レザノフは1764年3月ペテルブルグの貧しい士族の家庭に生まれた、と大島幹雄氏は「レザノフ日本滞在日記」の訳者序で紹介している。長崎来航時は40歳の壮年であった。以降、大島氏の資料を元にレザノフの足取りを追う。
14歳で砲兵学校を卒業、近衛連隊に配属後、裁判所勤務を経て海軍省次官(伯爵)の秘書官となる。宮廷詩人デルジャーヴィンの後ろ盾を得る。これは彼の4か国語を自在に操る語学力がものを言ったのである。デルジャーヴィンが元老院秘書官になるとレザノフは官房長に抜擢された。時に27歳。この職を得てレザノフはエカテリーナ2世の信任を得る。1794年30歳の時にアラスカ(当時はロシア領)へ布教に行くロシア正教団とともにイルクーツクを訪れる。ここで毛皮王シェリホフと出会い、その娘アンナと恋に落ちて結婚する。オホーツク海からアリューシャン列島までロシア植民地を建設しアメリカへ進出しようというシェリホフの夢はレザノフの夢にもなった。これは16世紀から東インド会社を作ってアジアへ進出したヨーロッパ諸国に大きく出遅れたロシアならではの、植民地経営の夢であった。だがアリューシャン列島に植民していた人々は慢性的な食糧難に陥っていた。レザノフがこの課題解決のために着目したのが日本である。毛皮を売り、日本から塩や米を手に入れる。この頃は毛皮の取引は世界のあちこちで大ブームで、北アメリカではビーバーの毛皮が珍重され、大量に捕獲されていた時代である。シェリホフが夢半ばで死去するとレザノフは彼の人脈を駆使して植民会社露米会社を設立する。形は違うがロシア流のインド会社を目指したものであったろう。この目論見は多くの人の賛同を呼び、エカテリーナ2世の孫アレクサンドル1世が皇帝即位した後は皇帝もその家族も株主となり、1802年には400人の株主になるほど飛躍的に発展する。レザノフは商務大臣ルミャンツェフを説得して彼に日本および広東との二つの貿易上申書を提出させ、通商計画が公式に動き始める。この頃、クルーゼンシュテルンがロシア初の世界一周就航計画が進んでいたが、これに日本との通商交渉を結びつけることに成功し、レザノフが遠征隊の隊長として指揮を執ることになる。日本に通商を求めたのはレザノフが初めてではない。有名な大黒屋光太夫等を連れて使節アダム・ラクスマンが根室に来たのはレザノフに先立つ12年前の1792年(寛政4年)のことである。ラクスマンは大黒屋光太夫等を土産に通商を求めたのだが、幕府は唯一開かれた港は長崎であるからそこへ行け、と返答(相変わらずの先延ばし戦術である)し、彼に長崎に寄港できる信牌を渡した。この信牌の意味を巡って様々な解釈があることは、レザノフと通詞たちの会話で明らかになっている。「23章 衝撃のレザノフ滞在日記」の中の[⑥鎖国派と開国派の戦い]で、馬場為八郎がこの信牌は通商許可書であったと驚くべき告白をしているので、ぜひ読んでほしい。
ここからは、長崎を去った後のレザノフについて語っていこう。
レザノフは何ら成果を上げることが出来ずに長崎港を出港した時に表面上穏やかであったが、彼の随行団はそうではなかった。彼等は、なんとドゥーフの策略で幕府がロシアの通称要求を拒否したと考えたのである。これはドゥーフのRecollection of Japan(日本回想記)にドゥーフが懸命に彼等に反論を試みている。長崎にいる間はドゥーフはロシア使節団のミッションが不成功に終わったことがオランダ人のせいにされているとは知らなかった。だが帰国の船が嵐に遭難して命からがら辿り着いた母国で彼はラングスドルフの世界周航記などでドゥーフの策謀でロシアの通商要求が拒否されたというストーリーが流布されていることを知り、回想記で長文の反論を書いている(英語版63p)。ドゥーフ策謀論の根拠はバタビア(ジャカルタ)からオランダ本国への報告書に「無事ロシアの通商を阻止できた」という一文があったというのだ。ドゥーフによれば「自分がバタビア(ジャカルタ)へそのような報告はしていないから、バタビア(ジャカルタ)からそのようなことが本国へ報告されるはずがない」とするのだが、肝心の報告書は失われていて確認のしようがないのである。ドゥーフは「自分とレザノフ閣下とは互いに手紙や贈り物を通じて互いをいたわりあい、レザノフ閣下からは帰国に際して懇(ねんご)ろな謝辞を貰っている。ロシアの通商要求が拒否されたのは祖法に基づく日本の厳格な国家方針によるものだ」と全くの濡れ衣だとしている。それはその通りである。ただ、我々は彼がレザノフ到着数日後に長崎奉行成瀬因幡守に「オランダだけが御朱印状で許された国家であります」ということを念押しする書状を送っていることも、またレザノフ出国後に裸踊りまでした大宴会を開いたことも知っているのである。積極的な策謀はなかったし、彼はオランダの駐露大使ホーヘンドルプの指示に従ってレザノフにできる限りの援助を惜しまなかったがそれは食事や衣服など生活上の便宜を図ったのに過ぎない。何よりも彼はオランダの国益を第一に考える忠良な国民だったのである。
一方で、ドゥーフの陰謀でことがならなかったとロシア使節団の幹部が思ったことは、表面上は規律正しく長崎で半年も我慢したロシア使節団の中で実は不満や鬱憤が渦巻いていたことを雄弁に物語る。レザノフとてもちろん例外ではなかった。彼は、結局武力を以て対峙しないと日本は動かない、と思い至ったようである。これは後のペリー提督の日本来航が砲艦外交であったことと大いに関連がある。大島幹雄氏の解説によるとレザノフはカムチャツカのペトロパブロフスクに戻ると、世界一周周航を続けるナデジュダ号のクルーゼンシュテルンやラングスドルフと別れ、北太平洋のロシア領を視察するが露米会社が深刻な食糧難で死者まで出ていることに驚く。彼は食料確保にサンフランシスコまで赴いて食料を確保したのだが、やはり日本との貿易の重要性を痛感する。そこで日本を動かすために樺太・択捉襲撃命令を出した、ということだ。彼は『日本船の襲撃して捕虜とせよ、上陸する時は焼き払え、日本の民衆はロシアとの通商を望んでいるが、頑迷な政府がそれを拒んでいるので彼等にはロシアに立ち向かう能力が無いことを知らせる必要がある(意訳)』と言う本意だった。 大島幹雄氏によればレザノフは思い直してこの命令をのちに撤回したのだが、それは実行部隊から無視されて魯寇事件(日本側の事件名)という蝦夷地襲撃事件が起き、ロシアとの関係は一気に緊迫する。馬場為八郎等レザノフとの交際でロシア語に明るくなった通詞等が蝦夷地へ送られ、同時にロシア語習得の命も下る。だが、レザノフは襲撃事件が起こったことも知らなかった。ペテルブルグへ向かう途中、イルクーツクで氷結した川を渡るときに馬が転んで太ももに氷が刺さり、壊疽を起こしたのだ。既に彼は航海で母国を離れて以来4年が経っていて衰弱しきっていた。彼は死を予期する。彼の手紙は切ない。『私の心には、ただ孤独だけがすみついている。ぺンを執りながら一日中涙がこぼれでしょうがなかった。今日は私たちの結婚記念日なのだよ。私は幸せだったころの情景を生き生きと思い出すことができる。そしてひどく悲しくなって、泣けてきた。もう私には力が残っていない』(「レザノフ日本滞在日記」427p)。なんと悲しい文章だろう。あれだけ長崎の人々を熱狂させ、自由な時代をロシアがもたらしてくれるかもしれないとの希望の灯をともした男が、妻にも子供にも看取られずシベリアで死んでゆくのだ。1807年3月1日、享年42歳。思わず涙して、しばし茫然たる思いだった。214年前に亡くなった人物への哀惜の思いがこれほど深く湧くものだとは予想もしなかったことである。そのレザノフは今や語られる事は殆ど無い。時間の経過はあらゆるもの、人々の記憶さえもあっけなく消し去ってゆき、歴史として語り継がれるものは恣意的に選ばれているような気さえするのである。この物語の中で私が特に惹かれた2人の人物。それはスチュワートとレザノフであるが、スチュワートは肉声を残さなかった。だがレザノフはふんだんに想いを語った。この差は大きい。スチュワートには悪漢ピカレスクの魅力があるが、レザノフには善の魂の発露がある。それが私に響き渡るのだ。それにしても「レザノフ日本滞在日記」、読めたのは幸せであった。大島幹雄氏には感謝のしようがないくらいだ。絶版にはしていないが再販の予定もなさそうな岩波書店には、大いに失望である。これもまた消えてゆくメディアの宿命なのだろうか。