ドゥーフは自伝で、『薩摩へ密偵(隠密)を侵入させる幕府の試みはことごとく失敗し、密偵らは薩摩領内で密かに処刑された』と書いている(『Recollection of Japan』英語版12p)。『これは領主とりわけ薩摩の主君の力が強大であるため幕府はこれらの(密偵の)殺害を罰することが出来なかった』と続けている。”There are no examples of someone coming back alive from Satsuma. All the secret snoops there were discovered and killed, and the one who is sent to this province considers himself as being sentenced to death. From all this, one sees the great power of the princely rulers, especially the one of Satsuma, as the shogun has to let so many murders go unpunished.” このことは既に9章で触れている。もう一度9章の文章を引用しよう。
“ドゥーフはこの自伝をオランダ帰国後、すなわち徳川幕府の監視の目がない社会に戻って執筆しているが、日本滞在中の長崎では薩摩藩への幕府の探索がことごとく失敗していることは識者の間で公然化していたことを物語る。だが幕府は薩摩の抜け荷が出島を介していることに早くから着目していた。そこでヘンミイ客死事件の前に長崎奉行手付出役として送り込んだのが24歳の俊英与力、近藤重蔵である。読者はこの名前を択捉探検家として知っているだろう、日本の歴史に名を残す人物である。彼の探索で明らかになったのは、薩摩の前藩主島津重豪(しげひで)とヘンミイのただならぬ関係であった。ドゥーフの日本での交友関係は広範囲に渡り、大通詞(通詞社会のトップ)、各地の蘭学者(長崎に来訪したり、江戸参府中に知己を得た人々)、数々の大名、長崎の町年寄(民間人のトップ)、長崎奉行を始めとした幕府の高官、である。これらの人々は当時最高の知識人であったと言ってよい。薩摩への密偵潜入の試みが悉くと失敗したという話はその人たちから聞かされたのであり、この人々の間では幕府と薩摩の闇の戦いは常識化していたということがわかる。幕府は全国諸藩に隠密を送って動向の探索に余念がなかったが、近藤重蔵を送り込むほどに(後の天保年間には間宮林蔵も薩摩への密偵となり潜入に成功したようだ(山脇悌二朗『抜け荷』133p))。なぜ幕府はそこまで薩摩に注目したのか、せざるを得なかったのか?それは現将軍の岳父たる島津重豪が直接手を下してオランダ商館長を巻き込んだこれまでにない大胆な抜け荷のスキームが実現することを阻止するためだった。
『江戸時代の日本は「対馬口」で李氏朝鮮と、「薩摩口」で琉球と、「松前口」でアイヌと、「長崎口」でオランダ人や唐人(中国人が主体だが東南アジアの人々も含む)とつながっていた』(松方冬子「オランダ風説書」7p)と言うのが最新の学説である。その「薩摩口」であるが、長崎を目指して浙江省から出航した唐船はしばしば風に流されて、琉球まで南へ延びる薩摩の島々へ漂着した。ここから唐船との抜け荷が常態化してゆく。どの藩でも国外からの漂着船は長崎へ曳航されねばならなかったが、唐船の中には薩摩で商売してから長崎へ空荷で入港するものまであった。また琉球との貿易にしても藩内消費を名目に幕府の許可を得たが、これもいつのまにか長崎で捌かれるようになった。このあたりの薩摩のやり口はかなり強引である。幕府が抜け荷の確証を掴んだとしても、被疑者の引き渡しは「行方不明」と称して取り合わない。薩摩の唐物はその安さで、長崎へ入港する唐船物の価格を圧倒した。これらの唐人の訴えにより長崎奉行は長崎会所(貿易機関。その利潤は幕府に還元される)の存亡にかかわるとして老中に厳しい詮議を求めるが、結局は『(薩摩藩への)お手入れ(捜査)の儀などは、容易ならざる筋』であるとして(山脇悌二朗「抜け荷」101p)うやむやになり、『薩摩一藩が官営貿易を密貿易によっておしつぶし、幕府にとって代ろうとするほどの勢い』(同上102p)であった。容易ならざる筋、とはなにか?それは薩摩の島津家が将軍家との間で周到に張り巡らした婚姻関係のネットワークである。それは後で詳述することにして、山脇悌二朗『抜け荷』(日経新書)を手引きにしてもう少し薩摩の抜け荷のスケールを追おう。指宿の「抜け荷屋」と目された豪商浜崎太平次家はこの物語と同じ時期(寛政年間)には「全国の長者番付263名中のトップ」であったという。後の1840年代に薩摩藩家老調所広郷の藩財政改革に大きく貢献した8代太平次正房の時代には大阪、長崎、函館に支店を置き、30余隻の大船で蝦夷地、新潟まで広く商いを行っていた。また朝鮮との貿易窓口である「対馬口」については対馬藩の貧窮により薩摩藩が対馬藩にとって代わって抜け荷により朝鮮との貿易を実質差配していた。
では「お手入れ(捜査)の儀などは、容易ならざる筋」とはどういうことだったのか?ここで島津重豪を見ていこう。島津重豪が築いた将軍家との婚姻によるネットワークの意図を探るには、そもそもの薩摩藩と徳川幕府との関係に遡らねばならない。薩摩と幕府はお互いがそのDNAに他藩とは比較にならない緊張を孕んでいる関係である。関ケ原の合戦で石田三成勢の敗勢を知った島津義弘は壮絶な敵中突破を図った。今に語り伝えられる「島津の退き口(のきぐち)」である。徳川勢との対決を避けたい島津本家からの助勢が来ない中、朝鮮での勇猛さで知られる島津義弘(当時65歳)は僅か三百の手勢とともに押し寄せる徳川勢主力を正面から突破する絶望的な戦いを挑んだ。石田三成勢の総崩れで敵中に孤立したからである。伊勢街道を南へ突っ走って難波へ逃れるためであった。この戦いぶりが凄まじい。本隊の逃げる時間を稼ぐために数名が残って追撃する徳川勢と死ぬまで戦い、全滅するとさらにまた数名の決死隊が置き捨てとなって踏みとどまり死ぬまで戦う。「捨て奸(すてがまり)」というこの戦い方は、追撃側の名だたる武将、松平忠吉、井伊直政等に重傷を負わせるなどまさに鬼神の戦いであった。甥の島津豊久や家老の長寿院盛淳を失いながら80余名にまで減った将卒らと薩摩に帰還した。
道中、義弘は部下の反対を押し切って人質として大阪城にいた妻子をも見捨てず連れ帰っている。このあと徳川家康は黒田、加藤、鍋島の九州諸勢に島津追討を命じるが結局矛を収めた。島津追討は豊臣秀吉も果たせなかった難行なのである。島津義弘は九州での所領を巡る数々の戦いで何度も重傷を負うなどの歴戦の猛将であり、朝鮮では寡兵で明朝鮮連合軍の大軍を撃破して家康の称賛を浴びたり、最後の海戦では朝鮮の国民的英雄である李舜臣を戦死させるに及び、明朝鮮軍から「鬼島津=鬼石曼子(シマヅ)」と呼ばれたほどである。義弘に代表される島津の強さが家康に島津侵攻を諦めさせ、徳川幕府に薩摩藩への潜在的な恐怖心を与えたのだろう。薩摩は外様大名として徳川幕府に恭順を装いながら、徹底的な防諜体制を築いた。まず言語である。人工的に作られたという説さえある薩摩弁は訛りが強く、第二次大戦中に暗号の代わりに薩摩弁が使われた例もある。一朝一夕ではマスターできないため密偵(隠密)が潜入するには死活的な障壁となる。例えば母がよく聞かせてくれた薩摩言葉に「わたしゃぼんがだれまちまかんそ」というのがある。辛うじて理解できるのは「わたしゃ」と「まち」である。この意味は「私は子供が病気のため町へ行きます」というのだ。どうだろうか?見当は付きましたか?言葉の次には藩民の武装化である。明治維新で身分制度が変更された際、薩摩藩内で士族に登録された割合は25%であったという。全国平均は6%であったそうだから、実に4倍である。4人に1人は士分であったということだ。しかも薩摩独自の剣法示現流(じげんりゅう)は第一撃の真っ向からの打ち込みに全てを託す、というものだ。そのために薩摩製の刀は柄の部分が逆反りになっていて、打ち込みのエネルギーを高める構造である。
学問を奨励せず武芸を精進させた。母の故郷飯野郷(諸縣地方、明治17年に宮崎県に編入)では昭和十年頃においても学校で『♬義弘逝きて四百年 地理も歴史も変われども 今なお冷めぬ熱血はわが満身に溢るなり ♬軍馬陣頭に嘶(いなな)きて(以下略)』と唱歌してその歌詞通り「島津の退き口」敢闘精神は昭和になっても旧薩摩領の人心に受け継がれていた。武道の鍛錬においても母の兄(もちろん小学生)を教官が蹴倒して馬乗りになり首を竹刀でグイグイと締め付けるなど「兄を殺すつもりか」と母が怯えるほどの鬼気迫るものであったという。因みに義弘は飯野城の城主だったことがあり、それが飯野郷で義弘を讃える歌が盛んだったのかもしれない。幕末に向けて時代と社会が動き始める寸前の島津重豪の時代には行き場のない若者のエネルギーが「腹切ろう」運動に収斂し、些細なことで切腹する若者が続出して禁令が出たほどである。要は狂に近い強悍の地であった。
幕府はこのような精強強悍の薩摩の地力を何としても削ぐ必要があった。その方策として名高いのが宝暦4年(1754年)に「お手伝い普請」として木曽川の治水工事を薩摩藩に命じたことである。木曽川揖斐川長良川の木曽3川の治水は稀代の難事業で知られ、薩摩では「幕府と戦うべし」と反対論が巻き起こる中、藩存続のために万やむを得ず引き受けたという。遠征した1000人の藩士を待っていたのは幕府の過酷な仕打ちであった。現地での悲惨な待遇、幕府役人の腐敗と事業遅滞の妨害などで藩士51人が悲憤慷慨して切腹、それが明らかになると公儀への反逆とみなされるので病死扱いせざるを得なかったという顛末に、事業を終えた暁には総責任者の家老平田靱負(ゆきえ)が切腹したという悲劇的事件である。
この事業で薩摩藩は元々の負債に加え四十万両の大借財を作った。外様大名の雄藩に対する幕府の仕打ちの代表的な例であり、両者の潜在的な敵対意識をさらに高めたのは間違いない。この宝暦治水事件は、昭和37年(1962年)の直木賞受賞小説「孤愁の岸」(杉本苑子)でようやく一般に知られるようになった。
だが、幕府も薩摩藩も緊張関係の中にありながらお互いの安全保障策も採っていた。それが婚姻関係による結びつきである。『島津重豪』(芳即正かんばしのりまさ)を参考文献として探っていこう。話は、生類憐みの令や赤穂浪士討ち入り事件で馴染みの深い5代将軍綱吉の治世(1680年から1709年)まで遡る。島津重豪の祖父継豊が綱吉の幼女である竹姫を娶ったことから始まる。竹姫は清閑寺大納言の娘で京都で生まれ育ったが二度の婚姻で何れも相手方が早世し、綱吉の側室の縁で養子となった。当時高位の公家や武家では十歳未満で婚約することが当たり前だった。実際の交わりに至らぬまま、相手が早世してしまう例があって竹姫はそれが2回も続いたのだ。1729年(享保14年)その竹姫を「暴れん坊将軍」8代吉宗が島津継豊に嫁がせると命じたのである。将軍家から嫁を貰うとなると費用は莫大なことになるので一般的に大歓迎ではなかったそうだ。幕府にとっては雄藩と将軍家が血縁関係を結ぶことによって大名統制がしやすいことになる。大名の正室が将軍家ゆかりの方であればその発言や意向は無視しにくくなる。内情が幕府に筒抜けになるということもあったろう。見返りは大名の官位昇進などがあった。竹姫の「婚儀は大がかりであった。婚礼荷物の運搬に三日かかり、竹姫につき従って来た女中衆は二百四名という多数で、竹姫住居の御守殿造営とともに、島津家にとっては大きな財政上の負担となった」そうだ。竹姫は正室であるから国元ではなくなく江戸で居住する。この竹姫は重豪が初めて十歳で初出府(江戸勤務)した時から目をかけた。十歳の少年は公家出身の祖母の薫陶を受けることになる。因みに初出府は宝暦4年、その年にあの悲劇的な木曽川の宝暦治水を命じられたのだから吉宗の命で正室を娶っていたにしても幕府の薩摩への仕打ちは容赦なかったことを示してもいる。1776年(安永5年)竹姫(浄岸院)の遺言で重豪の娘茂姫は一橋家徳川豊千代の正室となる。だがその徳川豊千代は1787年15歳で第11代将軍家斉となる。
なんと外様大名である島津重豪の娘が将軍の御台所(正室)になるという前代未聞のことが起こった。「将軍家の正室は五摂家か宮家の姫というのが慣例で、大名の娘、しかも外様大名の姫というのは全く前例がなかったからである。このとき、この婚約は重豪の義理の祖母に当たる浄岸院の遺言であると重豪は主張した。浄岸院は徳川綱吉の養女であったため幕府側もこの主張を無視できず、このため婚儀は予定通り執り行われることとなった」(Wikipedia広大院)という。この記述から想像すると重豪は単なるボンボンでは出来ない相当無理筋を通したように思える。その背景には宝暦治水のような「お手伝い普請」を二度と命じられないようにとの思惑もあったというから、宝暦治水が残した傷は深かったのだ。茂姫と家斉の婚儀は婚約から13年後の寛政元年(1789年2月4日)である。重豪は将軍岳父の地位を手に入れたのである(『島津重豪』(芳即正)13p)。家斉の治世は1787年から1837年(大御所としてさらに数年権勢をふるった)、茂姫との婚礼は1789年(寛政元年)であるから、この物語の期間は重豪は将軍の岳父であり続けたことになる。これこそが幕府が薩摩の抜け荷を探索しようと躍起になっても『(薩摩藩への)お手入れ(捜査)の儀などは、容易ならざる筋』としてうやむやになった原因である。因みに茂姫は別の名を広大院篤姫、大河ドラマの主人公となった天璋院篤姫は二代目の篤姫ということになる。二代目篤姫は13代将軍家定の御台所となった。
将軍家との婚姻を無理を承知で実現させた島津重豪は十歳の時に出府(上京)、祖母にあたる竹姫の寵愛を一身に受けた。公家の出であり5代将軍綱吉の娘(養女)である竹姫は重豪に薩摩の荒武者の末裔とは全く違う人格なのだという意識(教え、教育)を植えたと思われる。これが茂姫を御台所にして将軍の岳父に納まる時の押しの強さを支えたのであろう。薩摩の藩主となってからは「後年の重豪の鹿児島ばなれのした政策、特に言語容貌の矯正に、隠居後に至るまで一種の執念の如きものをみせるなど、京都生れで江戸育ちの、現職将軍家重の妹分に当る竹姫の影響を、無視することはできないのではないか」(「島津重豪」(芳即正)13p)、つまり重豪は折り紙付きの都会趣味であり、荒武者気取りの薩摩隼人たちの身なりや言葉まで矯正しようとしたのだ。それだけに重豪の舶来ものへの愛着は尋常ではなかった。阿蘭陀渡来(の舶来品に目が無い大名を蘭癖大名と呼んだが、重豪の右に出る大名はなかったろう。
日本の南端に位置し、琉球支配を通じて中国大陸を身近に感じる薩摩の藩主として海外への関心が高かった重豪は老中武元から一度だけの許可を得て自ら長崎を訪れる。明和8年のことである。『長崎年表』は「従者千余人、西浜町・船大工町・本石灰町.榎津町等に散宿す」と記し、重豪自身は西浜町に新築した藩邸に止宿した(『島津重豪』(芳即正)39P)という。狭い長崎は千人もの薩摩藩士を迎えて「さすがは薩摩の大公」と沸き返ったに違いない。滞在は23日間にも及んだ。唐人館に次いでオランダ商館を訪れ、大通詞今村源右衛門の茶亭ではオランダ人も交えて終日楽しんだりした。大通詞は長崎に数家しかなく年収も今の価値で1億円(当時三千両と言われた)もあったと推察されるから、茶亭もある屋敷は数奇なオランダ渡来品で溢れていたことだろう。長崎には島津家の御用唐通詞もいた。そこでは卓袱料理のもてなしも受けている。重豪はのちに江戸藩邸で卓袱料理を何度も客人に出しているから崎陽(長崎のこと)風のもてなしは大いに受けたと思われる。
だが重豪はただの蘭癖大名ではなかった。その真の姿は幕末に維新への大きなうねりの中心となった薩摩藩を作り上げる原動力となった英傑である。その足跡を見ていこう。重豪が十歳で初出府した翌年、父重年がわずか27歳で他界し重豪は藩主となる。祖父継豊が後見となって5年ほど藩政を見たが祖母竹姫(浄岸院。継豊の正室)の薫陶を受けたことが彼の藩主としての政策に大きな影響を与える。因みに藩士たちが辛酸を舐め莫大な借財を生んだ宝暦治水(木曽川のお手伝い)はまさにこの時期であったことも重豪の幕府対策に生きている。14歳の時に吉宗の四男一橋家徳川宗尹(むねただ)の娘保姫(やすひめ)と縁組する。保姫は時の将軍家重の姪にあたる。この縁組は竹姫に直接持ち込まれ成立したものである。竹姫の薩摩藩内での影響力が伺える。これにより重豪は将軍家とのつながりもあり、また京都の公家の出である竹姫(江戸の薩摩藩邸内の御守殿住まい)からは日本の伝統文化の粋を吸収したことであろう。ここに武勇の誉れ高い島津の血脈を受け継ぎながらも豊かな情操と教養をも備えた藩主が誕生したことになる。もう一つ重豪が受け継いだものは藩の借財である。元々薩摩藩は豊かな沃野に恵まれておらず朝鮮の役、関ヶ原、大坂の陣の戦乱を経て徳川幕府の治世になっても参勤交代は日本の西南端に位置するだけに費用は莫大なものになる。雄藩としての体面を保つために供揃えも小藩とはスケールが違うのだ。宝暦治水もあり重豪が藩主になったころの藩債(借財)は66万両を超えていた(『島津重豪』(芳即正))。重豪はその生涯を通じて「武」と「文」に加えて「借財」と格闘した。89歳という破格に長い生涯(一般に重豪以前の藩主は短命な人が多かった。80歳を超えたのは義弘の83歳のみである)で藩主としての親政が○○年、大御所としての藩政後見が○○年、その間常に財政問題があった。重豪の晩年、薩摩藩の借財が500万両にも及んで江戸藩邸勤務者の俸禄も払えないほどの事態になった時、財政改革を調所広郷に命じたところ調所は財政のことが分からないので、と辞退しようとした。
この時重豪は血相を変え長脇差を手にして調所を手打ちにせんとばかりに迫ったという(「島津重豪」(芳即正)231p)。薩摩藩の御用商人は大阪の豪商たちであったがいずれも何度も借金を踏み倒され(遥か以前の文化十年(1813年)に重豪は更始=徳政令として120万両を踏み倒している)もうこれ以上の借金の申し込みを受け入れてくれなかった。薩摩藩は高利で商売をする牙倫(すあい=ブローカー)から借財するほどになっていた。文政11年(1828年)頃、重豪が膝詰めで財政改革に登用した調所広郷は指宿の豪商浜村孫兵衛の斡旋で新しい融資団の目途が付いたが重豪の保証が欲しいとの要求に融資団代表の浜村と平野屋彦兵衛を伴って上京し、重豪直々に諄々と説得にあたり、朱印状まで発行してようやく金策に成功する有様であった。琉球を含めると90万石にもなる加賀藩に次ぐ大大名とは思えぬ困窮がその実態であった。時の将軍の岳父にしてこのようなエピソードを持つ大大名、重豪。極めて魅力的な人物ではなかろうか。彼の常識破りのエピソードはこれだけではない。彼は43歳の若さで藩主を長男斉宜に譲り隠居した。これは将軍の岳父が現役の外様雄藩の藩主ではいかにもまずいという幕閣の判断があったからだという。隠居はしたものの重豪は長く藩政を後見した。つまり斉宜は何も出来なかった、というか、させて貰えなかった。その反動が大きかったのだろう、ついに重豪が後見を退いてただの隠居となり斉宜の親政が始まった途端、前任者否定が始まった。斉宜が重用した近思録党というグループが藩政を握り、旧重豪派の役職からの追放や重豪が作った藩校の廃止などを始めたのだ。この時斉宜は国元にいた。一方重豪は元藩主の隠居は江戸住まいが幕府のルールであるため江戸の白金御殿にいた。斉宜は家老の一人を重豪のもとに送り、自分の改革を報告させようとした。重豪の賛同が得られると楽観していたようだから、斉宜は相当のボンボンである。一方江戸へ向かった家老は憂鬱で堪らなかった。大殿からお叱りを受けるのは必定と思ったからだ。ところが意に反して重豪は「長旅ご苦労であった。今夜は大いに飲め」と酒を進めたのだ。家老は思わぬ展開にすっかり安心して大酒し、重豪に言われるまま国元で起こっていることを洗いざらい話してしまった(「島津重豪」(芳即正)191p)。事態を完全に掌握した重豪は徒党を組んで藩政を壟断したかどで苛烈な処分を下した。重臣等切腹「十三名の切腹をはじめ遠島二十五名、寺入四十四名、逼塞十九名、(略)合計111名の大量処分」(「島津重豪」(芳即正)194P)が行われたのである。これが有名な薩摩の近思録崩れである。まず酒を飲まして安心させ全てを吐かせてから厳しい処断を下すという、重豪はそこらの大名と違ってまるで戦国大名のような知恵と決断力を下せる人物だったのだ。「蘭癖大名)という言葉には金に飽かせて舶来品を買い漁る愚かな大名という響きがあるが、重豪には金策のためには大阪商人をも直接会って篭絡し、国元の不穏な事態を厳しい処分で一気に鎮静化させるという巨大なスケール感があったのである。この腕力があるからこそ抜け荷の探索は幕閣中枢にとっては『(薩摩藩への)お手入れ(捜査)の儀などは、容易ならざる筋』だったのだろう。
当初から財政が厳しい薩摩藩にあっては、日本西南端に位置して大陸に近く、しょっちゅう中国船が漂着し、また琉球を通じて唐物が安く入る利点を生かしての「抜け荷」は国是と言ってもよかった。重豪の命により財政改革に乗り出した調所広郷の方策の一つもまた「抜け荷の強化」だったのである。そもそも薩摩藩は抜け荷を重要産業の一つとしてとらえ、幕府の禁令を犯すことに何の痛痒も感じていなかったのだろう。藩の財政改革に腐心した重豪が例外であった筈がない。重豪は歴代のオランダ商館長と親しい間柄であった。彼が親交を深めた商館長は数多く、この物語の主人公であるドゥーフとも最も親密な関係を築いたが、その交友関係で幕府の目を惹いたのがヘンミイとの間柄である。ヘンミイはドゥーフが初来日する前年に江戸参府からの帰途掛川で客死し、出島に着いたドゥーフが見たのは留守役ラスと帳簿記帳が何年も無いなど規律の紊乱した商館であった。
ヘンミイは謎が多い商館長である。一説に彼には莫大な借財があったと言われる。一体どのような経緯からそのような借財が生じたのかは今となっては分からないが、彼の江戸からの帰途を見舞ったのが重豪であったように、二人の関係には何やら闇の部分がある。前章で見たようにスチュワートが関わってきたことから、抜け荷に関わる何事かが進んでいたようなのだ。それに幕府も気が付いていて、ヘンミイ在任中に送り込んだのが、俊英近藤重蔵である。