27 ロシアの周到な準備

27 ロシアの周到な準備

この項では、日本にレザノフを派遣するにあたってロシア側の周到な準備があったことを考えていきたい。そこにロシアの本気度が現れているからだ。

本論に入る前に、あるエピソードを紹介しよう。12月16日、レザノフのために用意された梅香崎仮館にレザノフ一行が入って行く様子を見ていた男がいる。オランダ商館長のドゥーフである。梅香崎から数百メートル離れた出島からドゥーフは一行が上陸して仮館へ入ってゆくのを海越しに見ていた。その様子を彼の回想記Recollection of Japan(56P)に記している。

肥前公(佐賀藩主鍋島肥前守治茂)差し回しの大船(御座船)でレザノフ一行はナデジュダ号から梅香崎へ移動するのだが、ドゥーフはレザノフの従兵たちが掲げる軍旗を掲揚するポール先端の地球を掴む鷲の像(Signum)から十字架が取り外されているのに気が付く。そのことは日本人ももちろん気が付いていた、とドゥーフは書いている。その場にいた人の日記や手記などその時の息遣いが分かる資料の醍醐味はこのようなディテールである。歴史書では「ロシアが通商を求めた」こと、その歴史的背景は語られるが、どのような準備をしてどのような姿勢で日本に臨んだか、はその時そこにいた人の目や口や耳がなによりも雄弁なのである。ロシア側の準備と心構え、日本に通商を求める熱意は生半可ではないことをよく知らせるエピソードの一つである。ロシア正教という皇帝が教皇をも兼ねる独自の宗教を持ちながら、十字架という極めてシンボリックなしるしを日本側を警戒させないために(難癖をつけられるのを避けた、とも言えようか)取り外したことは日本のことを研究したうえでないと出来ないことだったろう。

ロシアの周到な準備はレザノフに与えられた指令書を大島幹雄氏が「レザノフ日本滞在日記」に収録されているのでそれを資料として検討するが、その前にロシアのこの頃の地政学的状況をそれこそ歴史書的に大局から見てみよう。初代ピョートル大帝(1672年―1725年)のもとにヨーロッパの諸大国に伍してゆく体制がなったロシアだが、大きく立ち遅れたものに海軍がある。北方にあって大航海時代とはほぼ無縁であったロシアは西インド(カリブ海の諸島のこと)にもアジアにも進出できず従って植民地もなく東インド会社のような貿易会社の経営も出来なかった。レザノフが露米会社を作って毛皮ビジネスなどに乗り出したオホーツク、アリューシャン列島、アラスカしか新天地が無かった。それはひとえに海軍力が無かったからである。その海軍力創設の象徴こそナデジュダ号である。このナデジュダ号はイギリスから購入したもので、若き提督クルーゼンシュテルンの世界周航計画で初めて世界の海に乗り出そうというものだった。その海軍力の夢は第2次大戦後ソ連海軍の建設でようやく叶うのだが、この19世紀初頭の頃は「不凍港」を求めて南下する動きは全くなかった。サハリン樺太にもまだ手がつかなかったのだ。日本が明治維新により近代国家へ歩み始めた時、ともに帝国主義に乗り遅れたロシアと日本が満州朝鮮を巡って激突するのが大きな歴史の構図となる。日露戦争、その後のロシアの共産革命で日本はロシアを仮想敵国ととらえ、「北方の熊」という悪印象が固定した。だが、それは19世紀後半以降のことであり、何度も言うがこの頃のロシアは違う。豊饒な大地が育む豊かで素朴な人々(ショーロホフの「静かなドン」の世界)と、パリの宮廷文化に追いつこうというロマノフ王朝(トルストイの「戦争と平和」がその世界。宮廷では公用語としてフランス語を使った)、まさに広大な領土に匹敵する奥の深い国であり文化であり民族なのだ。共産革命後、労働者階級だけでなく世界中のインテリ層が共産主義に大きな影響を受け(かぶれた、と言ってもよいかもしれない)、日本も例外ではなくむしろ共産思想礼賛が主流となって革命前の馥郁たるロシアの記憶は忘れ去られたのである。ソ連崩壊後共産党が生き延びているのは中国北朝鮮ベトナムそして日本だけとなっているが、第2次大戦前の共産主義の各国への浸透は凄まじく、例えばスペインにフランコのファッショ政権が樹立してスペイン内戦となりヘミングウェイ等世界中の「自由を愛する」人々がスペインへ義勇兵となって参戦したのだが、その友軍はソ連だったのである。当時はそのことに何の疑問も抱かなかったのだ。ボルシェビキ革命成就後、海外に亡命したトロツキーの暗殺や秘密警察の創設、スターリンによる大粛清と続いてロシアのイメージはすっかり陰湿なものに変わったのである。

それはさておき軍旗を掲揚するシグナムの像から十字架を取り除いたことに象徴されるロシアの周到な準備を現す資料がある。「レザノフ日本滞在日記」375p付録一に収容された「ルミャンツェフからレザノフへの指令書」がそれである。日本来航の前年、ロシアを出航する前の1803年7月に作成されたものだ。詳細極まる長い指令で、全文は同封写真をご覧いただくとして、ポイントを紹介しよう。長崎以外には入港上陸しないこと、長崎に着いたら役人たちが大勢やってくるだろうがロシア皇帝の国書と献上品は直接将軍に謁見する時に渡すこと、日本人はすべてのことに正確であるから(!)、答弁は注意深くかつ正確に行い記録を取ること、ロシアが70万人の軍隊を有していること、日本と同じ専制国家であること、ロシア正教について正確な説明を行うこと、滞在中は側近や従卒も礼儀正しく振る舞い、日本側の扱いが期待通りでなくてもそれは将軍の指示に基づくものだから不満を言わないこと、将軍と謁見するまでは豪華な服を見せびらかさず謁見の時は側近も靴と靴下を脱ぐこと、日本人は尊敬に値するものの前では脱帽して立つ習慣があるからこれに従うこと、謁見に向かう際は皇帝の代理人としてふさわしく天蓋付きの駕籠をもちいること、謁見の後は通商関係の役人たちに尊敬の念を払い贈り物をすること、また使節団に関わった人々に過不足なく贈り物を贈呈すること、長崎奉行にも同様に注意深く接すること、ロシアと皇帝を代表する大使として尊厳ある立派な態度をとること、最も重要な任務は日本と通商を結ぶことであり、バタビア(ジャカルタ)のオランダ東インド会社が崩壊した今は有利な状況であること、長崎以外にも松前やウルップ島(ロシア領)で通商することも可能であること、サハリンの住民と日本の関係を調査すること(この辺りがソ連時代にこの日記が発禁になった事情だろう)、日本と中国朝鮮琉球諸島との関係の調査をすること、など実に手取り足取りと言えるほどに綿密な指令書である。知りうる限りの情報を基にレザノフに丁寧かつ礼儀正しい交渉を求めている内容である。これにより90年後の1895年日清戦争に勝利した日本が清から割譲された遼東半島を変換せよと求めた三国干渉(ロシア、ドイツ、フランス)時の強欲傲慢な近代ロシアと同じ国家とは思えない慎重かつ権勢を誇示しない近世ロシアだったことが分かるのである。

日本についての情報の多くは大黒屋光太夫の一行や若宮丸の一行を首都サンクトペテルブルグに招いてロシア皇帝に謁見させた時に収集したものであろう。これら首都に招かれた漂流民は26章で見たように客人として遇され、皇帝から金銀を下賜して日本の着物も仕立てて立派な身なりで日本へ送り返したのである。そこには異邦人への正常な関心と漂流民たちが遭難した悲劇への哀れみがあるのだ。外国に関わったからと厳しく詮議し、海外の生きた情報を漏らさないよう殆ど罪人に近い扱いをした幕府とは大きな違いが見て取れる。大黒屋光太夫一行も若宮丸の一行も日本に帰国せずロシアに残留を望んだ者が多いが、日本に帰国すれば罪人扱いされるという予感もあったろうが、厳しい身分制度の日本社会よりロシアの方が生きやすいという面もあったのだろうとも思える。