1803年秋、ワルデナールが彼にとっては居心地が悪かったに違いない出島からバタビア(ジャカルタ)に帰国し、ドゥーフは晴れてオランダ商館長(商館長交代は辞令がバタビアから届いた5月であるが)となった。ドゥーフは満25歳、最年少の商館長の誕生である。1803年最大の事件は「18章スチュワート再び」で見たように長崎丸でスチュワートが貿易を要求して押しかけた事件であるが、その前後にどんな長崎の街の日常があったのかを見てみよう。『新長崎年表 上(満井録郎・土井信一郎)』によれば、雷電為右衛門一行が大相撲の興行を前年の1802年(享和2年)に行なっている。付帯情報は何もないし、私も長崎でそのような言い伝えを聞いたことがない。どこか大きな寺か神社の境内で行われたのだろうか?当然、いちばん可能性が高いのは諏訪大社であるが。
江戸では十返舎一九が「東海道中膝栗毛」の初版を刊行している。さらにもう一年前の1801年(享和元年)には疫病が市中に蔓延し、『奉行肥田豊後守が疫病流行で沈滞した空気を一掃するために、諏方社流鏑馬場で流鏑馬奉納を催す この日飛び入りの者も多く在館唐人まで見物し大にぎわい。疫病は次第に衰え』(新長崎年表 上)た、とのことである。長崎には薩摩藩福岡藩佐賀藩肥後藩の雄藩から大村藩平戸藩島原の小藩まで多くの蔵屋敷がある。そこに駐在している武士や奉行の配下などが参加したのだろうか。飛び入りも出たというから、諸藩が腕を、いや手綱を競ったのだろう。唐人たちも参観したというから相当の賑わいであったろうが、オランダ人が見物したかは不明である。ドゥーフの日記にも記載がない。一方でこの頃は長崎の有名な石橋群が次々に建設され、中島川が今に伝わる美しい景観を整えた時期でもある。
さてここでこの頃の幕府の対外認識について考えてみたい。近年、長崎を窓口として幕府は世界情勢に通じていたという思い込みが多少あるように見えるが、その実態はお寒いものであった。大陸の清王朝は自国が世界最大の大国と自惚れて現実世界を正視せず、貿易という商行為は清王朝への朝貢であると規定していたとんでもない錯覚を持っていたのだが(それはアヘン戦争で見事に打ち砕かれる)、幕府もそう遠くない錯覚の中に生きていた。それを象徴する事件がふたつこの時期に相前後して起こったので、それを紹介しよう。
一つはワルデナールが商館長だった1801年(享和元年)のことである。五島に異国船が漂着した。帆船の発達により世界が急速にグローバル化し始めたこの頃、さまざまな国の異国船が日本に漂着するのだが、これもその一つである。大黒屋光太夫のロシアからの帰国から9年後である。規定によりすぐに漂着船の乗客は長崎へ送られたのだが、この漂着船の対応について大槻玄沢が幕府の対応について批判的な文書を残したことを研究家の松本英治氏が明らかにしているので(「大槻玄沢『嘆詠餘話』と五島漂着事件」)、それを元に話を進めたい。この異国船は嵐に巻き込まれて五島に漂着したのだが、その間に船員や船客の大半を失い、五島に着いた時は異国人男女7名と中国人2名が生き残っていただけだった。長崎まで曳航された異国船はもはや航海不可能なので、異国人7名は出島に、中国人2名は唐人屋敷に収容された。異国人のうち4名が女性で、顔全面に刺青をした南洋の女性の風貌に長崎の人々は驚愕したと言う(長崎の絵師石崎融資が模写している)が、それはここでの主題ではない。この異国人の尋問に駆り出されたのが、ワルデナールである。この顛末をワルデナールは商館長の日誌に詳しく記している。結論を急ぐと、この異国船の死んだ船長の名前をワルデナールが漂着民に尋ねると、長いポルトガル流の名前であったことから大通詞の石橋助左衛門からそれ以上の聞き取りを妨害されたのだ。ワルデナールは異国船がマカオ仕立てのポルトガル船であったことに気がつくが、助左衛門からマカオではなくマカッサル、ルソンではなくボルネオと奉行所での尋問の際に言い換えるように要望(実態は要求?)されたのである。また、通詞たちはマレー語で「死罪になる」と言う言葉をワルデナールから聞き出して漂着民に警告したらしく、漂着民もまた尋問で口裏を合わせた。こうして奉行所の記録から、マカオもルソンも消えたのである。異国船はセレベス島のマカッサルを出航し、はるばる五島まで漂着したという、今なら不自然に思える結論になるのだが、当時はそれで通用したのだろう。なぜこのようなことが行われたのか?それはこの異国人たちが処刑されるのを防ぐための通詞の知恵であった。人道的でもあるが、それはまた面倒なことに巻き込まれるのを防ぐ保身のためでもあった。キリスト教と共に追放されたポルトガルは、以後絶対に関わってはいけない国家、人民となった。ポルトガルが日本から完全に追放(来航禁止)されたのは島原の乱の翌年1639年。翌1640年、ポルトガル使節のパチェコが貿易再開を求めて長崎へ来るが、なんと使節以下61人を西坂の丘(現在は二十六聖人記念碑がある)で斬り殺したのである。2年前に全国から軍勢を動員して島原の乱を収束させたばかりである。島原半島では3万7千人の反乱参加者を殺し(新長崎年表 上 234p)、半島は無人と化し、小豆島などからの移民によって再興が始まっていた(私の父方の祖先は小豆島から島原に移住したらしい)。幕府成立後37年が経過し3代将軍家光の治世であったが、まだ戦国時代そのものの気風が世の中に満ちていたのだ。そう言うわけで、ポルトガルが拠点とするマカオ、ルソン、マニラからの船も人も絶対に受け入れることが出来なくなった。もし上陸すれば処刑されることになる(1647年ポルトガルは再度使節シーケイラが2艘で長崎へ来航し通商を請うたがこの時は5万の軍勢と兵船1500艘で取り囲んだ。斬殺には至らなかった)。
それから160年、すっかり太平の世の中になったこの頃、死罪は社会的な重大事となった。徳川幕政は極めて厳格な法治主義によって運営されている。長崎奉行が独断で死刑を選ぶことは許されていなかった。1686年(貞享3年)長崎奉行宮城監物は江戸に伺いを立てずに死刑を執行したかどで免職閉門を食らったほどである(新長崎年表264p)。そんな長崎で通詞たちが漂着民が死罪に処せられるのを嫌ったのは十分理解できることであった。長崎はこの時日本有数の豊かな街であり、当時の科学最先端に触れることが出来る江戸時代のシリコンバレーみたいな都市でもあった(1786年田沼時代に平賀源内は長崎へ遊学しエレキテルを江戸へ持ち帰っている)。
それを可能にしたのは通詞社会が生み出した数々の優秀な人材である。地動説やニュートンの引力を紹介した志筑忠雄や本木良永、外科医として著名な吉雄耕牛(彼の名声で、長崎は医術修行のメッカ(『長崎通詞ものがたり』杉本つとむ 49p)でもあった)、幕府に呼ばれて活躍した語学の天才馬場佐十郎、など日本の科学や語学の進展に大いに寄与した通詞たちは枚挙にいとまが無い。だが、大通詞となれば年三千両の収入があった時代でもある。オランダ渡りの高価な珍品奇品に囲まれ豪勢な別宅を拵えることも出来る生活をしていれば、真実の追求より今の安寧の保持が優先しただろう。通詞社会の支配者たちはことを起こさず、国際社会の真実より彼らの特権を保障する体制の維持することが第一であった。そしてそれは歴代の長崎奉行にも共通するところがあったろう。
だがそれに異議を挟む人物があらわれる。福岡藩の聞役青木興勝である。聞役(ききやく)を設置したのは、1648年。前述のように1647年ポルトガルの2番目の使節が来航し九州各地から5万人の軍勢を動員して港を封鎖した翌年である。緊急事態発生時に近隣諸藩への連絡と対応が迅速に行くように長崎に各藩から聞き役という新しい役職を常駐させたのである。△薩摩・肥後・筑前(福岡)・佐賀△長州・対馬△久留米・小倉△柳川△島原△唐津・平戸△大村△五島〔長崎実録大成〕△は5月から9月までの在勤、その他は年中在勤〕の14藩が聞役の設置を命じられた(新長崎年表262p)。松本英治「大槻玄沢『嘆詠餘話』と五島漂着事件」によれば、青木は蘭学者であったと言う。福岡藩は蘭語に通じた人物を聞役として送り込んだのだろう。聞役については山本博文「長崎聞役日記」(ちくま新書)に詳しい。聞役はまさにその名が示す通り常に長崎奉行や出島の動向に聞き耳を立て、蘭船が入港すれば幕閣へ報告される風説書の内容把握に努め、それを直ちに国元へ報告するのである。もし軍勢を出すような非常時になれば他藩の動向把握を行い、国元へ出兵のあるべき規模などを知らせるのが役目である。福岡藩の聞役青木興勝は蘭学の知識を活かして通詞たちとも親交を深め、その過程で通詞たちが必ずしも真実を明らかにせず、事なかれ主義で漂着者の出港地目的地船籍を誤魔化していることに気が付いたのだろう。青木がどのような行動を取ったのかは不明だが、『通詞社会の不興を買って国元に差し戻されたという。』(「大槻玄沢『嘆詠餘話』と五島漂着事件」)。これはいささか聞き捨てならないことである。長崎奉行を動かして福岡藩の人事にまで影響を及ぼすことが、通詞社会には可能であったということになる。これは世界情勢の真実の把握より、通詞社会の都合を長崎奉行が優先した証拠である。もし漂着船がポルトガルの支配する港から来航したものであったり、船籍がポルトガルであったりしたら、江戸表への急使の派遣、漂着者の扱いと尋問、必要なら近隣の藩への軍勢派遣命令など長崎奉行にとっては一気に緊迫した事態になる。その間に手続きなどにミスでもあれば容赦無く幕閣から処分を下されるだろう。となれば奉行が長崎在勤(通常1年から2年)の間は、面倒なことが起きないよう通詞たちの報告に異を唱えなかったのだろう。結局、その積み重ねが世界情勢について無知な幕府を作り上げたと言えるであろう。夜郎自大で上から下まで腐り切った官僚制の清王朝と比べると、規律に厳正で優秀な人材はきちんと引き上げた徳川幕府の体制は多少の現実感覚はあったろうが、自慢出来るレベルとはとても言えない。
著しく変転する世界情勢の中で、幕府の無知が良く分かるもう一つの例を取り上げよう。ロシア国使レザノフの来航である。それを次の章で検討しよう。