1807年9月、新任の長崎奉行松平図書頭康英(ずしょのかみやすふさ)が着任した。博多を起点とする長崎街道最後の峠で、長崎への入り口である日見峠には町年寄、オランダ通詞など大勢の盛大な出迎えを受けての長崎入りだった。前任の曲淵景露との交代であるが、曲淵は長崎奉行所本庁である立山役所にいるので、彼の江戸への出立までは西役所に滞在したはずである(正確には曲淵は前任ではない。長崎奉行は二人制なので、新任の松平康英が着任すると曲淵は江戸に戻り、江戸城で在京の長崎奉行として勤務することになる)。西役所は小高い丘の上に聳え立ち、すぐ足元には出島を睥睨し、南には長崎の町が中島川(当時は大川と言った)の両岸に立ち並び、北には長崎湾を隔てて稲佐山とその麓の稲佐郷などを望見し、西には長崎繁栄の源泉である唐やバタヴィア(ジャカルタ)に通じる東シナ海に通じる女神の海峡がはるか彼方に見える。第81代長崎奉行に任じられた松平康英はこの時公(おおやけ)には48歳、実年齢は41歳(「崎陽日録」)の、歴代の長崎奉行の中では若さを誇る俊英である。緑濃い山々に囲まれて細長く伸びる湾の形状から「鶴の港」とも呼ばれる美しい長崎の港を見下ろして、松平康英とその家来一党百名余(推定)は言いようのない感動と興奮に包まれたことだろう。辞令が交付されたのは1月30日、江戸を発ったのは7月である。眼下のちっぽけな街は3万人もの人々と5千人の唐人、数十人の紅毛人(オランダ人)が暮らす異郷である。それは千里に近い道程を旅する中で見てきたどの街よりも豊かで絢爛な街であり、彼等はそこに君臨することになったのだ。長崎に貿易に訪れる唐人からは長崎奉行は「長崎王」と呼ばれた存在だったのである。長崎奉行の任期は概ね2年であるが、その業務の煩雑さや複雑さゆえか、78代の肥田豊後守は6年、79代の成瀬因幡守は5年と任期が長くなっている。長崎奉行は二人制で一人は江戸在勤、一人が長崎駐在であるから肥田と成瀬の長崎での勤務はその半分の期間であったろうが、例え一年であろうと長崎奉行を長崎で勤めると、江戸の窮屈な暮らしでは想像できないほどの富と驕奢が約束されるのである。その詳細を説明しよう。
松平康英は二千石の直参旗本である。旗本の中では中堅クラスとなる。長崎奉行に任ぜられると、役料(役職手当)が加増されるが、外山幹夫の「長崎奉行」36pによれば文化年間は「四千俵」とある。これではわかりにくいが天保三年(1832年)には金3千両に改訂されたというから松平康英の頃には二千両は下らなかっただろう。実は長崎奉行の真の旨味は給与に加えて職務柄の役得にあるのだ。
「長崎奉行の歴史」(木村直樹)が詳しいので紹介しよう(111p)。天明年間、松平康英の約20年前の奉行末吉利隆が残した「出入り御勘定帳」を基にした分析である。役得として年間471貫目(一貫は百両)の収入があった。まず、三分の一が八朔(8月1日、家康の江戸城入場記念日)に、地役人(長崎町民でありながら長崎奉行の配下として貿易実務や治安維持を担った人々。およそ2千人もいた。長崎独特の制度)、町民、内外商人(オランダ商館も含む)から贈られる八朔銀である。豊かで驕奢な長崎の商人たちが贈る八朔銀は実に潤沢であったろう。次の三分の一が「受容銀」の受け取り。受容銀とは貿易で得た巨額な利潤の一部(半分以上は運上金として幕府に上納されるが、残りは長崎の町のものとなる。残りと言ってもこれまた巨大な額になる)が長崎の町民に配分されるのだが、長崎奉行にも分配される。最後の三分の一は、貿易機関である長崎会所からの支払いである。
この収入の4割は末吉の家臣たちに配分され、1割が貿易品の購入(後述の御調物(おしらべもの)である)に充てられ、残った自身の取り分5割が4200両にもなっている。うち1000両は足軽たちの雇用資金であるので、最終的に3200両が残る。1年に、である。これは現代に置き換えると3億円の価値があると言うのだ。
だが、それだけではない。上記の貿易品の購入1割がまた大きな利益に化けるのだ。この購入の仕組みが貿易特権である。「御調物(おしらべもの)」という名目で、希望の品を原価で買う特権である。その商品を京都や大阪で売れば数倍もの利益が出る。なぜこういう特権が許されたかというと、長崎奉行は将軍の「お買い物役」という業務があったからである。将軍から海外の高価なあるいは珍奇な品々の注文がたくさんあり、それを買い付けなければいけない。そのために「オランダ渡り」(舶来品)への目利きが出来るためということがあったからだろう。
また諸藩からの付け届けがある。天領長崎に所在する長崎奉行は将軍の名代として九州諸藩の上に立つ存在である。抜け荷や異国船警備で諸藩を指揮する立場だから、日頃から諸藩は長崎に駐在する聞役(ききやく)を通じて長崎奉行の指令指示を賜ることになる。また諸藩の領主(大名)の「オランダ渡り」買い付けも長崎が舞台になるから、付け届けが欠かせない。初任時、官位の昇進、年始歳暮に高価な品々が届けられ、門前市をなしたという。江戸時代からつい最近まで、日本(だけでなく世界でも同様だった)は贈答社会だった。大名が買い付ける舶来品もまた幕府への贈答などに使われることも多かったのだ。「長崎奉行の歴史」113pには商人との揉め事を内々に処理してくれたお礼として佐賀藩から内密に百両のお礼金が服代の名目で支払われている例があげられている。
こうした長崎奉行の収入の大きさを如実に示すのが、遠国奉行(京都,大坂,伏見,駿府などの町奉行や長崎,山田,日光,奈良,堺,佐渡)が任地に赴任する際に幕府が支度金として貸与する拝借金の返済である。長崎奉行についていえば、長崎への道中は十万石の大名並みの格式とされ、その供揃えも大名行列に引けを取らない人数が必要となり、上記の足軽雇用を始め、宿泊は本陣泊となるなどの格式に合った費用が必要となる。道中九州諸藩の大名が出迎えることもあり、また長崎に着任すれば長崎港警備を担当する福岡藩佐賀藩と言った大藩の藩主が挨拶に訪れる。奉行は将軍の名代として上座に座るため大藩に伍する格式が必要であり、そのため幕府は赴任費用を貸し付けた。これを「拝借金」という。一般に三百両であったが、長崎奉行は遠隔地でもあるので一千両を貸し付けた。他の奉行は返済に十年をかけたというが、長崎奉行は先の末吉の例で言うとたったの一年で返済している(「長崎奉行の歴史」(木村直樹)114p)。これが他の役職と比べていかに長崎奉行の余禄が多かったかを雄弁に物語る。
このことは松平康英のみならず、彼の家老や用人らも十分意識していたろう。前述のように主人松平康英が得る巨額の収入の4割は家来に配分されるから、それだけでも江戸にいる時に比べると段違いの収入増になるが、奉行の家臣という地位が長崎の街では大きくものをいうだろう。奉行へのお願いごとの取次ぎ、スケジュールの確保、許認可の取り扱いなどで奉行に限らず家来たちにもその地位に応じていろんな付け届けがあるだろう。酒食の席での供応も盛んであろう。南蛮料理、中華料理、長崎独特の卓袱(しっぽく)料理、皆物珍しく、江戸では噂ばかりで手の出なかった珍品を奉仕されるのである。もうひとつ、大きな楽しみ、それは遊郭丸山の存在である。長崎へは松平康英以下、全員単身赴任である。元禄の最盛期には二千人の遊女を誇った全国に轟く遊郭丸山には遊女に加え、長崎芸者がきらびやかな「長崎衣装」で着飾って手ぐすねを引いているのだ。松平定信の寛政の改革(1787年から)が始まって以来、江戸での暮らしは倹約が常態で心理的にも経済的にも窮屈な筈のこの頃の旗本の家来たちにとって、それはアラビアンナイト、いや日本風に言えば竜宮城へ赴任した思いもあったろう。レザノフの章で触れた狂歌で有名な大田南畝(蜀山人)も幕臣として赴任(支配勘定方。長崎奉行の配下ではない)したが長崎での単身生活を大いに謳歌し、「彦山の上から出づる月はよか こげん月はえっとなかばい」という長崎弁の句を詠んでいる。(彦山から出る月は良いものだ。こんないい月はちょっと他にない)」という意味だが、これは丸山の遊郭か、眺望の良い料理屋で芸者を侍らせながら詠んだものだろう。江戸では若い頃(田沼時代)は吉原にも通った日々もある大田南畝、長崎での一年の単身暮らしは「えっとよかばい」(とても良い)だったのだ。三万人の人口、唐人五千人、オランダ人の住む出島を司る奉行所はその業務(貿易管理、抜け荷警備、異国船管理、市中の警察司法業務)の広範さに比べると保有スタッフが足りず、松平康英の家来たちも煩雑な業務に忙殺されることになるのだが、それにしても江戸を離れて余禄も娯楽も桁違いの長崎での暮らしには胸が膨らんだに違いない。僅か一年後の運命の残酷な変転を誰も予想だにしなかったろう。
ここで長崎の行政システムの特異さに目を向けて見よう。そのためには長崎の街の歴史と長崎奉行所の関り、そしてなにより貿易の盛衰が見るべきポイントとなる。遥か信長の時代、長崎はキリシタン大名大村純忠が支配していた。この頃の長崎は諏訪神社から西役所跡(前の県庁所在地)までの丘が海に突き出た長い岬(長崎の語源とも言われる)でその両脇、中島川両岸(今の繁華街、築町や浜町)と長崎駅の辺りは海だった。その岬上の古い長崎に成立した六つの町と茂木、後に浦上も含めて、大村純忠がイエズス会に寄進したのである。天正8年1580年のことで、のちに秀吉が没収するまでの8年間、長崎はイエズス会が支配する「異国」だったのである。「長崎歴史散歩」(劉寒吉)によれば「ここには一人の異教徒もなく(中略)異国風な城壁でかこまれた町は三重の壕で外部との間を区切られていた。切支丹にとっては、まさにこの世の天国ともいうべきバードレ(司祭)支配の宗教都市が出現したのである。この時代に長崎に建てられた南蛮寺は、サンタ・クルス寺、サン卜・ドミンゴ寺、サン・ジュアン・バウチスタ寺、サンタ・マリヤ寺、サン・フランシスコ寺、サン・アントニオ寺、サンチャゴ寺、サン・ペトロ寺、オーガスチン寺などで、他に既設のトードス・オス・サントス寺があった。さらに、これらの教会を統轄するコンバニヤ・デ・イエズス( 耶蘇会本部) の建物が外浦町にそびえ立っていた。 いまの県庁のあたりである。現在の筑後町の本蓮寺はサン・ジュアン・バウチスタ寺の跡だといわれ、ここにはサン・ラザロ病院も設けられていたという」(34p)。この長崎には、コレジョ(カレッジ)、セミナリヨ、ノビシアード(修練院)が建設され、エリート切支丹を育成していた。少年4人による天正遣欧使節はこの時期に出発している。今となっては想像が及ばない社会が存在していたのだ。そのあまり「長崎中スベテ耶蘇宗門ニ帰依セシメ、我意ヲ振舞ヒ、南蛮の頭伴天連を主人の如く取持ツ」ったうえに、南蛮商人の暴慢さが町民の反感を買うまでになった。この頃秀吉が日本統一を果たし、九州平定のために筑前箱崎の浜(今の福岡市東区)にあった。早速日本イエズス会の副管区長コエーリョが祝賀のために訪問し、南蛮料理や葡萄酒を振る舞い、秀吉を喜ばせた。その直後に今度は長崎の町民たちが祝意を伝えるために訪れ、同時に南蛮人の横暴を訴えた。秀吉が驚いたのは長崎がイエズス会の知行所(領地)となっている実態と、日本人を奴隷として南蛮船に積み込んでいる事だったと言う(36p)。激怒した秀吉は五カ条からなる伴天連(バテレン)追放令を発し、切支丹知行地を没収するとともに長崎奉行を設置した。これが長崎奉行の始まりである。この後、一時切支丹禁令はなぜか有名無実となる。イエズス会のトップ(秀吉)攻略が巧みだったからである。
ここで圧政に喘ぐ人々のみならず、なぜ大名までもが先を争って入信したかの事情を説明しよう。種子島に漂着したポルトガル人がもたらした火縄銃は、当時の戦闘に恐るべき破壊力をもたらしたイノベーションであった。それを証明したのが織田信長が勇猛武田勢を壊滅的に破った長篠の戦いであった。以降、戦国大名たちは火縄銃と大砲(大筒とよばれた)による戦力強化に血眼になる。そこに目を付けたのが、イエズス会の宣教師団であった。南蛮船との交易は戦国大名にとって二つの動機があった。ひとつは交易による利潤を獲得すること(これは戦費の増強につながる)、もうひとつが世界最新の兵器(銃と弾薬)を手に入れることだった。イエズス会はこの南蛮船による貿易の機会を自分たちの進出の条件にした。南蛮船との貿易を望むなら、南蛮僧を招いて切支丹宗を受け入れ、領主自らが入信する、入信しなくても布教を認める。こうして彼等は戦国大名に食い入ったのである。最初は利潤と最新兵器欲しさに伴天連僧を領内に入れた大名の中には、やがてミイラ取りがミイラになるように、本物の熱心な信者になるケースが出たのはご承知の通りである。彼等は信長や秀吉のような最高権力者への取り入り方の上手さも半端ではなかった。切支丹禁教令が何度出されても、あいまいな状況が長く続いたのはこの権力者へのアプローチが秀逸だったからだ。長崎が秀吉に没収され長崎奉行が設置された後も、伴天連が長崎に復活し、町が活気を取り戻したりしていたのだ。
そんな生ぬるい状況が一挙に覆ったのが、サン・フェリペ号事件である。慶長元年1596年、フィリピン(当時スペイン領)からスペインに向かっていた千トンの大船サン・フェリペ号(乗員乗客233人)が嵐にあって土佐に漂着した。秀吉の命で大阪から駆け付けた増田長盛に船員が剣呑な態度を取ったため積み荷を没収しようとすると「世界を征服している大国イスパニアに逆らうなら、こんな小さな国は領土にしてしまうぞ」というので増田長盛が「どうやってそれほどの領土を征服したのか」と問うと「狙いをつけた国に、まず伝道師を送りこむ。住民をキリシタンに引きこむ。キリシタンになったところで、それを足がかりに軍隊を送って攻略する。イスパニアは世界最強の軍隊を持っているのだ」。船員は自慢したつもりが、スペインの手口を暴露してしまったのである(「長崎歴史散歩」44p)。これに秀吉が反応し、国中の伴天連の逮捕と処刑を命じたのである。だが石田三成は小西行長らのキリシタン大名と相談して、フランシスコ会をターゲットとした。イエズス会はザビエル以来のポルトガル国が支え、一方の日本での後発のフランシスコ会はスペインに支援されて、両会派は植民地の獲得を競うライバル関係にあった。秀吉の禁令はイエズス会によって利用されたとも言えよう。長崎の西坂の丘にある二十六聖人記念館はこのフランシスコ会の人々の殉教碑である。江戸幕府成立のあと、島原の乱が起こり、これを制圧した後に切支丹禁教が日本全国で完全実施になる。長崎の南蛮寺はすべて取り壊され、代わりに筑後町から諏訪神社の寺社の列、諏訪神社から崇福寺までの寺町の並びと、二つの寺社のラインが蟻一匹通さない、まるで壁のように長崎の旧市街を取り囲む禁教都市が出現したのである。
江戸幕府により、海外との貿易の窓口は平戸にオランダとイギリスが商館(東インド会社)、長崎の出島にポルトガルの商館があったが、全面禁教と貿易の窓口を長崎だけにしたので、キリスト教国のポルトガルは締め出され、ポルトガルに代わってオランダが長崎出島に移行したのだ。イギリスはインド攻略に専念するため、日本からは撤退した。因みに、島原の乱で原城に籠城した天草四郎らの反乱軍に手を焼いた幕府はオランダ船に砲撃を依頼し、オランダはこれを受け入れて海から原城を砲撃して反乱鎮圧に手を貸し、幕府に恩を売った。媚びた、という言い方もできるかもしれない。この事件で、商売のために宗教を捨てたオランダ、という悪名がヨ-ロッパで定着し、ドゥーフはその自伝Recollection of Japanで躍起になって釈明に努めている。オランダの他にもう一国、キリスト教でない明国(後に清国に代わる)の商船が長崎での貿易を許された。
徳川幕府の隆盛が頂点を極めた寛永年間から元禄時代、長崎もまた繁栄の頂点を極めた。附表は「長崎奉行の歴史」166pからの抜粋であるが、寛永から寛文まで(1641年から1672年)の時期は、オランダ船の来航が10隻を超える年がいくつもある。32年間に実に227隻もの来航である。その後元禄年間(1688年から1703年)にかけて来航数は減少し、年3隻から6隻となっている。一方で同時期に唐船の入港が激増する。年100隻を超える時もあり、元禄年間だけで1,359隻、まさに雲霞のように押し寄せて来ているのだ。オランダ船と唐船は日本では手に入らない商品を満載してくるのだから価格は天井知らずとなりやすく、それを取引する商人の利幅も大きい。この時期、長崎は貿易バブルの頂点にあり、市中は「息をすれば金銀に化ける」そんな空気が支配していたのではなかろうか。私の世代が1980年代後半から経験したバブルがまさにそうであったように。
長崎の町年寄、大通詞などの特権集団は大名と並び立つ、いや小大名などは比較にならないほどの富を蓄積し、長崎会所(公的貿易機関)の莫大な利潤は江戸幕府へ還元され、残りは先に書いた受容銀として長崎町民に分配された。元禄12年1699年には運上金として幕府に還元されたのは20万両、長崎に残った貿易利益(これは奉行も含めて長崎の町民に分配される)は13万5千両である(「長崎の唐人貿易」山脇悌二朗92p)。幕府の経済基盤は米であるから、成長の余地は少ない。すでに武士階級の収入は元禄の頃から縮小が始まっていたから、長崎が生み出す富の恩恵は大きい。長崎奉行の重要性も増し、これを反映して「長崎奉行を重視した江戸幕府は、元禄二年1689年以後長崎奉行の官位を諸大夫(五位)とし、江戸城では芙蓉間詰に昇進させた。さらに元禄十二年以後は、京都町奉行や大坂町奉行を含め、遠国奉行の筆頭、町奉行としては江戸町奉行につぐものとして位置づけた)(「長崎奉行」外山幹夫20p)。一時、長崎奉行は4人制(2人は江戸勤務、2人は長崎赴任)にまで拡充されたこともある。また長崎の町年寄高木彦右衛門は「長崎運上役人」として帯刀が許された。だが、この莫大な富を生み出す貿易実務は、江戸から派遣されてくる奉行たちにはとても管理できるものではない。知識も経験もまた家来の中に専門家としての人的リソースも全く無いからだ。「複雑な貿易制度の利潤の上に成り立つ長崎を支配するためには、長崎奉行は、地役人という町人出身の下級役人がいなくては貿易業務一つすらできない」(「長崎奉行の歴史」88p)。 その結果、「長崎奉行は、他国の奉行と違ひ、交易の事を専要にして、其余の事は枝葉の如し、町方の仕置公事出入等迄、悉く同所年寄方にて吟味を遂、奉行所には相届候迄に而(て)、年寄方においてそれぞれ夫々に申付る事也、故に町年寄威に誇りて我怠を振ふ事多し(『翁草』〉長崎奉行 外山幹夫18p)。こうして長崎は地役人(長崎奉行所の役人となった長崎町民)が2,000人近くにもなり、数人の町年寄のもと貿易や行政の殆どが管理実施され、長崎奉行もそれに依拠しなければ務めができない、ということになる。切支丹取り締まりが一段落した後、長崎奉行は抜荷の監視と処罰で手一杯で、しかも貿易を振興させるというミッションもあるから、必然的に町年寄以下の民間統治体制と持ちつ持たれつ、ということになる。長崎のバブル経済とその統治システムは、日本に唯一無二の異様なものとなっているのだ。これが長崎の特徴であった。
米を基盤とする幕府の武家経済は、江戸時代が進むにつれ貨幣経済を基盤とする商人たちに圧倒され、倹約節約を唱えるしか能がない幕閣中枢は長崎からの収入を当てにしながら、精神的には「町民どもが好き勝手に贅を尽くす」長崎への嫌悪感が醸成されてゆくのである。それは正徳新令や寛政の改革となってのちに長崎を襲うのだが、取り敢えずここでは置いておこう。
「江戸時代の武家のモラル、農家百姓のモラル」は勤勉倹約が柱である。だが長崎の特異性は、貿易利潤から生まれた巨額な受容金は長崎の町民に分配されることである。百姓は年貢を納めるが、長崎町民は納税義務がないどころか、逆に金が分配されるのだ。「箇所銀」が地所持ちへ、「かまど銀」は借家人に配られた。しかも町年寄は大名屋敷に匹敵する大邸宅を構え、通詞たちは千両単位の収入があり、貿易商は一攫千金の商売に没頭している。それを狭い長崎で身近に見ている長崎町民のモラルは他の都市とは全く違ったものであったろう。森永種夫の「犯科帳」(長崎奉行所の判決記録)に登場するのは「楽して儲かりたい」という、武家や百姓とは様相が違う長崎の住人たちである。
富が生まれるところには、人々が群がる。例えば元禄10年1697年は、小さな長崎の町の人口は5万人に膨れ上がった。小規模の藩の人口を軽く凌駕し、中規模の藩に匹敵する。長崎衣装と呼ばれる派手な装いに鼈甲(べっこう)や珊瑚(さんご)で着飾った遊女と芸妓の数が二千人を超える遊郭丸山は夜を知らない賑わいを呈した。このような金権の権化のような長崎には日本人とはまったく違う道徳観を持つ唐人が最盛期には1万人(通常5千人規模)も滞在しており、そのせいもあって長崎の風紀は緩かったと思われる。武士階級が支配する謹厳実直な三百諸藩とはまるで異なる社会であった。そのような中で、長崎の特異性を象徴する事件が起こる。「深堀事件」である。
この事件は「町年寄筆頭の高木彦右衛門の浜町の邸宅が、たとえば、江戸の五千石の旗本屋蚊よりも壮麗であり、百人あまりの使用人や牢人者をかかえて、その生活が十万石の大名以上であるといわれても、それは当然のこととされていた」(「長崎歴史散歩」122p) という高木彦右衛門(先に幕府より帯刀の許しが出た町年寄である)を巡って起こった。時は元禄13年1700年の12月19日、浅野内匠頭の松の廊下の刃傷事件が起こる3ヶ月前のことである。高木彦右衛門の初孫の宮参りの振る舞い酒に、高木家の若党たちが折からの雪の中を町へ出た。高木屋敷は立山役所と西役所を結ぶ大通りに面した一等地にあった。そこから下町へ坂を降りてゆく途中で、深堀藩の二人の武士と高木家の二人の若党がすれ違う時に、老いた深堀三右衛門が杖を滑らし雪でぬかるんだ泥を跳ね上げ、若党の顔にかかったのだ。「酔っている若党たちは大声でわめき立てた。高木彦右衛門様の家来と知っての上であろう、 面体に泥をかけたのはいかなる意趣あってのことか、といきまくのに三右衛門は詑びた。われらは深堀の家士だが、すまぬことをした、けっして心あってのことではない、と頭をさげた。 武士が町人の家の者に頭をさげるというのは階級制度が確立されていた時代におかしなことだが、長崎における町年寄の権威は後世からの想像を絶するものがあったようである。向う見ずの酔っぱらいの暴慢に三右衛門も武右衛門も耐えた」(「長崎歴史散歩」124p) が発端である。行き違いがあって高木家の酔った若党20人が深堀班屋敷に押しかけ、二人の武士の刀を奪い屋敷内を散々狼藉して、高木家に手向かいした報いだ、と罵って帰った。深堀藩は長崎の南に位置する野母半島を支配している。佐賀鍋島藩の飛び領である。深堀家は鍋島本藩の家老でもある。日頃の町年寄への反感もあったのだろう。レザノフの章でもみたように、レザノフの警護をした近隣諸藩の武士たちは長崎の特権階級を心よく思っていない。増長した町人への復讐心がたちまちに沸点に達した。深堀を発した数十人の武士団は翌夜明け高木屋敷に討ち入り、待ち構えていた多くの武芸者を打ち倒し、町年寄高木彦右衛門の首を打ち取った。事件の契機となった深堀三右衛門らはその場で見事に腹を切って果てた。襲撃に参加した武士たち10人が切腹、5人が遠島となったが、主人の深堀官左衛門にはお咎めはなく、打ち入られた高木家の子の彦八が長崎追放の処分を受けた。この事件の衝撃は大きく日本中で取り上げられ、討ち入り時に二人ひと組で行動したことなどが赤穂浪士の吉良邸討ち入りの参考になったと言われている。ここに見られるのは長崎の権勢者の傲慢ぶりと武士階級の反感の爆発であり、その処断には明らかに深堀武士団への幕府の共感が見てとれる。深堀武士団の切腹は長崎奉行ではなく、死罪以上の処刑は幕府老中の決定事項であるからだ。長崎の統治体制の異様さが生んだこの事件は幕閣中枢の記憶に刻まれ、長崎への嫌悪感醸成を下支えしたと思われる。
長崎にはもう一つの大きな経済問題があった。対外貿易が原因の大量の金銀銅の流出である。日本は輸入代金を銀、のちに銅で決済した。またある時期には金貨(大判小判)が流出した。オランダ船や唐船は、日本の金銀銅を持ち出すだけで、中国・インド・ヨーロッパで大きな交換益を得ることが出来たのである。寛文9年1669年に長崎奉行の河野通定が直前の20年間に唐蘭へ輸出した銀高を調査したところ実に60万貫目、年平均3万貫目(現代では112トン)の銀が流出していたしていたがわかった(「新長崎年表(上)」255p)。当時、銀座で吹き立てる銀は年7,000貫目だから、生産量の4倍強の銀が毎年流出したことになる。当然、国内で流通する銀は急減しただろう。これに危機感を持ったのが新井白石(1657〜1725)である。江戸時代は世襲制であるから人材登用が停滞したのではないかと思いがちだが、それは正しくない。折々に極めて優秀な人材が登用されている。その代表的な例がこの新井白石や田沼意次である。新井白石は無役の下級旗本でありながら最終的には6代将軍家宣のアドバイザーにまでなった。ただし格式ある身分ではなかったために、表向きは側用人間部詮房を介しての助言という形を採った。江戸時代には何人もの神童が幕府の要職に引き立てられている。勝手な想像だが、新井白石は現代に生まれていれば恐らくIQ160レベルの天才だったのではないかと思える。幼い頃からさまざまな人が彼を引き立てているからだ。彼の政策の中で重要なことの一つが長崎対策だった。彼にとって、生糸絹織物などの生活必需品ではない贅沢品を輸入するために多額の金銀銅という国富が流出するのは耐え難いことであった。いかにも頭のいい人間が考えそうなことであある。彼の提案は極端(これも頭でっかちの気がある)で、貿易規模を4分の一に削減しようというものであった。なかでも標的になったのは唐船による貿易で、新井白石の時代には年間に80隻から90隻の唐船が押し寄せてきていた。するとこれに群がる抜荷も夥しい数に上っていた。この唐船の貿易額を制限し、帰国する際の検査を厳重にする、唐人屋敷に収容している唐人たちを経費節減の観点から長崎の町に割り当てて居住させる、というのが骨子である。将軍案として老中からこれを当時4人いた長崎奉行(2人は江戸勤番、2人は長崎在勤)に「存分に意見を言え」と諮ったところ、4人の奉行は連名で猛反対をした。議論が封印されることになったそうだから、この反対論の激烈さが想像できる(「長崎奉行の歴史」79p)。第一に、長崎奉行の最重要の任務は貿易振興である。その立場からすれば貿易規模を4分の1という規制が長崎でどのような反応を起こすかは肌身で熟知しているから、絶対に飲めない話だった。下手したら長崎が騒乱状態になるかもしれない。しかも5千人をくだらない唐人は従順な人間ばかりでないから取り締まりは極めて大変で、唐人屋敷内や町で喧嘩騒ぎはしょっちゅうである。彼らを町に分散させて居住させれば、かえって抜荷を煽るようなものである。その上、帰国時の抜荷検査をさらに厳重にしろというのは、抜荷監視の地役人が唐人に囲まれて抜刀するまで追い詰められた事件もあったほどだから、強大な武力を持っているわけではない長崎奉行にとっては、とても受け入れられない相談だったのだ「(長崎奉行の歴史」81p)。
議論封印となって、新井白石の過激な改革案は棚上げになった。だが、この件でよくわかるように幕閣中枢の「貿易で繁栄して好き放題に贅を極める長崎」への嫌悪感が露呈したのである。だが、当時「御老中でも 手が出せないのは大奥・長崎・金銀座 」ということが言われていた。これは恐らく巨額の運上金を長崎がもたらしていることと、もう一つは長崎奉行が「将軍の買い物係」と呼ばれたように、「オランダ渡り」(舶来品)を入手できる長崎が歴代の将軍のみならず大奥にも必須な存在であったから、と思われる。日本人の舶来品好きは、そのDNAに固く刻まれているかのように神代の昔から続いている。近くで言えば信長は南蛮由来の鎧を愛用したし、キリスト教禁止を考えていた秀吉は伴天連の献上品攻勢に翻意したりした。オランダ渡りだけではない。唐人がもたらす生糸や絹織物は大奥の貴婦人たちには、欠くことのできないものだった。
だが新井白石は諦めず、ついに正徳5年1715年、海舶互市新例(正徳新令、長崎新令とも言う)が実現する。これは長崎貿易にとって非常に大きな影響を与えることになる。その内容を見てみよう。以下、「長崎奉行の歴史」89pから抜粋する。
1唐船の貿易は、年三十隻とし、貿易上限額は銀で六千貫とし、その内銅は300万斤 とする。
2オランダ船の貿易は、年二隻とし貿易上限額は金五万両(銀三千貫)とし、その内銅50万斤とする。
3貿易に余力があればオランダ・唐人合わせて三千貫目分までは物々交換も認める。
4唐船に対しては、翌年の入港を許可する信牌を交付する
5長崎会所が中心となって外国人と値段を定め、その上で入札をおこなう。
6貿易の利潤は年平均一二万両程度だが、七万両は長崎の運営にあて、残りは予備費としておく。
長崎にとっては夢の終わりとも言えるほどの改革だった。それほど金銀銅の流出と抜荷(密貿易)は、幕府の重大事であったのだ。これ以降の18世紀、長崎は下り坂を歩くことになる。さらに追い打ちがかかる。松平定信の寛政の改革である。
将軍になる可能性もあった松平定信が血筋の良さを活かして目指したのは、第一に田沼意次の政策の否定であった。田沼意次の時代は後世から賄賂政治と位置付けられているが、実は武家政権がとった商業主義の経済政策であった。経済は興隆し、バブル景気となっていた。だが定信には苦々しい思いがあったのだろう、バブル景気に伴う人々の暮らしの華美は全て目をつけられ、山東京伝等が取り締まりの対象になる。今の習近平と同じと言えば言い過ぎだろうか。寛政の改革で、日本人の着物は派手から地味へ変わる。地味な中に、独特の趣向を凝らして粋人を気取らざるを得なくなった。もう一つ目をつけられたのが長崎である。「御老中でも 手が出せないのは大奥・長崎・金銀座 」と言われた長崎改革に乗り出した。彼の長崎観は「長崎は日本の病の一ツのうち」であり、また「長崎之地ことに乱れて」(「長崎奉行の歴史」8p)という長崎にとっては恐るべき考えの持ち主であった。定信は長崎奉行に水野忠通を起用し、改革に取り掛かる。長崎の町民の力を削ぎ、貿易半減令を布告してオランダ船の来航を年1隻に制限し(これは後に撤廃される)、商館長の江戸参府も毎年から4年に1回とした。この時、恐らく通詞たちの密かな抵抗があったのだろう、貿易半減令をオランダ語に訳した文書が不正確として通詞幹部8名が処罰されている。これは見せしめでもあったろう。だがその水野忠通も収賄の責任を取る形となったが、これは長崎というシステムの反撃ではなかったかと思われる。 だが、19世紀に入るとロシアが蝦夷地に出没するなど異国船の渡来が活発化し、定信の方針は次第に骨抜きになっていく。一方で日本側の事情だけでなく、ヨーロッパにおけるナポレオン戦争の余波で、バタビア(ジャカルタ)そのものがオランダ船を送ることができず、スチュワートに代表されるようにアメリカ船等の傭船が細々と長崎へ来る事態になっていたのは、これまでの章で見た通りである。松平図書頭康英が赴任したのは、オランダとの貿易については絶頂期を過ぎた長崎であった。23章から28章にまで渡って詳述したレザノフの来航時にロシアとの交易にオランダ通詞や京大阪の商人までもが期待し熱狂したのは、こういう事情があったからである。