取り戻すよう命じて再派遣したこと
  • オランダ人を拉致したまま出航するようなら焼き打ちするように佐賀藩福岡藩に命じ御番所の厳重警戒を指示したこと
  • 小艇二、三艘が港内を徘徊したので両御番所に召し取るよう命じたこと、聞役にも同様に命じたこと(ここで関傳之允の名前を明記していることは注目すべきだろう)、その上夜中のことでこの小艇を見逃したとも述べている。
  • 大村藩主に陸地(長崎港近辺に島などの領地が多い)の警護を命じ、諫早藩(佐賀藩支藩。深堀藩に次いで長崎に近い)にも同じく命じ、もし他にも来航船があれば軍勢を差し出すよう命じた。
  • 「通航一覧」によれば、熊谷興十郎による原案には異国船が入港しオランダ人を拉致した、と言う急報であったが、奉行以下の読み直しの段階で港内への小艇の乱入の件と、焼き打ちを命じたことを書き加えさせた、と言う。

先にも述べたようにこの文書をいつ作成したかは分からないのだが、十五日の日付のまま翌16日になって御用状を差し立てた。本来ならホウセマンの手紙によって、水食糧が目的で来航した、との情報も付加できるはずだが、御用状を書き直すより早急に送るほうが優先されたのだろう。この書状は、老中宛と、長崎へ赴任のため下向中の曲渕甲斐守景の旅先へも刻付け町使を派遣して届けられた。刻付けと発進時の時間のことである。町使は現代の警察官に似た役割の地役人である。また佐賀藩福岡藩へも同じく送付された。
この老中宛の御用状が何時届いたのかは「通航一覧」には記事が無いが、同じころ長崎警備の役目を負っていた諸藩からも老中への報告がたくさん発信されている。異国船到来とオランダ人拉致に関して自藩がどのような指令を長崎奉行から受けて、どのような対応をしているかの報告である。これは幕府が極めて有効に諸藩をかの統制していたかの証でもある。
諸藩の急報の中で一番早く着いたのは福岡藩主松平官兵衛からの第一報で、これは8月27日に江戸に着いた。内容は「十五日夜家来呼び出され異国船異人端船にて港内乗り回しの風聞有り(略)港内に来たら一人でも召捕る様命じられと報告がありましたのでこの件国許家老より申し上げるよう連絡がありました」というもので、15日夜の異国船小艇が港内徘徊の直後に発送されたものだろう。
一方、大村藩からは16日付で、奉行松平図書頭の命令で軍勢を出動させたとの報告であるが、これは遅れて9月3日に老中土井大炊頭利厚に笠坊八助が持参したというからこれは侍飛脚と思われるが、なぜ6日も遅れたかというと赤間の関渡り(関門海峡)と大井川の満水で待たされたからである。わずか1日の差でこれだけの差が出たのは、台風の季節のせいではないかと思われる。
旅中の曲渕甲斐守景に何時届いたのかも分からないが、この急報を受け取り次第旅を急いだと思われるが長崎到着は9月1日であるから、長崎から約2週間の旅程にあったと思われる。
前の章でも既にふれたが付け加えておけば、長崎奉行は二人制で一人が江戸勤務(在府)。一人が長崎で実務を行う。この二人の連携は緊密で、文化年間のこの頃は奉行は一年勤務で交代が多く、前年に松平図書頭と交代した曲渕が、一年後再び交代のために長崎へ赴任中だったのである。