31 長崎港の警備

長崎港は俗に「鶴の港」と呼ばれるように海から鶴が細い首を長く伸ばして入江を作ったような形をしている。港口(南の女神と北の神崎の線)は僅か500mと狭いので守りが極めて容易であり、北と東と南の三方を400m級の山々で囲まれているので嵐から遮られる天然の良港である。

伊能忠敬図

実際、日本から追放されたポルトガルが再交易を求めて再び現れた時、この港の入り口を大量の船舶で封鎖しポルトガル船を閉じ込めることに成功している。それは1647年のことであった。 それ以来、漂着船を除いて海外からの脅威は途絶え、日本は国際社会の中で長い眠りに入ることになる。 日本は長崎によって国際情勢を把握していたと言う識者もいるが、オランダからの情報はオランダの都合の良いように恣意的に変形され、日本が真の世界情勢を掴む事はなかった。 戦乱の中で精強を誇った日本の武士たちは大阪冬の陣(1614年)夏の陣(1615年)以降、1637年の島原の乱でキリシタン叛徒相手の戦闘を行った後は全くの惰眠を貪ることになった。その後の武士団による集団戦闘は1703年元禄十五年の赤穂浪士による吉良邸討ち入りが最後である。 1635年には日本人の海外渡航と海外からの帰国も禁止され500石以上の大型船建造も禁止された。 政宗が建造した洋式帆船による支倉常長のローマへの渡航も忘れ去られることになった。しかしその間世界は眠っていたわけではない。 むしろ戦乱に明け暮れ、 帆船の改造によって世界へ乗り出して(大航海時代)、南米北米インドを植民地化していった。戦闘技術の進展は凄まじく、それと相まって海戦の技術も規模も飛躍的に高まった。 これを日本は全く知らなかった。平和がもたらされたことによって日本文化は繚乱と咲き乱れたが、 閉鎖空間に閉じこもった代償はオランダ以外の国際列強と触れた時に償わされることになる。 江戸幕府の歴史上最も大きな衝撃はアメリカ海軍ペリー提督の来航であったが、 その50年前に先触れとなったのがフェートン号の襲撃で、三日間と言う短く凝縮した時間の中で 200年惰眠を貪っていたすべてのツケが明らかにされていくのである。

この頃の世界の戦争の実態はどうなっているのか、 見てみよう。 当時進行中のナポレオン戦争においてはフランス軍も反ナポレオン同盟の軍隊も、歩兵は全員銃で武装して軍団形式の戦闘序列を形成し、砲兵隊の大量の砲列が敵軍を制圧するために使用されている。一方で海戦は、大砲の進化のみならず、戦闘艦の用法も性能も大幅に進化した。大砲で言えば、1765年に就航した英戦艦ビクトリーに搭載された最大口径の砲は32ポンド砲(14.5kg /4貫目)の弾丸を使用するほど巨大化している。戦闘艦の設計では快速のフリゲート艦を生み出し、その代表的存在であるフェートン号は長崎から遁走したあと追い風に乗って10月6日から8日の一昼夜で実に370kmという距離を走り切っている。また、船舶による軍隊輸送についても1811年にはオランダ領ジャワ攻略のために(そこにはバタビア、今のジャカルタがある)100隻の大船団でインドから1万人の陸軍部隊を海路運ぶという大作戦の遂行能力を見せている。

一方で日本はどうであったか? 江戸幕府がポルトガルを日本から追放(1639年)した翌年、ポルトガルの使節パチェコが来航した時、使節以下60人強を処刑し船は焼き捨てた。島原の乱征圧後の、荒々しい戦国気風であった事がわかる。ただ、報復を予期して福岡藩と佐賀藩に長崎港口に近い戸町と対岸の西泊に番所を設立、毎年交代で港の警護を命じた。これが両藩による番所警備の始まりである。ポルトガルがスペインから独立後の1647年、既に記したように再びポルガル使節が長崎に交易を請いに来航した。この時幕府は九州諸般と松山今治から5万の軍勢を動員、船を繋いで港口を封鎖した。この時は使節一行には手出しをせず帰帆させている。しかし戸町西泊の番所には定小屋を普請して本格化、また九州14諸藩が長崎に聞役を常駐させて日頃からの情報収集伝達を行うことになった。さらに7年後には平戸藩に命じて7ヶ所に台場を築いたという。以上は、大井昇著「長崎絵図帖の世界」による。だがポルトガル船は2度と現れず、長崎港も泰平の眠りに入る。

梶原良則「寛政〜文化期の長崎警備とフェートン号事件」(福岡大学論叢)によれば、幕府が福岡藩佐賀藩に一年交代の戸町・西泊番所警備担当を命じた時に石火矢・大筒を貸与したという。だがこれらもまた長い眠りに入り、以後100年の間試射はおろか点検されることもなかったようである。

しかし1792年寛政4年に根室に来航したロシア使節ラクスマンに信牌を交付して長崎への入港を許可したため、長崎港の警備体制を確認することとなり、福岡藩佐賀藩が幕府から預かった石火矢・大筒(石火矢と大筒の違いは、現時点で確認困難=筆者)の点検を行うことになり、実に100年ぶりに試射が行われたが、その結果は散々なものであった。石火矢39挺のうち24挺は実用に耐えず、12挺は「打ち砕け(割損)」たという。この結果を受けて福岡藩佐賀藩は実用に耐えない石火矢(砲)に代えて自藩で鋳造した石火矢を幕府に献納することになった。また、口径が小さくて役に立たないものは廃棄し、五百目から二貫目(数は一貫目が多い)を採用した。梶原良則はこの事実をもって、長崎港の警備体制が全く近代化の努力がなかったという通説への反論としている。そうではあっても、例えば煙硝蔵(火薬庫)を砲台のある台場や番所から遠い港外に設けるなど、およそ実戦にそぐわない配置であった。これもまたフェートン号の襲撃によって欠陥が露呈されることになる。また長崎を襲撃したフェートン号は18ポンド砲28門を装備しているが、これは日本風に言えば2.18貫目の砲になる。一方、長崎の台場に配置された2貫目以上の石火矢大筒は新鋳造のものと旧式のもの合わせても、たったの6門である。その実力差は歴然である。その上、日本の石火矢大筒には駐退機(砲弾発射時に砲身のみが後退し、迅速な連続発射を可能にする)もない。フェートン号が襲撃した夜、オランダ商館長ドゥーフが出島や大波止で警護のために据えられた1貫目ほどの大砲を目撃しているが砲架も車輪もなく、ただ土俵の上に乗せてあったという。この有様では西洋列強の軍艦に歯が立つ筈が無いのだ。種子島に漂着したポルトガル人が持っていたと言われる火縄銃2丁。日本人の優秀な技術はこれをもとにたちまち精密な銃を量産し、戦国末には日本が持つ銃の数は世界最大であったという。だがその後イノベーションは全く行われなかった。これを日本が知るのは1844年天保15年、オランダ国王の開国の勧め(アヘン戦争など植民地化に貪欲な西洋諸国に対抗するため)をもたらしたオランダ軍艦を佐賀藩主鍋島直正公(幕末の名君の一人。フェートン号襲撃時の暗愚な藩主斉直の17男)が訪問し、その船腹を撃ち抜く力が日本の旧式な石火矢大筒では不可能なことが分かった時だった。彼は最新式の反射炉を建設するなど、幕末の雄藩としての実力を備えていくことになる。

 

1805年レザノフが長崎港を去った後、ロシア船が意趣返しに北方で暴れまわった。これを魯寇事件と幕府は呼ぶが、これに危機感を持ったのが松平図書頭の前任者曲淵甲斐守景露である。彼の父は名奉行として名高い曲淵景漸で、景露自身も老中牧野備前守が京都所司代のころ京都町奉行を勤め、牧野にその力量を見出されて長崎奉行に任命されたのではないか、と大井昇は推測している(大井昇「 フェートン事件前後の長崎警備についての新見解」)。彼は1806年文化3年に着任、上司である老中牧野備前守に諮り『台場への大筒の設置、番人の常駐などの画期的な指図をしていた。』(同上、大井昇)。1年後に図書頭が長崎に到着すると曲淵は江戸へ帰って在府の長崎奉行となり、長崎勤番の奉行である松平図書頭と老中との間で連絡役を務めた。これが二人奉行のシステムである。松平図書頭の老中への報告や問い合わせは曲淵の元へ届き、それを曲淵が老中と相談して老中の指示として松平図書頭へ伝送する。松平図書頭は初めての奉行職でいわば新人であり、時の老中牧野備前守の信頼厚い曲淵が在府奉行であることは心強かったに違いない。

狭い長崎港口は各藩の領地に細分化されていた

その松平図書頭が老中牧野備前守と在府奉行曲淵甲斐守の指示に基づいて、福岡佐賀両藩に作成させたのが下の地図(大井昇「長崎絵図帖の世界」より)である。これは「伊王島沖から、 高鉾と蔭の尾、次に神崎と女神の間の狭い海峡を通り出島沖へ至る航路を通る異国船に対して、台場から射撃される石火矢の軌跡を朱線で描き入れたものである。」という(大井昇「 フェートン事件前後の長崎警備についての新見解」)。

このように台場への大筒の配備をする筈が、実はフェートン号の襲撃が起こる15日前に松平図書頭から中止の命令が出る。9月の奉行交代のために曲淵はいま長崎への途上にある。その交代後に、というのだ。その背景には極めて現代と共通する事情があった。長崎奉行所立山役所の上隣に岩原御目付役所がある。ここは長崎奉行を監視する御目付と支配勘定役、普請役の官舎である。この御目付と支配勘定役、普請役は幕府直轄の役人であり、24章「衝撃のレザノフ滞在日記」で紹介したようにレザノフ滞在時は大田南畝(狂歌で有名。太田蜀山人が筆名)が支配勘定役として長崎に赴任していた。彼は『『奉行やしきを鯨屋舗と異名、此方屋舗をしゃちほこ屋舗と唱(となう)、奉行之家来迄、此方やしきを遠慮いたし恐れ候(『新百家説林』)』(「長崎奉行」外山幹夫47p)』と書き残しているが、この一文は奉行等と岩原御目付役所の微妙な関係をうまく表現している。長崎の町人たちの放埒な貿易機関である会所経営に業を煮やした幕府が長崎統制の手段の一つとして1715年正徳5年にこの岩原御目付役所を設置した。松平図書頭の台場への大筒配置に待ったをかけたのが、この時の支配勘定役中村継次郎である。彼はこの経費が今すぐ必要かどうか、と渋ったらしい。お上(幕府)の懐を勘案すれば今すぐの必要はないのでは、とでも言ったのだろうか。奉行として経験の浅い松平図書頭はこの意見を無視できず、長崎に下向途中の曲淵に相談したのではないか。曲淵は経験豊かな奉行であり、このような支配勘定役のあしらいも慣れていたろうし、台場警備強化を提言した人物だから自分が長崎に着任してから中村の懸念を払拭しようとして、松平図書頭に自分が到着後に、と指示したのではないか、と思えるのである。あと数週のうちに曲淵は長崎に着く筈であったが、わずか15日後にフェートン号の襲撃が起こるとは日本では誰も知らない。松平図書頭の巡り合わせの悪さはいくつもあるが、狭い長崎港口を見下ろす台場に大筒があれば事態の展開はもっと別のものになっていたろう。運命の糸は松平図書頭をただただ死地へと導くのである。

松平図書頭と中村継次郎の因縁は、その後意外な展開を見せる。中村継次郎は太平の世二百年を象徴する、御家人でありながら武士の気概がまるでない経済官僚であることがフェートン号の襲撃で大混乱の中で明らかになる。支配勘定役も普請役もいざという時には長崎奉行の配下としてその指揮に従うことになっている。長崎が大混乱に陥った中で、中村継次郎は松平図書頭の命令に対し長崎中の笑い者になるような怯懦な振る舞いをし、のちに処分まで受けることになる。その詳細はこの後の章で語ることになるが、経済官僚が経費節減や財源不足を口実に防衛費の増額にブレーキをかけている今の状況(ウクライナ戦争を受けての防衛費倍増計画論争)と少しも変わらないことが二百年も前の武家政権の時にも起こっていたのである。国の安全を考えない経済官僚の浅知恵は、防衛担当者に苦難をもたらすが、肝心の経済官僚はその浅知恵を批判されることはないのである。

もう一つ、松平図書頭の巡り合わせの悪さに、両番所警備の「減番」という慣例があった。これについては次の章で検討しよう。

最後に松平図書頭の事前の努力が実ったことを紹介しておこう。それは非常時が勃発した際の長崎の街の動員体制を作ったことであった。再び大井昇(「 フェートン事件前後の長崎警備についての新見解」)によれば、『フェートン号事件が起こった直前に、 ロシア船来襲を想定し、代官町年寄による地役人の総動員体制が定められていた』というのだ。これはのちの章で紹介することになるが、フェートン号襲撃で大混乱の中、松平図書頭の指令で市内警備の態勢は着々と進んだ。これについて注目されることは少ないが、書き留めておきたい。ただし彼も含め誰も異変が起こるとは夢にも思っていなかった。この備えはロシア船のためである。そのロシア船は数年前のレザノフ来航時でわかるように少なくとも長崎においては極めて温厚で人好きのする人間たちと言う記憶しかなかったのだ。レザノフ来航時でさえ長崎港に張り巡らされた台場の石火矢大筒は戦闘態勢をとっていない。レザノフだけではない。スチュワートによるNagasaki Maruの来航もあった。漂着船も少なくなかった。それらはいずれも敵意を持って来航したわけではない。長崎は商都である。日本で唯一の貿易港である。そこに来た者も迎える者も、新たな利益を手にする可能性があった。レザノフを迎えた長崎は、新しい貿易相手が生まれることを期待したのは前の章で見た通りだ。そうしたことから、長崎には官民を問わず、敵意ある訪問者には全くの無警戒であったのである。