7月26日、フェートン号はマラッカに到着、Marraca Roadに投錨した。Marraca RoadといってもMadras Roadと同じで港ではなく、マラッカの沖合に停泊したのである(今一度いうが、当時は埠頭を作る浚渫技術がない)。日誌によれば、マラッカ要塞の守備隊から11発の礼砲が撃たれ、フェートン号は9発の礼砲で返礼している。これは要塞の司令官がフェートン号の艦長より階級が上なので、要塞11発より少ない9発がフェートン号の礼砲数となる。艦の砲門のうち9つが開かれ順次18ポンド砲が点火されて轟音を響かせたことだろう。
さてここでマラッカでの行動やマラッカを紹介する前に、マラッカ海峡に入る前のフェートン号の航跡に触れておかねばならない。7月17日に海峡入口に、18日に海峡の中央に来た。それから19日、20日、21日の3日間、海峡の中央を遊弋しているのだ。これは恐らくモーリシャス(Ile de France島)を根拠にして跳梁するフランス軍艦、もしくはフランスの属国と化したオランダ船を求めての行動であったろう。読者には真の狙いはオランダ船であることがこの先で解明されることになる。
マラッカ到着翌日6時ごろ、10頭の生きた水牛が届けられた。水の残量は86トンにまで減っている。だが水は補給していない。砦側に水の補給の準備がなかったのだろうか。翌日には出航しているので先を急いだか。この日は製帆手、船大工、かしめ工(Caulker 水漏れ補修工)等、あらゆる職種が総動員されて船の補修作業を行っている。一番多いのは帆とそれを支える索具類、マストの補修だ。乗組員は上陸を許されていない。艦長はじめ上級士官は砦に表敬訪問を行った筈だがその記述もない。
さらに翌28日午前2時、2頭の水牛を屠殺して334ポンド(150kg)の精肉を得ている。 乗組員一人当たり500gの精肉に当たる。上陸は出来なくても、この新鮮な肉はたまらないボーナスとなったろう。 6時30分には砦に9発の礼砲で返答し、錨を上げた。
錨を上げるといっても簡単な作業ではない。他のすべての船上作業と同じく重労働である。下図にあるように錨綱は中甲板に引き込まれ、さらに下甲板か船倉(最下甲板)に格納される。錨綱は人力で引き上げられるが、キャプスタンという回転機械に大勢が取り組んで回転させる。さらにキャプスタンひとつでは力不足なので上甲板に軸が連結したキャプスタンがあり、上下力を合わせて錨を引き上げる。図を見れば相当大勢の作業と見えるが、フリゲート艦よりもっと大きい砲100門を備える戦列一等艦では錨も大きく、さらに大人数が動員されただろう。フェートン号はマラッカの沖で錨を上げた。7月末である。この朝、雨は降っていない。赤道に近い熱帯である。作業する水兵たちはたちまち汗みどろになったろう。19世紀初頭とはいえ、帆船の水兵たちの重労働はギリシャローマ時代のガレー船の奴隷労働からさほど遠くなかったのである。
この日の日誌の冒頭には、”from Malacca toward China”と、初めてChinaが目的地として記述された。しかもそれは力強い装飾文字で書かれている(写真参照)。ストックデールの興奮が目に見えるようだ。とすると、中国が目的地として明らかになったのはマラッカに着いてだろうか。この装飾文字の勢いはそれを肯定しているように見える。長い航海になることを知った乗組員の士気を、屠殺したばかりの牛肉の振る舞いで元気づける意図があったのだろうか?
ここでマラッカの街を紹介しよう。 『スマトラ島のパレンバンにいたシュリーヴィジャヤ王国の最後の王子パラメスワラが、1396年頃マラッカ王国を建国した。』(Wikipedia)。明の”大航海”英雄 鄭和(母は日本人)も寄港したというように、交通の要衝として香辛料貿易の船舶が重宝した港町に成長する。そしてアジアに進出したポルトガルがマラッカを押さえたのが1511年。続いて1641年にはオランダの手に落ちる。このころがマラッカの賑わいの頂点だったようだ。1798年、英軍がここを押さえた。私は現役時代、シンガポールからクアラルンプルまで何度も車で往復していたが少し横道にそれるマラッカはいつも素通りしていた。今年(2019年)3月、国際会議がクアラルンプルで開催された折、ようやく訪問できた。マレー一帯に移住した中華系の末裔はペラナカン(プラナカンとする説もあるが、シンガポールでは“ペラナカン”と発音されていたので、この稿ではそうする)と呼ばれ、中国本土の支那様式(多くは福健出身。潮州色が顕著)とは色彩の違う独特の料理や建築様式を発展させた。シンガポールにもペラナカンのレストランがあったが、このマラッカがペラナカンの聖地で、この地のチャイナタウンはペラナカンの風俗が売りものである。さらにポルトガルとオランダの統治時代の砦や教会がそのまま残されていて、エキゾチックな佇まいを見せる観光地となっている。海峡につながるマラッカ川の両岸に町が発展し、海から見て左岸には中華街が、右岸には西洋人の町が発展したようだ。右岸川沿いのレンガ造りの要塞には小舟用の船着き場がある。フェートン号のペリュー艦長はここから上陸し、砦守備隊(Garrison)司令官に挨拶し、父ペリュー提督の命令書を見せて水牛などの補給を依頼したのだろう。そこから緩やかな丘を登れば、中央には植民地時代の政庁が健在で、さらに上るとオランダ時代の教会が観光スポットの一つになっている。丘の右手の高みには海を見下ろすポルトガル時代以来のレンガ造りの要塞(サンチャゴ砦)が残っているが、中に入ると風がよく通り、熱帯の暑さをしのげる涼しさだった。オランダ統治時代にはバタビア(ジャカルタ)が交易の大中心地となり、マラッカは香辛料を始めとする貿易拠点としての意味を失った。今は、ペラナカン風俗とポルトガル、オランダ、イギリスという西洋3国の遺跡を目玉にした観光地である。
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