23 レザノフ来たる!

歴史の表には出ていないが幕府が対外政策を巡って右往左往したのは、アメリカのペリー来航が初めてではない。1804年ロシア国使レザノフが来航した時、幕府はその通商要求を巡って混乱した。それもやはり幕府の無知に由来する。そのことを詳細に見ていこう。

1803年ロシアの若き提督クルーゼンシュテルンは2隻の艦隊で世界周航を企てアレクサンドル1世の許可を得る。その艦隊に日本との貿易を目指すレザノフが国使として、また遠征隊の指揮官として乗船したのだ。

     ナデジュダ号  クルーゼンシュテルン提督  世界周航航路 

1804年8月長崎に到着したマリア・スザンナ号が、ドゥーフへのバタビア総督シーベルフの訓令をもたらした。「ロシアが世界周航に出る。その中には日本への国使派遣が含まれる。その旨を風説書で幕府へ報告せよ」というのだ。シーベルフはこの情報をヨーロッパからの船便で届いた新聞記事で知ったという。

守旧派のバタビア総督シーベルフ

ドゥーフはこれを別段風説書として長崎奉行に提出している。だが、奉行成瀬正定はロシア船の来航は長崎市場での輸入品の価格下落をもたらすと考え、この情報を市中に公開せず、ただ警備の強化を佐賀・福岡両藩に命じたのみだというのだ。これはどうしたことだろう?これが最初の謎である。長崎は当時の日本唯一の世界につながる窓である。朝鮮通信使もあったがこれの情報はオランダからの情報の鮮度に比べるべくもない。長崎奉行がこの程度の判断力であったということは、世界情勢に無知だからである。情報の価値を判断できないのだ。長崎奉行と言えば上級旗本の中で特に優秀な人材を配置する部署であり、江戸へ戻ると勘定奉行などへ出世してゆく登竜門である。だが赴任前に世界情勢について何らかのオリエンテーションもしくは学習機会があったとは思えない。幕府の中でのプロトコルだけに通じた官僚だった。これも鎖国が190年続いた弊害だろう。

レザノフの船が実際に長崎港外に現れたのは10月9日、検使たちが下調べした後、ドゥーフが奉行の要請により上検使に同行してレザノフが乗船しているナデジュダ号に赴いた。

これから先はドゥーフが残した秘密日記(「長崎オランダ商館日記」に収録 117pから)によって見て行こう。検使たちがレザノフの乗るナデジュダ号に乗船したがまるで言葉が通じないので、奉行の要請でドゥーフが夜10時に同船に役人や大通詞に伴われて赴いた。船室で待っていたレザノフの様子をドゥーフが日記に詳述しているので引用しよう。

『金の垂れ飾りのある青い上着に、ローズ形ダイヤをつけた勲章帯、右胸に星、上着の背の左の結び目に金の鍵をつけた』とある。上質の羅紗の服であったろう。堂々としたロシア使節としての正装である。さらに『騎士にしてロシア阜帝陛下の侍従レザノフであると告げ、同時に私に、彼が私宛ての書面を持っているが、しかし彼はそれを私に日本人がいないところで渡すように注意しなければならないと命ぜられている、と告げた。』

正装したレザノフ

と続く。これはレザノフが、ドゥーフが幕府の通訳を務めるであろうことを予期していたことを示している。実はレザノフはロシアロマノフ王朝が送り出した最初の国使ではない。12年前にラクスマンが通称を促す国書を携えて根室を訪れている。映画 (おろしゃ国酔夢譚)にもなって有名な大黒屋光太夫が帰国できたのはラクスマンが彼を伴ってきたからである。この時、 幕府は長崎が唯一の世界のへの窓口であるから長崎へ行くように、と指示して長崎入港の許可書を渡している。それを携えてレザノフが再び国使として長崎へ来航したのである。それだけに今回はロシア側の準備は周到なものだった。その一つがドゥーフと出会うことである。二人の会話はフランス語で行われた。ドゥーフはアムステルダムのフランス学校の出身であり、ロシアの宮廷ではフランス語が公用語である。レザノフが日本人に気付かれないようにドゥーフに渡したのは、駐ロシアのオランダ共和国全権大使であるファン・ホーヘンドルプからの書簡であった。その内容は「レザノフと友好的に接し、レザノフが日本へのロシア大使として認証されるよう、そして使節団の目的が達成されるよう出来る限りの丁重さと援助を惜しまぬように」という要請であった。これはレザノフが遠征中に会うであろう全てのオランダの総督たち司令官たち宛の訓令である。

実はこのホーヘンドルプという人物、「15スチュワートの登場」の章で登場している人物である。それをここに引用しよう。

オランダの駐ロシア大使 ホーヘンドルフ 1761–1822
急進改革派の駐露オランダ大使ハーヘンドルフ

“  さて、マサチューセッツ号はその後バタビアへ到着した。ここからもGourley教授の論文を参照する。バタビアの政治的環境は激変していた。本国オランダで親仏派のリフォーマー(改革論者)であるHorgendorpホーへンドルプが、“アメリカ人と自称するスチュワートは本当は敵国イギリス人であり、東インド会社は敵性人物を長崎貿易に使用している”と会社を非難する本を出版したのだ。彼は従来から東インド会社を敵視しており、そのうえ次期バタビア総督に就任するのでは、という観測まで出ているという。余談ながらこの本は意外な影響をもたらした。後に一時的にジャワ総督に就任(イギリスのジャワ短期統治期)したスタンフォード・ラッフルズにスチュワートはイギリス人と思いこませることになったのである。”

 

上の文章で見たように、15章で取り上げられたホーヘンドルプは、スチュワートが英人だと主張した文脈で紹介されている。だがこの章では、「親仏派のリフォーマー(改革論者)」ということを取り上げたい。

イギリス、フランス、プロシャという強国に取り囲まれた小国オランダは、とりわけイギリスとフランスのどちらを選ぶかの運命に弄ばれた国である。この物語のこの時期、イギリスは革命に敵対する保守(守旧)であり、大革命が進行中のフランスは改革の旗印を掲げ、結果小国オランダの内部は守旧派と改革派の真っ二つに分断されていた。フランス革命軍がオランダを侵略(革命を世界に広げる、というミッション)した時、オランダ共和国の元首である国王はイギリスに逃れ、フランス派は侵略革命軍を喚呼して迎えた。

ホーヘンドルプはフランス派の人物であり、フランスの革命思想に倣ってオランダのリフォーム(改革)を成し遂げようとしていた。彼の主張の一つが、アジア貿易を独占する東インド会社の解体であった。彼は海軍士官として1784年にアジアへ赴き、ジャワ(インドネシア)で東インド会社に勤務するが、植民地経営をつぶさに見るうちにオランダ式(東インド会社式)の封建的なシステムを糾弾するようになる。彼の主張を一言で言えば「インド経営のイギリス流のやり方と比べると、ジャワの経営システムは簒奪するばかりで地域の将来の発展可能性を阻害している」というものだ。オランダ東インド会社は17世紀の繁栄は遠くなり、18世紀後半は慢性的な赤字に悩み、政府の補助が必要な存在だった。ホーヘンドルプの主張についてはインドネシア史の代表的な研究家永積昭博士の『オランダ東インド会社』から引用しよう。

“ 会社が強行する専売制度はそれ自身不合理であるばかりか、国家にも悪い作用を及ぽし、ユダヤ人や外国人を含む貧欲な株主に利益を与えているだけである。国家が商業団体にこのような特権を与えた例は今までなく、今こそ国家が直接植民地統治を行ない、その莫大な利益を得ると共に、領土保全の義務を負うべきである。胡板、香料、コーヒー、阿片などの重要な農産物は国家の独占貿易に委ね、その他の生産物に関してはオランダ船を使用する限り、東インド内の貿易を全住民に開放する。会社の特許状が期限切れとなる1799年には特許状を更新せず、これを解体しなければならない ”(「オランダ東インド会社」永積昭 240p)

読めば分かるように、これは改革案というより「会社を潰せ」という過激な案である。このため彼は逮捕され本国へ送還される。もちろん彼の提案した改革案は一切顧みられなかった。それどころか太平洋戦争が始まって日本がインドネシアを占領するまで旧態依然とした植民地経営システムは生き残り、「オランダは何も学ばず、(インドネシアが発展する可能性を)何も残さなかった」と、解放されたインドネシア人から手厳しく評価されることになるのだ。彼が帰った本国は既にバタビア共和国となっていた。この事が暗示するのはオランダ本国は新フランス派(改革派)の天下になったが、植民地ジャワでは守旧派が生き残っているという複雑な構造になる。オランダ東インド会社は1798年にバタビア共和国憲法が成立すると解散の憂き目に合い(1799年、特許状はホーヘンドルフの主張通り更新されなかった)、国家がその経営を引き継いだが、ジャワでは守旧派が生き延びたのだ。その証拠は後に論ずる。そして1800年後半にスチュワートがバタビアへ連行されると、ホーヘンドルフはジャワで生き延びている守旧派攻撃の一環としてスチュワートを敵国イギリスの手先と主張するのである。この辺りの事情は非常にややこしい。因みに長崎のドゥーフは、日記にも「会社」と記するなど体制の変化を感じさせない。長崎奉行に体制の変化を知られるとまずいという状況判断もあった。バタビアでも同様で1801年から1806年まで総督であったシーベルフは頑固な守旧派で知られた人物であった。フランス寄りの本国政府はイギリスに対抗して陸軍兵力の大増強や数々の改革を指示してきたが、彼は改革に一貫して抵抗し続けた。本国と植民地既得官僚との温度差は大きかったのだが、互いの往来に半年以上かかる帆船時代の特徴かも知れない。このシーベルフは、1804年夏にドゥーフにレザノフの来航予定を幕府へ伝えよ、と訓令した総督である。この人物の存在こそ、ジャワでは旧体制派が生き延びた証拠になる。

さてホーヘンドルフはフランス寄りのバタビア共和国で重職を得続ける。その最初が帝政ロシアの首都ペテルベルグへのオランダ全権大使としての赴任である。当時のオランダ(バタビア共和国)はフランスの一陣と見做され、オランダ船は英海軍から拿捕されるなど敵視されていた筈なのに、対仏大同盟のメンバーであったロシアにホーヘンドルフは大使としてなぜ赴任できたのか?それは一時的な休戦協定である「アミアンの和約」が英仏間で成立したからである。1802年のことであり、この年ホーヘンドルフはバタビア共和国全権大使としてペテルブルクへ着任している。レザノフは日本へ旅立つにあたって、日本と唯一国交のあるオランダの全権大使であるホーヘンドルフに助言と協力を求めたのだろう。

ここで一つの疑問が湧く。レザノフへの完全協力を求めたホーヘンドルフだが、実は日本事情がよくわかっていなかったのではいか、という疑問だ。彼のジャワでの経歴の詳細は明らかではないが、東インド会社の独占的貿易権を批判する彼が長崎との貿易実務には携われなかったと考えるのが自然だろう。ジャワ総督府にとってはホーヘンドルフは獅子身中の虫的な存在だからである。例えば、「長崎オランダ商館日記」にはレザノフがドゥーフに渡した公式書簡の宛名書きは “ バタビア共和国の日本国長崎の商館長宛 ” となっていた、とドゥーフは書いている(121p)。レザノフはホーヘンドルフの指示通り日本人の検使や通詞に悟られないように密かにドゥーフに文書を手渡ししたのだが、ドゥーフは冷や汗を流しただろう。彼が隠し通しているもの、それは現在の母国オランダが家康から御朱印を下された「オランダ共和国」とは別物の「バタビア共和国」であるという事実だ。もしこの文書が通詞たちに明らかになると、このバタビア共和国とはなんなのか、と追求されることになるだろう。真実が明らかになれば、オランダはかつてのポルトガルやイギリスのように長崎から追放されることになる。ドゥーフを絶体絶命に追い込みかねない宛名書きには、改革派の新国家を代表するというホーヘンドルフの自負と同時に、この国家名を用いることが長崎商館長にどれほどのリスクになるかを理解していないことになる。またこの書簡を書いた時点で長崎商館長が誰であるのか(1803年にワルデナールからドゥーフに交代)を知らなかった傍証にもなる。ドゥーフにとって日本側の誰にも知られていないこの母国の秘密こそ、ナポレオンが敗北した後晴れてオランダの政体が旧に復帰して1817年に次期商館長ブロムホフがドゥーフへのオランダ国王の最高勲章の知らせをもたらすまで、ドゥーフを懊悩させ続けたことなのだ。

レザノフに助言したホーヘンドルフが長崎入港プロトコルの詳細を知らなかったことがレザノフに意外な齟齬を来たし、長崎奉行所の不信感につながるのである。

「長崎オランダ商館日記」によれば、レザノフはドゥーフを通して検使たちに翌日長崎奉行に6人の随行員とともに面会したい、ついては長崎湾内に停泊したい(現在は長崎港口から5kmの伊王島近辺に停泊中)と述べる。検使たちが「湾内に入る外国船は火薬と帯剣をを全て引き渡さなければならい」と言うとレザノフは「火薬とサーベルは渡すが、彼自身の帯剣、従者たちの帯剣12本、さらに彼を護衛する兵士たちの銃7挺は引き渡せない」と断るのである。火薬を渡してしまえば銃を保持していても意味が無い、との見解もある。だがレザノフはドゥーフの自伝(Recollection of Japan)によれば、検使が “自分は将軍の名代であるから(椅子に座っていたレザノフに)立ち上がられよ” と促されてもこれを拒否した。レザノフにはロシア皇帝のから全権を負託された国使である、と言う自負がある。ここでショウグンの下僚である検使に敬意を払えばロシア皇帝の権威を損なうことになる。同様の考えで彼は皇帝の国使である自分の警護兵の武装解除(例え弾薬は無くとも)に応じることは皇帝の権威を損なうことになるのである。結局、警備兵と帯剣は許され、船の停泊地も長崎港の入り口までは許可されるのであるが、この武装解除に応じなかった件は長崎奉行にとっては密やかな恥辱であったに違いない。この日ドゥーフは午前2時に出島に戻った。

翌10月10日、レザノフが持参した将軍宛の国書の内容を確認するために再びドゥーフに立会い要請が来る。ロシアとの交渉のリスクを負いたくないドゥーフは「外国船との交渉は自分の義務ではないこと、またロシア船の船長と船医はかなりオランダ語を話すのだから」と断っている。ここで注目すべきはオランダ語の堪能なスタッフが乗船していることだ。この船医とはドイツ人のラングスドルフのことで、彼はこの航海後『世界周航記』を誌すことになる。

ドイツ人の医師・博物学者ラングスドルフ

ラングスドルフだけでなく、レザノフ自身もオランダ語を話せた事をのちに明らかにする。だが結局奉行への気遣いからドゥーフは再びナデジュダ号に行く。この日は検使とのやりとりが終った後レザノフはドゥーフを夕食に誘い、ドゥーフは検使の許可を得た上で船上に留まり、饗応を受けて午前4時に出島に戻る。以降、この二人は二度と会えることは無かった。奉行が異国人同士の連絡を遮断したかったからだ。またドゥーフの力を借りなくてもオランダ通詞を介してレザノフと交渉可能だったからである。この10月10日以後の商館日記は全て大通詞からの報告をもとにして記述されたものである。だから伝聞ということになる。それでも大いに参考になる事柄は多い。

翌11日、ドゥーフは早速奉行にオランダの貿易特権を念押しするための手紙の執筆にかかる。「(レザノフが日本にロシアとの通称を企図しそれを要求し実現させるための全権を彼が持つという貿易に関しては、私は、私の義務に従って、日本側に次のことを指摘すべきであると思った。(したがって、手紙の大意は)『日本(徳川幕府)は、他のすべてのヨーロッパの国民を差別なく排除していながら、われわれには、当地で今やほぼ160年も通商することを許してきたこと、そして昨年は、2隻の異国船(スチュワートとトリ―船長 筆者注)を追い払うことによって自らその明かしを立てたこと、またそのお返しにわれわれは常に日本の法を忠実に守ってきたが、今年もわれわれの船が来たさいに、このロシア人がかならず来航するということをわれわれが彼らに知らせたことがそのことの証拠になること』(長崎オランダ商館日記4 130p 10月11日)という内容である。ドゥーフは、レザノフへの対応はホーヘンドルプの指令通り極めて誠実で丁寧であり続けたが、オランダの国益と会社の社益に忠良で敏感であることは寸時も揺るがなかった事を示している。

また同日の記述の中に、現職の奉行成瀬因幡守はもうすぐ着任予定の次期奉行肥田豊後守の到着を待っており、一緒に協議することになる、と通詞が述べたとある。これは徳川幕府の統制手法の一つである。決定権者一人の独断を許さず協議を優先させると判断するのは綺麗事に過ぎる。必ず二人以上に関わらせると言うのは、相互監視と牽制を意味するのである。徳川幕府に限らないのかも知れないが、武家社会独特の人間性悪説の最たるものである。これによって何が起きるか?何を決めるにしてもリスク回避優先、決定のスピードは後回し、先例のない判断はしない、と言う後ろ向きの態度である。戦闘における功績が褒美として領地の獲得につながった時代は情勢判断はリアリズム優先だったのが、大坂夏の陣以降190年間平和な時代が続いて、幕府の意思決定の要因からリアリズムがどんどん失われてゆくのである。その最大の被害者がレザノフと言う事ができるだろう。ここで結論を急げば、単に「No」と言う返事を聞かされるだけのために彼は実に半年間も長崎に幽閉され続けたのである。

さてそのレザノフの長崎での日常はどうであったか?それについての日本側の資料が殆どないのである。また私は長崎育ちであるが、当時の伝承も聞いた事がない。ふと思い立ってレザノフ来航に関してもっと資料はないかと探索したら、なんと国宝級の第一球資料が見つかった。レザノフ自身が記述した「日本滞在日記」である。

大島幹雄訳 日本滞在日記

この日記はソ連では発禁処分とされており(当時の樺太や北方領土の記述がソ連にとっては不都合な真実であったこと、江戸幕府からロシア皇帝の大使が拒否されたことを公にしたくなかった、などが理由のようだ)、ソ連崩壊後にシベリアで出版されたこの日記を入手した大嶋幹雄氏が全訳して岩波文庫から2000年8月に出版したものである。この岩波文庫版は絶版ではないものの再版をしていないので、図書館か古本で入手するしかない。私は地元の市立図書館の蔵書を読み、あまりにも価値が高いので古本(幸い新品同様だった)を入手した。ナザレフは機知と語学才能に満ちた人物(日本が読み書きできた)で、彼の長崎滞在半年間の日記には彼と接する役人たち(長崎奉行所)、通詞たち、警護兵たち、長崎の名もなき人々、とのやりとりが生き生きと描かれ、幕府の公式文書にはない幕府側との正式交渉の場の詳細までもが明らかになるのである。これほどの一級資料でありながら、洋学史研究会(2021年に休会)でも取り上げられることが無かった(最も活動盛んな時期に間に合わなかったからだろう)ので私はこの本の存在に迂闊にも全く気がつかなったのだ。この本が入手困難であることは、岩波書店の責任でもある。現下の情勢(ネット社会での読書離れによる出版社や本屋の経営難)で苦境にあるのは理解できるが、岩波茂雄氏は岩波文庫創刊にあたり『生命ある不朽の書を少数者の書斎と研究室とより解放して街頭にくまなく立たしめ民衆に伍せしめる』と昭和2年に高らかに宣言した精神は岩波書店内にはもう息づいていないのだろうか?このような貴重な書は電子書籍として出版するか、オンデマンド出版の道を開くべきであろう。これはもちろん岩波書店に限らないのだが。このサイトにずっとあとに出現する章で語られるであろう英国領ジャワの時代のラッフルズがドゥーフに撤退を迫る秘密使節を送った事件などは、関連資料をGoogleのPlayBooksで電子版として無料で手に入れることが出来る。原書をスキャンしてPDF化しただけであるが、資料としての価値は計り知れない。そのような時代であることを日本の出版社にも文化を担う事業者として考えてほしい。経営が苦境になれば、貴重な出版物まで一緒に消えると言うのはあまりにも無責任ではなかろうか。

大嶋幹雄氏はナザレフが連れてきた若宮丸の漂流民たちの出身地石巻の方で、石巻学など活発に活動されている方のようだ。この方がレザノフ日記を発見し翻訳の労を取られたことは大変な功績であると思う。『復元!江戸時代の長崎』(惣町復元図)の布袋厚もそうであるが、時間と労力を注ぎ込んでなされた事業は実に偉大である。感服する次第である。

では、次の章でそのレザノフの滞在日記について記していこう。