さて、フェートン号はべンガル湾を渡り、マラッカに達した。乗組員の全てが最終目的地を知らされていたかどうかは不明だが、読者の皆さんはこのフリゲート艦が長崎に出現したことはご存知だ。では、この頃の長崎はどうしていたのか?出島のオランダ商館を中心にお知らせしよう。
1808年(文化5年)、商館長(カピタン)は、ヘンドリック・ドゥーフHendrik Doefであった。(2010年頃に仕事で会ったオランダ人にこのDoefを発音してもらったら「ドゥフ」と長音を含まないものだった。現代オランダ語と当時のオランダ語の発音が違う可能性はあるし、Doefと当時付き合った人々が「ドゥーフ」や「ズーフ」と書き残しているので、長音込みの表記とする。なおカピタンとはオランダ語ではない。もとはポルトガル語である。しかし幕府は商館長の名称を『カピタン甲比丹』としたため、現実主義者のオランダ人はそれに異を唱えないままであった)。
ドゥーフはこの時満30歳(1777年12月2日生まれ)、日本に来てから9年目、商館長になってから丸5年であった。(”The Recollection of Japan” ドゥーフ自伝 英語版)
1808年は和暦で文化5年である。その4年前、ロシア帝国の国使レザノフが交易を求めて長崎港に入港するという、幕府の鎖国政策を揺るがす事件が起こっている。レザノフは長崎滞在6か月後に何の成果もなくロシアへの帰国を余儀なくされたのだが、その間の対応を幕府とレザノフの間で(少なくとも表面上は)友好的にまとめ上げたのはひとりドゥーフの存在があったからで、ドゥーフは幕府から感謝状と報奨金を下賜されている。
ロシア国使をその格に応じた接遇をしようとした長崎奉行に比べ、江戸幕閣中枢の指示は礼を欠きしかも数か月の間返答を保留するというものであったが、大国ロシアの国使レザノフが何とか持ちこたえたのもドゥーフという存在と心遣いがあったからである。ドゥーフはフランス語に長じ、トルストイが描くようにロシア宮廷ではフランス語が公用語の一つであったロシアからの国使とのコミュニケーションはフランス語に堪能なドゥーフがいなかったら、どうしようもなかったろう。ドゥーフは歴代の商館長の中で最も日本語に通じたオランダ人であり、後には俳句までものにするほどであった。
「春風や あまこまはしる 帆かけ舟」
さらに英語にも堪能であり、これがフェートン号出現の際、ドゥーフが再び長崎奉行の唯一の通訳機能を果たしたのである。このような語学の才は天賦のものであったろうが、当時のオランダの置かれた国際環境(強国スペインとフランス、さらには新興のイギリスとの絶え間ない交流と紛争)がドゥーフのような人材を育てたのだろう。ただしドゥーフがオランダから日本へ出航した時は、どのような状況だったのか?それを次章で語ろう。
次章 9 陰謀渦巻く出島へ (右をクリック) https://bunka05.com/陰謀渦巻く出島へ/