12 父と息子たち

エドワード・ペリューの家族愛は強烈である。父を早く亡くし、愛情の薄い母親のもとで育ったことの裏返しであったろう。独り身の頃、弟のIsraelを海軍へ入れた(もう一人の弟Johnは陸軍に入隊し、アメリカ独立戦争中、エドワード・ペリューが水兵の分遣隊として捕虜になったサラトガの戦いで戦死している)が、自艦に搭乗させるなど徹底的に庇護し、IsraelもまたAdmiral提督にまで昇り詰めている。
それだけに2人の息子にかけた愛情は半端ではなかった。1786年に生まれた長男には恩人であるPownolの名を命名した。彼のような優れたフリゲート艦の艦長になってほしい、という思いがこもっている。Pownolはわずか7歳で、父エドワード・ペリューが艦長を務めるフリゲート艦Nympheに艦長付きservant小間使いとして乗艦した。

Bentinck艦長が艦長室で息子を実地教育している図

因みに同艦には弟Israelも砲術士官として搭乗しており、3人のPellewが同時に勤務したことになる。余談だが、その直後にNympheはフランスのフリゲート艦Cleopatreを発見、猛烈な砲撃戦(Broadside)のあと、降伏させた。これはナポレオン戦争におけるRoyal Navyの最初の戦果となり、ペリュー艦長の名声を高めたが、実は戦死したフランスの艦長Mullonは右半身を砲撃で吹き飛ばされながらも今わの際に暗号表が敵の手に落ちないよう飲み込もうとして口にくわえた形で発見された。その敢闘精神に感動したエドワード・ペリューはMullon夫人にいかに夫Jean Mullonが勇敢で任務に誠実だったかと称賛する手紙を送ったのだ。この行為はフランスのナポレオン宮廷で大いに話題になり、エドワード・ペリューは本国イギリスだけでなくフランスでも騎士道精神の持ち主として知られることになる。なお、Nympheはこの戦闘で戦死23名、負傷29名、乗組員300名のうち損傷率17%になる。フランス側は艦長を含め63名が死亡もしくは負傷した。

Cleopatreに乗り込む英水兵

さて長男Pownolである。残念ながら彼は父の期待に反して海軍士官としての資質を欠いていた。Stephen Taylorは「父の陰に隠れて、場にそぐわず怯えている子」と評している。しかし神はエドワード・ペリューに望むものを与えることを忘れなかった。3歳年下の次男Fleetwooの誕生である。

颯爽とした次男フリートウッド・ペリュー

エドワード・ペリューは6人の子供に等しく愛情を注いだが、Fleetwoodだけは別格であった。彼の手紙によればFleetwoodは「 家族の中の花、艦隊の花 a flower in the flock, a flower in the fleet 」と目の中に入れても痛くない存在だった。9歳にして兄のように自分の艦に搭乗させて海軍士官へのキャリアをスタートさせたが、彼は兄と違って天分に恵まれていた。しかも颯爽としたキャラクターに育ってゆく。
エドワード・ペリュー提督がインド艦隊司令長官に任官してマドラスへ息子たちと赴任した1804年は、インド全土からフランスとオランダの勢力を駆逐はしたが、インド洋の西南端モーリシャス諸島(フランスはIll de France フランス島と名付けた)に小規模だが強力なフランス艦隊がいて喜望峰を経由するイギリス本土への航路を脅かしていた。さらにオランダの東方貿易の重要拠点だったバタビア(今のジャカルタ)は本国オランダがナポレオン傀儡の「バタビア共和国」になっているせいで、オランダの陸軍がナポレオン傘下の正規軍として強力な兵力をジャワ島に展開していた。これもまた中国との交易航路、特にマラッカ海峡への脅威であり、ジャワ島攻撃が企画された。2年前の1802年にナポレオンは終身統領となり、この年(1804年)の12月にはついに皇帝となる。まさに絶好調の時期を迎えつつあった。それだけにジャワ島のフランス傘下の勢力を削いでおく必要があったのだ。

1806年、エドワード・ペリューは自ら艦隊を率いて長駆ジャワ島へと遠征した。フランス傘下のオランダ艦隊を撃滅するためである。

ペリュー艦隊のジャワ遠征

オランダ艦隊はジャワ島各地に散在していたため所在の情報は乏しかったが、11月バタビア(ジャカルタ)港内にて敵艦6隻と商船22隻を発見した。

当時のバタビア港。遠景の建物はジャワ総督府

ペリュー提督はイギリス艦隊の各艦から積載ボートを集めて襲撃隊を編成した。水兵と海兵Royal Marinesからなる襲撃隊の隊長に自らの息子を任命した。2年前に14歳で士官Lieutenantに昇進していたフリートウッドは満16歳、翌月にようやく17歳になろうという年齢でありながら、父のあからさまな引き立てでフリゲート艦の艦長となっている。沿岸砲や敵艦から砲撃を受ける中、フリートウッド指揮する襲撃隊は敵艦に乗り込み、フリゲート艦1隻と小型艦数隻、商船のほとんどを焼き討ちに成功したほか、2隻の商船を捕獲した。襲撃隊の被害は死者1名と4名の負傷者のみである。沖合から最愛の息子の活躍を見守っていたエドワード・ペリューは手放しの喜びようを友人に書き送っている。インド洋艦隊によるIll de France モーリシャス諸島奪取作戦と、英国へ帰還するエドワード・ペリュー等の猛烈な嵐との苦闘を描いたStephen Taylorの“Storm and Conquest The Battle for the Indian Ocean 1808-1810”にその文面が収録されている。

“He led the squadron with the greatest judgment … He placed his ship ag’t the Dutch frigate and batteries with equal skill and led in the boats to Boarding … I assure you, a prettier exploit I never saw. You will say Aye, Aye, here is the Father. I have done – but I assure you I say not half of what others say of him. My heart swelled when I heard a general shout on board Culloden – Well done, Fleetwood well done, bravo – was the cry all around me. What Father could have kept his Eyes dry? I was obliged to wipe them before I could again look thro’ the glass. ”

『彼は素晴らしい判断力を見せてくれました、オランダのフリゲート艦や海岸砲の砲撃を受けながら敵艦に自分の船を横付けし襲撃隊とともに乗り込みました。こんな果敢な活躍は見たこともありません。あなたは「ああ、わかりました、親バカですな」とおっしゃるでしょうが、他のみんなが彼を称賛したことの半分にも及びませんよ。Cullodenから見守っていた他の提督が「よくやったフリートウッド、天晴れ」と叫びたてるのを聞きましたし、周り中から称賛の声が上がっていました。これを涙無しに観ていられるでしょうか?望遠鏡を覗くきながら瞼を拭わなければなりませんでした』

襲撃隊を率いて敵艦に乗り込む弱冠17歳のフリートウッド・ペリュー

勇猛果敢で鳴り響いた海の猛将がわが子の活躍にはもうメロメロの様子が見て取れる。このジャワ攻撃は翌年にかけて何回か行われて、ジャワ島のオランダ艦隊はほぼ壊滅状態になった。その間、息子フリートウッドも何隻かのオランダ商船を捕獲している。長男ポウノルは結局海軍士官としての功績をほとんど残していない。だがジャワ島の活躍を証明するように、次男フリートウッドは父エドワード・ペリューが理想とする勇敢な士官像を見事体現してくれたと言える。

1807年春 ジャワ島東部のグレシックを攻めるフリートウッド等