私(筆者)は、長崎で生まれ育った。長崎港はいつも身近な存在であり、岸壁に吹く海風や波間に漂う油の匂いは今も覚えている。出島旧跡をチンチン電車が走っていく街だった。おくんち(諏訪大社のお祭り)には、唐人装束やチャルメラ、銅鑼の音があふれている。阿蘭陀万歳という奉納踊りもあった。それだけにフェートン号事件というものがあったことを知った時に強く記憶に残ったのだと思う。
野坂昭如のような驚異的な記憶力に欠けているので正確には思い出せないが、長崎原爆公園に近い丘の上にある長崎文化会館の中にあった長崎市立博物館がフェートン号の航海日誌を所有していると知り、帰郷した折にその複写を頼みに行ったのは1970年代の中頃ではなかったかと思う。長崎市立博物館は私の頼みを気軽に引き受けてくれて、どのくらいの時間が経ったろうか、我が家に複写の山が届いた。私は1808年7月9日から翌年7月30日までの三百八十七日分発注したはずだから、当時で数万円の金額だったはずだ。まだ二十代の私には高い出費だった。
とても鮮明な複写で博物館の仕事ぶりには感心したものだが、問題は全く判読できないことだった。A4サイズの写真複写用紙1枚が1日分の日誌なのだが、流麗な手書き英文字が細か過ぎてほんのわずかな数の単語しか解読できない。帰郷するたびに長崎県立図書館に通い、この日誌に関する文献を探すと、二人の人がこの日誌について書いた論考が見つかった。
何れも戦前の人で、小野三平氏と増田廉吉氏である。小野三平氏は退職した船乗り(航海士か?)で、航海士としての専門知識を生かしてこの難題に立ち向かい、ついに全文読み解いたのである。これは大変な功績で恐らくいろんな研究家の役に立ったはずだがどこにもその解読文書の手掛かりがない。小野三平氏の足跡も杳として知れない。長崎のことだから、原爆の業火で小野さんごと消失したのではないかとも考えた。退職者にとって浦上は住みやすい街だったはずだからだ(原爆は浦上の丘を直径2キロにわたって何も残らない焦土と化した)。昨年(2016年)になって国会図書館で「小野三平『セキスタントの錆』」という文書を見つけることが出来て小野三平氏の手掛かりがつかめた。小野健一という三平氏の甥にあたる人が、三平氏が書き残した千島での遭難記について「海事史研究」という雑誌に書いたものであった。それによると三平氏は日本郵船の上海航路の船乗りで、退職後は長崎港でパイロットの仕事を楽しんでいたそうだ。だが、太平洋戦争が始まると志願して輸送船に乗り組み、南海に消えたという。もう老年ではなかったろうか。太平洋戦争を国民戦争と受け止めて志願したのだと思う。戦前の人の、気骨と気概を見る思いがする。
もう一人は、長崎県立図書館の2代目の館長を務めた増田廉吉氏である。小野三平氏は増田館長の許可を得て図書館に日参し、ついに全文解読したのである。増田氏は永井荷風とも親交のあった文人でもあり、そのせいかフェートン号の長崎来襲の意図を心優しく捉えており、フェートン号艦長ぺリューの長崎港侵入は水食糧が尽きて止むを得ず行なったのであり、ドゥーフが唱えた「ぺリュー艦長は、薪水食糧調達の要望が満たされなかったら長崎を砲撃で焼き打ちにすると言っている」というのはドゥーフの捏造説を展開している。ぺリュー艦長の意図が計画的だったのか、増田館長の言う「やむにやまれず」だったかは、この先確信を持ってお伝えできることになるが、ドゥーフの捏造説は慎重に推考することになるだろう。
ところで論点は多少変わるが、増田館長の論考に漂うのは、英国への好意である。長崎には開港以来、戦前のある時期まで英国領事館が存在していたから、英国への好意や親しみが当時の長崎市民の間にはあったのかもしれない。しかし今から思えば太平洋戦争開始1年半前の論考であるからもっと英米への反感があって当然の感もあるが、「鬼畜米英」とは戦争開始後のスローガンで、当時の人々は対米英戦争など想像もしていなかったことを示している気もするのである。
だいぶ話が逸れた。日誌の解読に戻ろう。A4原寸複写には手も足も出ず、私の書架で20年余りも眠り続けることになった。私は定年を迎え、幸い次の職場を得ることが出来、家も建て替えたので引っ越しもした。その際、書架史料の整理の必要があり、いろんな長崎関係の史料とともに日誌の複写も半減することにした。気持ちの中ではどうせ読めっこないのだからとの諦めがあったのかも知れない。フェートン号の日誌の初日(7月9日=マドラス出港の前日)から長崎港を8月17日に脱出して1ヶ月後の分までの77日分だけを保存し、あとは破棄した。のちにこれが致命的なミスだったことが判明するのだ。私は和暦(太陰暦)「長崎の暦」と洋暦(太陽暦)「フェートン号の暦」とで1808年には50日ものズレがあることを見逃していたのだ。このミスからのリカバリーの苦闘は後述しよう。
引っ越した時(2008年)には世はインターネットとデジタル急進展の時代である。ネットにもデジタルにも相性が良い私は、当時購入したばかりの高速スキャナを前にして、ふとフェートン号の日誌をスキャンしてみたらどうだろう思いついた。手元に残る70数枚の複写はあっという間に完了した。写真複写資料をスキャンして何がいいかと言うと、PDFにしろJPEGにしろデジタル化することによって、コンピュータ画面で拡大が自由になることである。2倍にも20倍にも思うがままだ。これが大きな転換点になった。小さな文字の羅列にしか見えなかった日誌の英単語がそれぞれの個性を明らかにし始めたのである。最初の凱歌は2文字だった。
軍艦の日誌であるから、自由な記述ではなく、毎日毎日似た内容の繰り返しが多いことがわかる。しかも1日分が上下に2分割されている。これは午前と午後だろうと推測した。すると日々の日誌の午前と午後の最初の行に必ず現れる2文字があった。ふとこれはAMとPMではないかと気がついたのだ。小さな発見だったが、これが突破口になった。小野三平氏も泣かされた記録者スコッツデールの流麗な手書き書体の世界がとうとう姿を現したのだ。A、P、Mの3文字から他のアルファベトも類推が容易になる。するとfineとかcloudyとかweatherとかbreezeとかの文字がひっきりなしに現れてくる。こうして次から次に色々な単語の解読が進んでいった。
帆船時代の軍艦の日誌には、刻々と変わる天候の記録、風の強さと風向の定時毎の記録、海流の速さと方向、海深が計測可能な時はその深度、風向きと強さに応じた帆の操作の記録、正午の艦の位置の位置(経度と緯度)の天測とクロノメーターによる修正値、積載している水の日毎の使用量と残存水量、夕方の人員点呼の実施、製帆手(セイルメーカー)や船大工(カーペンター)等の作業内容が毎日必ず記載されている。その他に陸地を望見した時にはその方角と距離と地名が記載される。加えて、水兵の処罰に関しての嫌疑と罰則(主に鞭打ち回数)、船上での事故、礼砲の数、などの特記事項があるだけで、極めて簡潔(もしくは事務的)が毎日続く。唯一の例外は長崎港滞留中に記録者スコッツデールの個人的感慨が一頁に渡って述べられたことであるが、それはこの3ヶ月後(陰暦8月15日、陽暦10月4日)に内容を見ることにしよう。
解読が進むにつれて、帆の操作など帆船の知識が無ければ解釈が進まないことが明らかになって来た。かつて長崎博物館から日誌の複写を入手した頃、買っておいた帆船の専門書二冊は引っ越し時の整理を免れて書架に健在だった。神戸商船大学杉浦昭典教授による『帆船― 艤装と航海』と『帆船史話』の二冊である。いずれも年鑑型の大きく厚い本である。これらの本や帆船関連の洋書を参考にするうち、杉浦先生に直接会って話を伺おう、ということを思いついた。ちなみに私は子供の頃ひどく内向的で恥ずかしがり屋、人見知りをするタイプだったので、社会に出てずいぶん性格が変わったとは言え、見知らぬ人を探し当てて会いに行こうなどというのはこれまでの人生では稀だった。このことからも私とフェートン号の日誌とは、私の性格までも変えてしまうほどの運命的な出会いと言えるかも知れない。
個人情報保護法に過剰反応している現代日本では、出版社を通じて著者に連絡を取って貰うなどおよそ不可能である。ソーシャルネットワークの進展した現在、ネット上での人の情報の入手は極めて簡単であるが、杉浦先生の推定年齢から考慮するとデジタルデバイドの向こう側の世代と思われ、案の定ネット上での手がかりは得られなかった。ただ、神戸商船大学は神戸大学に併合され、従って神戸大学名誉教授であることはわかった。詳細は省く(と言うより覚えていない)が、弟子にあたる学者の方が見つかり、住所と電話番号がわかったのである。
私の依頼を快く受け入れてインタビューに応じてくれた杉浦先生は、大量の資料を惜しげもなく与えてくれて、日本の帆船学の第一人者として私の数々の質問に丁寧に応じてくれた。おかげで、私の帆船と航海への知識と理解は飛躍的に向上したが、その成果は今後の論考の中で折に触れてお披露目することになる。
さて、マドラスから出帆したフェートン号は、英国海軍のフリゲート艦であると紹介した。では、フリゲート艦とはいかなる種類の軍艦であるかを説明しておく必要がある。
1805年、この物語の3年前、世界史に名を残す大海戦があった。ネルソン提督の名を不朽にしたトラファルガー岬沖海戦である。
これは「英海軍」対「フランス海軍スペイン海軍連合」との、近代稀な艦隊決戦である。これ以降、これほどの規模の艦隊決戦は東郷平八郎提督率いる旧帝国海軍連合艦隊とロシア艦隊との日本海海戦のみである。既に1798年にエジプト遠征を果たしていたナポレオンは、この決戦に勝てば地中海の制海権を握り、エジプトから陸路でインドへ、同時に海路喜望峰経由でインドへ、つまりインドを挟撃できることになる。実際、この時、東インド会社をはじめインド在留のイギリス人はこの可能性に慌てふためいた。余談ながら、ナポレオン軍によってロゼッタストーンが発見されたのはこのエジプト遠征時である。
この時のインドは、大英帝国にとってどういう意味を持っていたか。ひとつはその生み出す富である。インドから阿片を中国に運び、茶と交換する。この貿易(清王朝は常にこの貿易を嫌い、禁令まで出したが効果が無かった)により東インド会社を通じて莫大な富が大英帝国に還流し、国力を支えたのである。もうひとつは、これは今ではあまり知られていないが、インドは良質な硝石の大産地であった。この硝石は火薬の原料となる。東インド会社は大量の硝石を本国へ海上輸送することによって、ナポレオン戦争を戦う英国を支えていた。たとえナポレオンのインド攻略がならなくても、インドが孤立するだけで大英帝国はインドからの富と、ナポレオン戦争で大量に消費される火薬の原料を一挙に失ってしまうことになる。実はインドが、欧州を席巻するナポレオン戦争の命運を握っていたのだ。一方で、Ill de France-イルドフランス(現モーリシャス)に根拠地を持つフランス海軍のインド洋艦隊が戦力としては小粒でありながらも、インド洋を跳梁し、英印の通商航路を脅かしていたし、ジャワ(現インドネシア)のオランダ植民地はフランスの制圧下にあった。帆船交通の発達によりヨーロッパの対立はそのままアジアに持ち込まれ、世界はグローバル化していたのである。ただ、インドとイギリスの連絡時間は片道ほぼ半年、時には一年かかる、現在と比べると恐ろしく緩慢なスピードではあったのだが。このグローバリゼーションから一人隔絶していた鎖国の島日本はやがてフェートン号の襲来により、世界の現実を垣間見ることになる。
話をトラファルガー岬沖海戦に戻そう。
この時の艦隊主力は両軍とも戦列艦と呼ばれる帆船軍艦である。Line of battle、つまり単縦陣を形成するための概ね砲50門以上の重装備艦で、1等艦から4等艦があった。1等艦は砲甲板が3層あり、100門や中には120門装備する巨大な艦もあった。砲撃戦が最大の目的の艦種であるから、攻撃力(砲数)と防御力(船殻の厚さ)の強さに力点がある。
一方で、海軍には艦隊決戦以外にも様々な任務がある。重装備の戦列艦とは違って、軽快で攻撃力も十分に備えた単独行動に向いた艦が必要になる。こうしてフリゲート艦が生まれた。級は5等艦となる。
杉浦昭典名誉教授によると、フリゲート艦の任務は、Convoy work=海賊船・私椋船・敵艦からの商船護衛任務、Scouting=艦隊や提督の目と耳なる偵察任務、Raiding=敵要塞や信号所への上陸作戦任務、Cutting out=敵湾内への侵入・切込み任務、等である。
1746年フランスのフリゲート艦Embuscadeアビスカドを捕獲した英海軍はその性能に驚いたという。アビスカド(伏兵の意)は砲甲板に12ポンド砲28門、Quarter Deckコーターデッキ(船尾甲板)に6ポンド砲10門、Forecastleフォクスル(船首楼)に6ポンド砲を装備していた。私を含め日本人はイギリスが海の王者として帆船時代を切り開いたと思いがちだが、イギリスはむしろ後進国で17世紀18世紀に最も造船技術に長けていたのはオランダ人だと、杉浦名誉教授は指摘する。フリゲート艦の先鞭をつけたのはフランスで、造船を担ったのはオランダ人技師たちであった。
イギリス最初の36門砲艦はPallasとBrilliantの2艦で、1757年からの7年戦争に従軍している。その後、1778年フランスがアメリカ独立戦争に介入した時にフリゲート艦2隻を新造したが、その一隻は18門ポンド砲28門を含む38門を装備したMinervaである。イギリスのフリゲート艦としては初めて18ポンド砲を搭載した。その同型艦として1782年に進水したのがこの物語の主人公のフェートン号である。
(この3点の写真は、National Maritime Museumからダウンロードしました)