マラッカ海峡は静かな海である。西の対岸にはスマトラ島があり(もちろん肉眼では見えない距離にある)、東のマラッカ側にはマレー半島があるので風は弱い。フェートン号は穏やかな海面をマレー半島南端を目指して南下する。出航の28日から深夜の2時や3時に搭載した水牛の屠殺が行われた。6日間にわたって毎日2頭ないし1頭を深夜2時から3時ごろに殺し、計1,634ポンド、741㎏の精肉を得た。乗組員一人当たり2㎏を超す量である。赤道はすぐ南の炎天下なので殆どが備蓄用に塩漬けにされただろうが、出航以来3週間、休日もなく働かされマラッカでの上陸機会も無かった水兵たちにボーナス的に新鮮な肉料理が振舞われたことだろう。
全頭を屠殺せず数頭は生かしていればとも思うが、300人もが搭乗する狭いフリゲート艦内にはそもそもスペースが無かったろう。飼料も搭載していないだろう。それにしても連日真夜中に屠殺するというのは農耕民族の日本人からすれば不気味な感じがするが船乗りの習慣かジンクス(言い伝えとか迷信、ゲン担ぎ)だろうか。
ここで一つ疑問が生まれる。フェートン号がマラッカ要塞からの礼砲を受けて港外のマラッカロードに投錨したのは午後3時。4時か5時にはペリュー艦長はマラッカ要塞を表敬訪問(あるいは報告)したことだろう。恐らく1泊はしたことだろう。その翌早朝6時には10頭のバッファローbuffalo(水牛)がフェートン号に搭載された。この手配の速さはなぜだろう?この当時は当然ながら電信はない 従ってあらかじめマラッカ要塞にフェートン号の寄港を知らせるにしてもバケット船(郵便船。この当時アジアで機能していたかは疑問)もしくは東へ向かう商船にメッセージを託すしかない。もしそれをやっていたとしてもマラッカ要塞側にはフェートン号がいつ到着するかおおよそのことしか分からないからこの手際の良さには別の理由があるだろう。それはマラッカは恐らく補給基地として結構な数の水牛その他の食料を備蓄していたと思われるのだ。だが水の補給が行われていない。マドラス出発時には 113 トンだった水が7月26日正午の時点で87.5トンである。つまり25樽と半分の水を消費していることになるわけだが次の寄港地がチャイナであるためか、あるいはマラッカでの水の補給は難しいのか、ここでは行われていない。
海が穏やかなせいか、マラッカ港外に停泊中から活発な修理作業が行われた。Sail maker製帆手、Carpenter船匠長(船大工)、Rope maker製縄手、Cooper樽修繕工、Artificer技術工(小型の武器や機関銃等の維持を職務とする下士官兵とする辞書もある)等が総動員されて早朝から午後遅くまで作業が連日行われた。ベンガル湾を3週間の航海で20枚以上の帆や総延長は何kmにもなるロープ類の傷みが激しかったからだろう。帆船とは常に手当てが必要なことがよくわかる。
フェートン号は今のシンガポールとマレー半島を結ぶジョホールバルを通過し、シンガポールに沿って東へ進み8月1日の真夜中、シンガポール島の東端辺りで投錨した。今のチャンギ国際空港の海側になる(ちなみにチャンギ国際空港は埋め立て地)。この頃のシンガポールは原住民の他はわずかなイギリス人が入植しているだけで主要な土地として認識されていないせいもあってフェートン号とシンガポールの関りはこの投錨のみである。午前3時積載しているボート二隻を下ろしマレー半島南端もしくはシンガポール島東端に上陸して大量の木を伐採した 。その目的はhogging the shipとある。Hoggingとは船が波などに持ち上げられて前後に変形することらしい。船腹が持ち上がり前後が下がることをHoggingと言い、前後が持ち上がることをSaggingと言うようだ。
帆船時代の木造船はこれに悩まされたようだ。そこで陸地にボートを送り、大量に材木を伐採して上方に湾曲変形したKeel竜骨を補強して船のバランスを直す作業をしたと思われるが、帆船時代のHogging修正作業の詳細は文献にも残っておらず詳細は分からない。 一方船上では製縄手Rope makerを先頭に 総員が駆り出されて古いロープをほぐしてマイハダ作りに行った。
これは船の水漏れをしているところに埋め込んで浸水を防ぐのである。またこの日は珍しく朝7時になって水牛二頭を屠殺している。作業は昼食をはさんで夜まで続き、午後8時には陸地から得た木材で船底の反り返り修復作業を行っている。 翌2日、いつものように朝3時に最後の2頭を屠殺している。船底修復作業はこの日も続き、大量のフジツボを船底から掻き落としている。 製帆手製縄手船匠長は連日の作業を引き続き行い、総員が昼食まで手伝っている。10時半に全ての帆を展張して出航した。南シナ海に入ったせいか時折激しいスコールが降って縮帆したり展張したりと作業も忙しい。3日、マレー半島から200km離れた海上を北上する途上、マドラス出航以来初めての戦闘訓練が行われた。“Exercised Great Guns & small Arms: fired at a Target”
午前9時過ぎ晴天で気持ちの良い追い風を帆走中、“Man the station” (総員戦闘配置につけ)と後部コーターデッキに立つペリュー艦長がメガホン越しに叫んだことだろう。早調子の太鼓が鳴り響きBoatswainボースンの鋭い笛が水兵たちを持ち場へ駆り立てる。ナイトシフトを終えハンモックで寝ていた水兵も大慌てで起きるとハンモックを畳んで低い天井に括り付ける。36ポンド砲の舷側砲門が一斉に開かれ、Gunner砲手を始めとした砲側の要員は巨大な黄銅砲の固縛を解き、砲門から砲身を突き出す。Powder monkeyパウダーモンキーと呼ばれる10代の少年たちが船底の火薬庫に駆け降りビルジ(船底に溜まる汚水)の悪臭の中を火薬袋にPowder火薬を詰め込み、ガンデッキ(大砲が並ぶ甲板)に運び込む。Marines海兵たちはマスケット銃に弾込めをして持ち場につく。
叫び声と水兵の足音で溢れかえる全艦の反応を見計らってペリュー艦長が“This is Drill”「これは演習だ」と明かすと水兵たちはかすかな安堵を漏らすが、すでに全員が汗まみれであったろう。たまたま流木などの浮遊物があったのか、それとも艦から的用の木材を流したのか、射撃訓練が行われた。何門の砲が実際に射撃したのか、海兵の小銃射撃がどうだったのか詳細な記述は一切無いが、航海日誌には正午になるまで他の記述はないので2時間程度は訓練が行われたのかもしれない。日本や中国と交易するオランダ船の航路なので発見した場合に備えての訓練であったろうし、また長い航海途上の火薬の保管状況(湿気てないか、など)の確認もあっただろう。フジツボを削ぎ落として快速を取り戻したフェートン号は時折のスコール(朝方に多い)を除けば良い天気に恵まれ貿易風に乗って素晴らしいスピードで南シナ海を北上した。西紗諸島東南東約2 km の地点で(ここは南シナ海のほぼ真ん中に当たる)進路をやや北北東に変え、わずか8日間でマカオ沖合へ達した。総計2630 km、 1日当たり330 km を進んだことになる。
8月9日午前4時、海南島の東方300km辺りを航行している時に二人目の死者が出た。 Carpenter船匠長のJohn Stanfordである。日誌にはそれ以上の記載はないが、 今後Carpenterとして毎日働ていた彼の死は色々な所で不便をもたらすのではないかと思われる。(杉浦先生の職制表挿入)によれば、標準的にはCarpenter1名、Carpenter‘s mate(助手)、Carpenter crew5名となっている。フェートン号に何名のCarpenter crewが乗船していたかはわからないが今後の大工作業はCarpenter‘s mate(助手)が指揮を執ることになったはずだ。
航海日誌における乗組員死亡の記載はいつも唐突で何の感傷もなく、前後の症状や死因、その後が語られることもない。僅かな弔意と祈りを述べられた後、急造の棺(棺さえ作らず単に本人のハンモックに包まれただけの可能性もある)に重石代わりに積まれた大砲の弾丸とともに深海に沈むだけである。もちろんこの職掌ではAdmiralty海軍省の記録にも残らないのだ。スタンフォードの水葬は午後1時30分に行われた。この時までは晴天である。だが、雲が出始めてスコールが来て、日が暮れてからは雷鳴とともに豪雨となって止む気配がなかった。これは7月22日にクリストファー・ギャリー水兵が死亡した時と同じである。あの時もギャリーが死んだ夜、雷鳴と激しいスコールが夜明けまで続いた。違うのはスタンフォードが亡くなってからは、ほぼ10日間も雨が続いたことだ。水兵たちはやるせなかったに違いない。
だが救いはやってきた。陸地が目の前だったことだ。翌10日の朝2時40分、Chinese Junk中国のジャンク船とすれ違った。陸地が近いしるしである。7時50分、測深すると35fathom(63ⅿ)であった。大陸棚だ。11時45分、北北西に陸地を望見した。8月2日以来の陸地である。マカオは目前だ。正午の天測で陸まで約79㎞と推定された。ちなみに毎日正午の水樽の検査でこの日の水の残量は64トンと報告された。マラッカで水を補給していないので、マドラス出航時の約半分に減っている。激しいスコールに見舞われて殆どの帆を縮帆したり午後3時に全帆展張したりを繰り返し、7時30分に錨を下ろした。マカオは北東約2㎞である。深夜、また豪雨であった。
翌11日朝、ポルトガル船2隻を臨検した。マカオはポルトガルの強い影響下にある貿易港である。今はもっぱらカジノの街として知られているマカオだが、元は聖フラシスコ・ザビエルが日本と往来する拠点であった。遠藤周作原作マーティン・スコセッシ監督の映画『沈黙』の冒頭シーンはマカオが舞台である。東方には香港島があり、北東には20世紀になって大発展を遂げる深圳がある、もっともこの頃はただの過疎地であったが。イギリスとポルトガルは14世紀に英葡永久同盟を結んでおり(スペインに対抗するため)、フェートン号が寄港したこの時期はナポレオン軍がポルトガルに侵攻し、対抗してイギリスがポルトガルに出兵しナポレオン軍と激戦を交わしている時期である。フェートン号にとっては友軍の寄港地であったろう。前章でみたイギリス東インド会社の商船隊はこのポルトガルでの激戦で消費される火薬の原料であるインド産の硝石を大量に輸送する役目もあったことは記述したとおりである。臨検したポルトガル船はポルトガル領チモールから来ていた。
朝4時前後(夜明けか?)積載ボートを下ろし、陸上へ向かわせた。多分ペリュー艦長自らが乗船していたと考えられる。イギリス東インド会社(イギリス政府から植民地インドの経済政治の運営権を委嘱されている)は、インド本土のカルカッタ、マドラス、ボンベイの3か所に総督を置き、ペナン(マレーシア西岸)とカントン(今の広州市。広東省の省都)にOutpost前哨居留地(今でいうなら駐在員事務所)を設けている(Stephen Taylor “Commander”)。
カントンは珠江(Pearl River)の河口に位置するマカオから、珠江を北へ約100km遡行した河沿いに発展した街である。ペナンと違ってカントンには貿易の重大拠点と言う役割がありそのためイギリス東インド会社はカントン商館と言うものを開いていた。『イギリス東インド会社』(ブライアン・ガードナー著浜本正夫訳)によると、1796年時点で16人のスタッフがいたと言う。
このカントン商館はカントンファクトリーと呼ばれる英仏などの西欧列強の貿易機関で、当時日本と同じ様に西洋に門戸を閉ざしていた清王朝が例外的にカントンで貿易を許可していた(カントンシステムと呼ばれる。カントンは長崎と同じような立場であったのである)。イギリスの商館は中でも重要な任務があった。
それはアヘンの密売である。フェートン号がマラッカに寄港した1808年からわずか22年後、イギリスはアヘン貿易の合法性を求めて第一次アヘン戦争を起こした。このアヘン戦争は国を挙げて賛同したものではない。国論は真二つに分かれ、後に大政治家と賞賛されたグラッドストンはこのアヘン戦争について「英国を永遠に恥辱に落とし込める」と大反対した。
マラッカでのフェートン号は水食糧の補給と船体の整備に大忙しだったのでアヘン戦争の詳細については後で取り上げることにする。
前述したようにマカオはポルトガルの居留地で、この物語の49年後の1887年にポルトガルに割譲され、正式にポルトガル領となった。イギリス東インド会社の派遣駐在員がマカオにいたとも思われるが、たとえいなくてもイギリスとポルトガルは反ナポレオン軍の盟友関係にあったから、マカオでの補給や作業は極めて順調に推移したように見える。
ペリュー艦長はインド艦隊司令長官の命令書(実際は父エドワード・ペリュー提督の作戦立案だが、命令書のサインは父エドワード・ペリューの後任であるドーリー提督による)を見せ、補給の手筈を整えたのだろう。このあと20日間にも及ぶマカオ滞在の間に大量の水食糧と船体の修繕用具がひっきりなしに補給されることになる。ペリュー艦長がボートで陸へ向かった後、この長い航海で初めての公開処罰が行われた。被告はWelt Boosd(職階職掌の記述は無いが水兵だろう)が“Insolence傲慢横柄な行動”の咎により鞭打ち2ダースを執行されている。“傲慢横柄な行動”は恐らく士官への反抗的な態度を見せたか、あるいは侮辱するような言葉を吐いたのであろうと推察される。
その午後4時30分、“Pilot came on board“とある。水先案内人が乗船してきたのだ。これは非常に興味深い記述である。マドラスであれ、マラッカであれ、泊地(Broadway)に停泊するときに水先案内人が現れたことはない。それはマドラスもマラッカも港外の海は切り立った崖のように深くなっているからだ。だがマカオの海はそうではない。ここは現代では珠江デルタと呼ばれる、中国第二の大河「珠江(じゅこう)」の広大な三角州であり、遠浅地帯なのだ(2020年現在、珠江デルタとは香港・深圳・広州・マカオを含む現代中国の巨大産業ベルトのことを言う)。それもあってフェートン号は前日来、陸地を望見する位置に停泊しながらこの水先案内人が乗船するまで、マカオに接近しなかったのだ。
翌12日早朝、早速牛肉を求めてボートがマカオへ発進した。船上ではPilot水先案内人の差配で停泊位置の変更などを行っているがうねりが大きく、かつ水深が浅いので泥底に乗り上げ、積載ボートを下ろして荷重を下げるなど懸命の作業を行っている。また潮の満ち引きが大きく終日フェートン号は浅瀬の上で翻弄されている。地上に露出した危険な岩塊にピストルを撃てば届く距離(元込め銃ではない火縄式のピストル。射程はせいぜい数十mであろう)に接近したりしている。
13日からは連日大量の牛肉の積載が始まった。また、人間の二の腕もよりも太いロープを始め様々な規格のロープが買い入れられている。フェートン号の整備も本格的でまるでドック入りしたかのようにRigging艤装全体に手を入れる作業が始まった。帆や帆桁の改修修繕はもちろんのこと、マストの移動!(太いマストを数インチ幅で船首方向にずらす作業)、船内の清掃、竜骨の手入れ(hogging)、船底のフジツボ落とし、船体の塗装と休まる暇もないほどの連日の作業だ。マラッカと違い、マカオでは”どの島でも水が調達できる“と日誌にあるように水樽の積載、そして野菜の大量買入れを行っている。だが、マカオでは停泊中、ほぼ全日に渡って土砂降りの豪雨が続き”気持ちの悪い“天候(原文 August16 Gloomy unpleasant Weather )がほぼ20日間に渡って続いた。またマカオ到着の2日後の13日にわざわざ”泥海で汚い“(原文 August13 Very muddy and Dirty )と記してあるが、衛生観念がほとんど存在しない清王朝の時代、大河はゴミ捨て場と化し、河口には上流からのあらゆる浮遊物(動物の死骸も含む)が堆積滞留し、さぞかし腐臭を放っていたことと思われる。陸岸は目と鼻の先なのだが、艦は泥濘の浅瀬の上で動けることが少なく、乗組員はsailmaker、carpenter、artificierなどの専門職も水兵も連日の厳しい作業に明け暮れ、上陸の機会も無い。そういう日々の中で3人目の死者が出た。23日の午後10時、Edev Hales Dussnoscerが死亡した。職階職掌の記述はない。この夜は新月である。たまたま連日の豪雨はこの夜は降り止んでいたが、暗黒の夜の乗組員の死亡によりフェートン号はさぞかし陰鬱な空気に包まれたことだろう。彼の亡骸は水葬ではなく翌24日埋葬のため陸上へ送られた。
このあとアヘン戦争について記述するときに明らかになるが、清王朝は極めて弛緩した統治機構で、各所に無法地帯が存在したようだ。というのも、27日から29日にかけての日誌の記述にLadron(盗賊)が登場するのである。日誌の記述が極めて簡潔で多くが語られないためこの項の執筆時点(2020年5月24日)ではまるで何が起こったのかわからないのだが、水を補給するために群がったジャンク(中国の小舟)80艘をマカオ海域のある島を根城にしているLadron(この際は海賊と言った方が正解かもしれない)が襲ったようにも取れる記述がある(27日)。そして29日にはLadronに襲われたジャンクを再び見たという記述と、攻撃に備えて準備した、という記述がある。いずれもそれだけで前後関係などの説明はないので何が起こったのか全体像が掴めない。ただキャノン砲38門や数十名の海兵が乗り組んで重武装した軍艦であるからLadronに緊張した様子はうかがえない。言えるのは無法な世界がマカオの周辺にはあったということだ。
マカオでの水と食料の補給は連日にわたって精力的に行われた。下表にその積み込み量をまとめてみた。
延べ18日間にわたって4,335ポンド、約2トンの牛肉が積載された。 平均して1日約110 kg の牛肉を積載したことになる。また水の補給にしても8月24日に船底の水樽が満杯(115トン)になったにもかかわらず3日にわたり小樽6トンを積載している。
野菜や石炭の補給も行われた。
この大量補給は何を意味するのか?8月のマカオでは牛肉はすぐに腐敗することを間違いないし、凄まじい量の蝿もたかってることだろう。そうすると乗組員に大盤振る舞いをしただろうか?私はそうは思わない。これからの長期間の航海を見据えてこれらのほとんどは塩漬けになったはずである。もちろんある程度の量をボーナス的に乗組員に配給した事は考えられるけれどもこの大量の食料の積載は今後の航海が長期であると言うことを示唆している。
そこで各地から出航した時の牛肉や水の積載量を下記の表にまとめて比較してみた。
その量をマドラス出港時とマカオマラッカ出港時の積載量と比較するといかに大量の牛肉を積載したかが一目瞭然である。マドラスから出航した時の牛肉の量が非常に少ないがこれは日誌の記述者である ストックデールが フェートン号に着任したのが7月8日であり、彼の日誌の記述は7月9日から始まっている。そのために確認可能なのは7月9日と7月10日の二日分の積載量だけだが、8日やそれ以前にも牛肉の積載はあったはずだ。従ってマドラスを出航した時はこの表にある548ポンド以上の牛肉を積載していたと思うのが合理的である。
そこでマラッカに到着した時は牛肉はゼロになった、またマカオに着くまでにマラッカで積載した牛肉を全て消費したと仮定する。マラッカからマドラスまでの日数は13日なので、1日あたり125.7ポンドの牛肉を消費したことになる。この数字で4335ポンドを割ると次の寄港地まで34.5日分の牛肉を積載したことになる。マカオを出航したのが8月30日、それに34.5日を足すといつだろうか?10月3日になる。フェートン号が長崎に侵襲して薪水食糧を要求したのは10月4日である。見事に計算が合うことになる。
他の資料を基に同じ推定をしてみよう。”Savoring the Past”(過去を味わう)という昔の食事を探求したサイトがある(アメリカ)。
18th century Sailor’s food – Ships Provisions | Savoring the Past
ここにフェートン号と同じ頃に活躍した三等艦Bellonaの食料積載記録が載っている。乗組員は650名、フェートン号の2倍ちょっとである。そのベローナに積載した4ヶ月分の食料が牛肉豚肉合わせて表の通りである。
べローナは4ヶ月分の食料として牛肉を2万ポンド、豚肉を2万ポンド弱積載している。フェートン号は牛肉しか積載していないのでべローナの牛肉と豚肉を合わせたものをフェートン号と比較してみよう。4ヶ月分で4万ポンド、1ヶ月分は1万ポンドになる。これをベロナ乗組員650人に対してフェートン号の275人(フェートン号級艦の定員は250から300人である。長崎では300人と称したが敵地において 少なめで言う筈はないので300人以下であったろう。そこで250と300人のちょうど中間である275人として仮定して計算してみる)で換算するとの1ヶ月分の肉の量は4235ポンドになる。マラッカで積載したのは4335ポンド、これもピタリと合う数字である。
杉浦昭典名誉教授から頂いた資料の中に「海軍食料規定」というのがある( The NAVY that beats Napoleon by Walter Brownlee 1980年出版) 。下記の表が海軍艦艇乗り組員への標準配給の規定である。
ビスケット、ビール!、ビーフ、ポーク、豆、オートミール、バター、チーズの1週間の配給規定である。これによると牛豚合わせて1週間に約3㎏である。ベローナの場合、肉の積載量は乗組員1人1週間当たり3.59㎏となっており、この規定とほぼ合致する。フェートン号のマカオでの食料調達も海軍本部の規定に即した量であることが裏付けられる。
マカオでの食料調達は現地業者からの買い付けであろうから、フェートン号はこれだけの食料や水を買い付けるだけの資金を持っていたことになる。当時は世界に通用する貨幣はなかったから、買い付け原資が金だったのか銀だったのかはわからないが当時の大英帝国が所有していた大艦隊を考えると金ではなく銀ではなかったかと思う。つまり当時銀は弾薬食料と同じく、戦争のための貴重な資源だったと思われる。この銀はイギリスがこの後アヘン戦争を起こす遠因になる。
マカオでの約20日間は連日の豪雨と泥濘の海の上で、水兵達は連日の作業、それも造船所並みの大変な艤装作業をよく頑張ったと思う。しかしそれなりの弛緩は始まっていた。8月28日酒樽の盗難が発見されたのだ。イギリス海軍は酒を 積んでいる。毎日のわずかな酒は水兵達にとって極めて貴重な特権の一つであった。 水兵の楽しみといえば、売春宿と酒と食事 であった。
売春宿はマドラスを出航して以来ほぼ50日、上陸の機会すらなく女の影も見なかっただろう。酒と肉は、当時のイギリス本国の貧困階級では軍隊にでも入らなければ滅多にお目にかかれなかったに違いない。そういうわけで、前述の海軍本部食料規定にもビールの配給目安が明記されている。誰も希望者がいない軍艦の水兵を徴募するにはそれが最高のインセンティブだからだ。ちなみにイギリス海軍の伝統をついだ旧帝国海軍は大量の日本酒を積載していたのはご存じのとおりである。が、アメリカ海軍は一切アルコール類の持ち込みを認めない。余談ではあるが私が最も評価するミッドウェー作戦参加者の記録” Crossing the line” によれば爆撃機の爆撃照準器に100%の純粋アルコールが使われており、古参下士官がこれを盗み飲みしていたと言う話が載っている。
8月28日、389番の酒樽から酒の盗難が発見された。43ガロン(約200リットル)入りの樽の8.5インチ減っていた。約7ガロン(約32リットル。日本風に言えば約18升。一升瓶なら18本分ということになる)の盗難である。この時は誰の犯行かわからなかった。ちなみの日誌記述者のストックデールは20歳の若者である。酒を嗜まわないのか、マドラス出航時もマラッカとマカオにおいても、酒類の積載の記述をしていない。積載していないはずはないのだ。Bellona(650人乗組み)の場合、236樽約3万ガロン!のビールを積載していたし、同時期のスループ艦Alert号(60人乗り組み)は105ガロン(約500リットル)のラム酒を積載している。フェートン号の場合、アラック酒を積載していたと思われる。私もスリランカの友人からこのアラック酒を贈られて試してみたが現代のブランド化したものなので口当たりはよく甘口の酒であった。当時のものはもっと素朴で荒い口当たりだったろう。それが32リットル18升も消えていたのだ。人目を避けることが難しい狭い艦内の犯罪である、犯人はすぐに見つかった。
8月31日マカオを出航してその翌日、処罰が執行された。主犯は海兵MarineのRobert Hanson、窃盗罪で18回の鞭打ち。同じく海兵のThe Robertsと水兵のルイス・マーチンが職務怠慢Neglect of Dutyで、それぞれ36回と24回の鞭打ち刑を執行されている。もし後者のThe Robertsが窃盗主犯のRobert Hansonと同一人物なら(日誌には一切説明がないので真偽が不明である)、彼は合計54回の鞭打ちを食らったことになる。人間が耐えられる限界を超えていると思われるが、果たして回復できただろうか?
因みに9月1日の海兵Rob Hansonと、9月15日の海兵Robert Ansonは同一人物かとも思えるが、航海日誌にははっきりとHanson とAnson が明記してあるので別人だろう。几帳面なStockdaleが2週間後の処罰で名前を間違えるというのは考えにくいからだ
Marine海兵とは、戦闘時には小銃や銃剣などの武器で戦う戦闘専門要員であるが、平時には艦長の命令のもと艦の治安を担当する。乗組員の叛乱Mutinyがあれば、叛乱鎮圧にあたる艦上の警察要員となる。だが海兵であっても酒の誘惑には勝てなかったのだろう。
ではこの鞭打ち回数はどのようにして決めたのだろうか。それは艦長の決裁事項である。艦長はあらゆることの権限を持つ全権者である。したがって艦上の独裁者とも呼ばれる。この場合の鞭打ち回数は私には多めに感じられる。 盗んだ酒の量からして常習犯 と見られても仕方がないし艦内に 盗まれた酒を飲むネットワークがあったのかもしれない。それにしても最低が18回最高で36回というのは軽い量刑とは思えない。鞭打ち刑といってもそういう処刑を採用した経験していない日本人が想像するような生やさしいものではない。ロープに結び目をつけ、屈強な鞭打ち執行者が全身の力を込めて被処刑者の背中に叩きつけるのである。皮膚が破れ、何度も続くと肉が露出する。現代社会で今も鞭打ち刑を執行している国がある。シンガポールである。私が駐在時代、私の運転手は私より数歳若かった。彼は若い頃不良というかちょっとワルだったらしく、その時のワル仲間がこの鞭打ち刑にあったというのだ。その男はあの刑を受けるほどなら二度と悪さをしないと常々言っていると、運転手はよく話してくれた。2000年当時の話である。なぜシンガポールが現代社会でも鞭打ち刑を残しているかについては余談になるので、下の欄外に記しておく。
父エドワードペリオ提督の下にRobert Corbetロバート・コーベットという非常に優秀な艦長がいた 。(”Storm and Conquest”から) 彼はフリゲート艦の艦長として実に才能があり艦隊にとって貴重な艦長ではあったが、一方で非常に厳格な艦長でもあった 。彼は偏執狂的に軍律と艦の整頓に厳しく容赦なく水兵達に残酷な刑罰を行った。一例を挙げれば 窃盗に対し48回、脱走兵に対し72回、勤務中にうたた寝したということで36回、などである。この他に彼はいつも棍棒を携行し それで水兵を殴ったりまた鞭打ちされた水兵の背中に塩漬けピクルスを擦りつけたりしている。当然の帰結として水平たちが反乱を企図し、 艦隊司令長官の父エドワード・ペリュー提督に数通の直訴状を密かに届けている。父エドワード・ペリュー提督は鞭打ちなどの残虐な行為をしない艦長として知られていたからだ。水兵から叩き上げのエドワード・ペリー提督は彼らの生活信条全てをよく理解していて、彼らに規律を守らせる、あるいは戦意を高揚するためには自らが先頭に立つタイプの艦長であった 。だから彼は隷下の艦長たちに過酷な刑罰禁止を布告したほどであった。父エドワード・ペリュー提督はコーベットに軍法会議にかけるために出頭命令を出したが、コーベットは命令が届いていながら間に合わなかった事を装い、南西インド洋のフランス艦隊封鎖に向かってしまう。これも命令伝達に数週間あるいは数カ月もかかる帆船時代ならではなことだ 。後日談だがコーベットはその年の末に南西インド洋の巨大なハリケーンに遭遇し海の藻屑と化した。
フリートウッド・ペリュー艦長の量刑はコーベットほどではなかったかもしれないが父エドワード・ペリュー提督の水兵たちへの愛情を受け継がなかったのは確かのようである。父エドワード・ペリュー提督と違い、彼は生まれた時から花よ蝶よと育てられた。水兵から叩き上げた父の人生観は彼には受け継がれることはなかった。人間の性は受け継がれるより、後天的な環境により形成されると言う証左であろう。フリートウッド・ペリュー艦長の処罰の傾向はこの後のさらなる航海を注目する必要がある。彼の後年の人生に大きな影響を与えたからだ。ロバート・ハンソン等の鞭打ちが行われた翌日の9月2日、重大な変化が日誌に起こった。
“towards the Japan Islands”と初めて目的地として「日本」が明記されたのだ。スコッツデールが日誌に明記した以上、この目的地は全艦に布告されたと考えて間違いないだろう。マドラス出航後44日目にしてようやくフェートン号はその航海の真の目的を明らかにしたのである。既にマドラスを出て一ヶ月半、さらに未知の目的地を聞いて乗組員たちはどう感じただろうか。彼らの士気を鼓舞するために、私だったらオランダ船を捕獲しその莫大な資産をみんなで分けるのだと演説するだろう。果たしてフリートウッド・ペリュー艦長がそのような演説を打ったどうかは日誌には書かれていない。
フェートン号は新しい目的地を目指して中国沿岸を北上することになる。
PS1 アヘン戦争
アヘン戦争について触れておこう。以下の記述の歴史的事実は”The Opium War”(Kindle版)を参考文献としている。
1756年にイギリスがカルカッタを制圧して以来アヘンがイギリス東印度会社の重要な交易品となった。
皮肉なことに真っ先にアヘン中毒になったのは本国イギリスであった。当時アヘンはいろんな薬に混入され痛み止めや睡眠薬として大流行になり子供用の薬にまで多用された。19世紀になってもアヘン中毒が続き、チャールズディケンズやジョージエリオットなどの著名な作家もアヘン中毒者であった。
当時イギリス東印度会社は中国貿易で巨大な赤字に悩んでいた。中国からは絹、漆器、茶などを大量に輸入していたが、その決済は全て銀で行われた。だがインドからは中国に輸出される産品が何もなかった。そのため大量の銀が中国に流出していたのである。そこで目をつけたのが中国で流行り始めていたアヘンである。中国に最初にアヘンをもたらしたのはオランダ人であったが、18世紀後半インドでのアヘンビジネスを完全独占したイギリス東印度会社はその輸出先を中国に狙いを定めたのである。アヘン密輸業者の中国人からは銀で支払いを受けるためアヘンを輸出することによって銀の大量流出が逆に銀の獲得につながっていくのである。このビジネスは大成功し年間1000トン以上のアヘンを輸出することになった。19世紀前半中国の沿岸部を中心に1千2百万人の中毒者がいて、中国全土で4人に1人の中毒症状だったと言う。清王朝はこれを憂慮し何度も禁令を出したがアヘンの密輸は止まらず、ついに1839年実力行使に出る。広東のイギリス東印度会社の商館員や商船を拿捕したのである。これに憤激した広東のイギリス東印度会社の代表はすぐに英海軍の軍艦を呼び寄せて実力行使に出る。これでわかるようにイギリス東印度会社はイギリス海軍を自分の利益のために行動させる権限があるのである。イギリス海軍は国王陛下(当時はビクトリア女王=在位1837年から1901年)の海軍であるが(HMS: Her [国王が男の場合はHis〕Majesty’s Shipがすべての軍艦の名前の頭につく。フェートン号も正式名称はHMS Phaetonである)イギリス東印度会社にとってはインド以東においてはイギリス東印度会社そのものが国家であり、軍隊を持ちかつ女王陛下の海軍を運用できたのである。
いざ戦闘が始まるとたった1隻のインドから派遣された軍艦と数百名の部隊に清王朝の軍船も陸上部隊も敗北に次ぐ敗北を重ねた。イギリス側の損害はほとんどゼロであった。これは兵器の(小銃や大砲)の性能差もあるし、また清王朝軍兵士の戦意が著しく低かったせいもあろう。しかしこれを現地の指揮官は北京へ我が軍の大勝利と言う報告をしたのである。あらゆる戦闘でそういうことが行われたらしい。このことは北京の宮廷の判断をすっかり狂わせることになった。インドからさらに増援が届くと瞬く間に清王朝軍は総崩れとなっていく。こうして第一次アヘン戦争は終わり香港が割譲され領事館も設置されることになった。
だが清王朝の宮廷は貿易を朝貢と認識していたことからわかるように、極めて自分勝手な世界観を持っていた。それは現代でも変わらないのだが、そのために20年後には第二次アヘン戦争(1860年)を招くことになる。この時に早くも甲鉄船(フルトンの蒸気機関を装備した鋼鉄装甲船)が登場し、中国沿岸、上海、遂には北京をパニックに陥らせるほど、北部の沿岸を席巻する。この時はフランスも参戦しアングロフレンチ連合軍であった。この第二次アヘン戦争でイギリス側はついにアヘン輸入の合法化を勝ち取ることになる。ただしこの時にはアヘン戦争への反対も本国では大きく、『我が国は世界最大のドラッグカルテルを合法化した』と批判された。
“ Britain created the largest , most successful and most lucrative drug cartel the world had ever seen . ” — Nicholas Saunders 33ページ
今ドラッグカルテルと言えば、アメリカ合衆国にコカインなどを密輸するメキシコやコロンビアを指すが、あの強大なアメリカをもってしても現代のドラッグカルテルにはほとんどなす手がない。だが160年前には大英帝国が国家を上げてそれを行っていたのだ。イギリスは一度も戦争に負けたことがない。だからこれらの所業も裁かれたことがない。まことに歴史とは勝者が書くストーリーであることを感ぜずにはいられない。
幸い、このアヘン戦争で西欧列強の脅威を目の当たりにして日本は明治維新に踏み切ったが、その日本との日清戦争でついに清王朝はその生命を絶たれることになる。
中国では20世紀になってもアヘンの蔓延は長く続き、毛沢東共産党政権でようやく禁止令が実効化した。だが、現在でも地下では多数の中毒患者を抱えている
ルーズベルト大統領は巨万の富を持つ家系に生まれ、執事やメイドにかしずかれて我儘いっぱいに育った男であるが、母の実家は中国でのアヘンビジネスで大儲けしたのである。The Opium War
”American traders began buying opium in Turkey and importing it into China — for example , Warren Delano , grandfather of future U.S . President Franklin Delano Roosevelt , became wealthy as a result of trading opium into China” 6ページ
だがこの事はほとんど公になっていない.
アメリカの歴史を、例えばここで引用することが多い『アメリカの歴史』(モリソン著)においても取り上げていない。もちろん日本でもほとんど知られていない事実である。これは当然のことながらルーズベルト家が隠していると判断したほうがいいだろう。ルーズベルト家の暗い秘密を暴いているのはネット上だけのことで、アメリカも日本もオールドメディア(既成マスメディア)はこのことに一切触れないのだ。歴史において真実とは何なのだろうか?名大統領というイメージ作りに成功したフランクリン・デラノ・ルーズベルト(ミドルネームのデラノが母方の姓で、デラノ家が中国とのアヘン貿易で巨富を築いた麻薬王である)の暗い背景を一切伝えないマスメディアにとって、「真実とは一方的な取捨選択を可能」としているのが日常であり、そのことに思いをいたせば背筋が寒くなる思いがする。アメリカの大富豪はこの例でみられるように反社会的なビジネスで成功した人間が多いのだろう。ルーズベルトの場合、それが口を極めて真珠湾攻撃を罵ったのだから、笑止千万である。
PS2 リー・クアンユーと鞭打ち刑
シンガポールをアジア随一の繁栄する国に育てあげたのはリー・クアンユーだが彼の自伝には非常に面白い記述がある 日本がシンガポールを占領した時初めて街に日本兵が現れた その時は若きリー・クアンユーは恐怖に満ちた目でその日本兵を見て見つめたそうだ しかし日本の統治下で彼が非常に評価した点があった それは日本軍の軍記が非常に厳しかったことと非常な厳罰主義であったことだ。
ある日事ある哨所を通り過ぎた日本軍士官を乗せた乗用車がその哨所に戻ってきて車を降りた士官が衛兵を腰投げで投げつけたのをリー・クアンユーは目撃している。この衛兵は通り過ぎる士官の車に敬礼をしなかったと言うことで、その軍規の厳しさは彼に深い印象を与えた。もう一つは日本軍による現地犯罪者への極めて過酷な処罰である。麻薬犯等の重犯罪者は首を刎ねられ晒し首にされた。これでシンガポールの治安はあっという間に平静を取り戻したと言う。リー・クアンユーの施政方針はこの日本軍の厳しい処罰方針を受け継いだもので、それが鞭打ち刑が現代まで生き延びている理由である。インド、ビルマ、マレー等、イギリスの統治下には同じように鞭打ち刑を残していたがそれを現代まで残しているのはシンガポールだけである。
ちなみに、私がシンガポール駐在当時、アメリカ人のハイティーンの少年がいろんな車にペイントスプレーをかけるという事件が起こった。シンガポールでは車を1台購入するのに数百万円の税金がかかる国である。それだけにこれは重罪と判断され、鞭打ち刑が宣告された。これに対し、当時のブッシュ大統領はこの宣告を外交問題化し、国務省が人道問題ということで精力的に動き、結局この少年はアメリカに追放処分ということになったが、これはシンガポールの鞭打ち刑というのは恐ろしく残虐な行為であるということが世界の常識になっていたからである。