検使、旗合、小瀬戸遠見番所へ 午後2時に大波止を出航した検使やオランダ委員団一行は長崎港口の小瀬戸まで行ったが、まだ異国船は見えなかった。そこで検使等はオランダ人を連れて標高100mの丘上にある小瀬戸遠見番所まで800mの坂道を登り、遠眼鏡を借りて望見したところまだ7里か8里も遠くである。検使がオランダ人に遠眼鏡を渡して観察させたところオランダ船かどうか確認出来ないと言う。同行した船頭にも遠眼鏡で見させたところ「荷足も深く見えますからオランダ船でしょう」と進言した。荷足とは喫水のことで、積荷があれば喫水は深く、空荷だと船は軽いので喫水も浅くなる。この船頭、実際は「荷足の深かけん、オランダ船でしょばい」と長崎弁で喋った事だろう。こうして検使オランダ委員達は丘を降り、再びそれぞれの船を沖へ出した。長崎港口の外で待ち受けることになったのである。
盗賊改方 隠密方は沖取締遠見番に合流して沖へ出ていたが盗賊改方はどうしていたか?彼らは長崎港口から約2km西の福田崎あたりにいたが、佐賀領松島から高鉾島沖へ来ていた。これは彼らの持ち場が西方面だったと考えられるが、沖へ出た8艘の船が長崎港外のあちこちに散らばっていたことが分かる。これは強い風と荒れる波の影響もあったろう。
検使等 四郎ヶ島まで進出する 小瀬戸遠見番所の丘を降りた検使とオランダ委員(ホウセマンとシキンムル)一行は高鉾島を過ぎ神島の先の四郎ヶ島あたりまで乗り出した。そこに盗賊改方の船も合流した。例年の旗合地点よりも随分沖の筈である。
フェートン号オランダ国旗を掲げる 少し時間を戻す。検使とオランダ委員一行が小瀬戸遠見番所からフェートン号を遠眼鏡で見た頃、フェートン号はまだ伊王島(Cavalles)を確認出来ていなかった。ペリュー艦長の報告書によれば『緯度の正確性を疑ってしまったことから、また海岸から伊王島が離れているとはほとんど見えなかったことから、すんでのことで通過してしまうところだった』と言う。伊王島は北緯41度20分から北緯42度50分に位置する。彼らの天測は正確だったにも関わらず、「緯度の正確性を疑った」とは伊王島(Cavalles)はもっと北か南にあると思ったと言うことだ。また伊王島の緑はすっかり背景の山々の緑に溶け込んでしまって陸地の一部と錯覚していた。その時僥倖が起こった。『島に、日本人により、信号として、オランダ国旗が掲げられた』と言うのだ。これによりペリュー艦長は自分達の目の前にあるのが伊王島であり、日本側がフェートン号をオランダ船と誤認して国旗掲揚の信号を送ったことを認識したのだった。なぜ伊王島でオランダ国旗が掲揚されたのか?「通航一覧」にはその記事はない。伊王島は佐賀領であり、遠見番所を運営しているのは深堀藩(佐賀藩支藩)である。なぜ国旗を掲揚したか?伊王島の遠見番は経験的に来航船が長崎港口を見つける困難さを知っており、恐らく荒天の時などは紅毛船(オランダ船)に目印としてオランダ国旗を掲揚していたのではないか? 長崎奉行松平図書頭の「果たして本当にオランダ船か?ロシア船などの異国船ではないか?」と言う懸念は公儀であれ佐賀藩であれ大村藩であれ、現場の遠見番とは共有されておらず、またその懸念を周知させる通信手段も無かった。小瀬戸遠見番所で喫水の深さから「オランダ船でしょばい」と言った船頭、親切心から「ここが伊王島であり島の北端が長崎港への入り口」との意味を込めてオランダ国旗を掲げた伊王島遠見番。歴史的な大失敗の前には小さな過誤が積み重ねられていくものだが、こうしてフェートン号は窮地を脱し、3時15分、偽装のためにオランダ国旗を掲げた。
接近 検使とオランダ委員の一行が四郎ヶ島まで出ると、異国船が掲げている紅白青横縞の旗が明瞭に見えた。検使2人が出役通詞達の船を呼び寄せ、通詞今村才右衛門に命じてオランダ委員にオランダ国旗に間違いないか、とたださせたところオランダ旗に間違いないとの返事である。そのまま待機しているうちに順風強くなり、異国船は下段の帆を絞る(帆を絞ることによって船足を遅くする=旗合の船々に近寄るためである)とたちまちのうちに待ち受ける船々の方へ近寄ってきた。
フェートン号 オランダ人を発見 ストックデールの特別手記によれば、『(沖取締遠見番であったろう)小舟をやり過ごしたまま港内へ入ってしまった。川を遡航するにつれて、無数の小舟に出会ったが、どの小舟も慌てて本艦の側から逃出そうとしているようであった』と言う。正確にはフェートン号はまだ長崎港には入っていない。だがペリュー艦長等は伊王島北端から高鉾島方面へ向かったが、そこを「川」と思ったようだ。彼等の知る世界では川(河)は巨大である。ガンジス河、マカオに注ぐ珠江など、河に沿って都市が生まれている。長崎という町もそうであろうと彼等は考え、長崎港口外の小島の数々を川に浮かぶ島々と捉えたのだ。フェートン号が沖取締遠見番の船を置き去りにした後も、高鉾島周辺の海上には無数の小舟がいたようだが、これは漁師達であったろう。巨大な異国船が近づくのを見て彼等は一斉に逃げ出した。その様子をフェ―トン号艦上からは余裕綽々で見降ろしていた。4年前、ロシア使節レザノフの乗船ナデジュダ号が入港した時は沖出役が先導したからたくさんの見物の小舟が漕ぎ出し異国船を一目見ようと群がったものだったが、今回は危険を感じて逃げ出したようだ。だがフェートン号の乗組員はその中の1艘にヨーロッパ人がいるのを発見した。これこそが襲撃の標的であった。ペリュー艦長の命令が矢継ぎ早に下った。
電光石火の襲撃 検使達の目の前まで接近した異国船は一旦停止したかに見えたが、舳先を沖へと向け直した。フェートン号は944トンの巨艦である。和船の千石船の何倍ものサイズであるが、その艦を検使等一同の船々に素早く接近させた上でほぼ停止し軽々と回頭(タック)したのは、見事な操艦技術と感嘆せざるを得ない。ブレーキも無ければエンジンもない帆船である。当時の英海軍、そしてペリュー艦長等の帆船航海の技量水準の高さを物語る。もちろんこれにはこの時の風が強かったのが幸いしている。風が無ければ、どんな帆船もsitting duckと化し身動き出来ないからだ。検使とオランダ委員は停船した異国船に漕ぎ寄った。『少し距離を置いたところで、代表委員たちは同船に向かって、いかなる船であるか」と呼びかけた。するとオランダ船だとの答えがあった』(「長崎オランダ商館日記」196p)。そして午後5時30分(フェートン号航海日誌10月4日記載)舳先に吊るし置きしてあったバッテイラ(当時の長崎の人々は小舟のことをポルガル語起源の「バッテイラ」と称した)に15人程乗り組み、スルスルと海上へ降ろした。「崎陽日録」原文によれば『ひらりと海上に下り』とある。よほど鮮やかな手並みであったのだろう。これは東シナ海航海中に散々繰り返した演習の成果である。この様子を至近で目撃した隠密方の吉岡十左衛門(吉岡の船と沖取締遠見番の船はフェートン号に無視されたあとフェートン号に追随していたがフェートン号がタック(回頭)してバッテイラを出す作業をしている時に検使やオランダ委員の船団に急いだのだろう)の松平図書頭への第一報によれば『長さ4-5間(8-9m)幅2-3間(3-5m)くらいの青い塗装のバッテイラを海上へ巻き下ろし天幕を張り左右に両人が杓子のような橈(かい/オールのことである)を操って速度を早め紅毛船へと近寄った』(「通航一覧」401p)と言う。小舟はオランダ委員が乗っている船に素早く漕ぎ寄ってきた。(ここからは「長崎オランダ商館日記」196p)そこでホウセマンとシキンムルが船縁に立ってもう一度「どの国の船であるか?」と問いかけた。するとオランダ語で「これはオランダ船でバタビア(ジャカルタ)から来た」との返事が帰ってきた。検使はオランダ委員の船のすぐそばにいて、通詞を通してこの会話を聞いている。オランダ委員は確認のために再び問いかけた。「去年(バタビア)に帰帆したオランダ人イイキスは渡来しているか?」すると「乗っている」と返事する(「崎陽日録」)。異国人はオランダ委員2人に「こちらの船に乗り移れ」と言うのでオランダ委員が「もうすぐ御検使様御一行がそちらの船にお越しになる」と答えると、異国船上からメガホンで大きな声が発せられた。これは恐らくペリュー艦長が「その2人を捕えろ」と命じたに違いない。その瞬間バッテイラの『船板を跳ね上げ下から15人がそれぞれ短筒を持ち火縄を振り剣を帯びて躍り出て白刃を振りかざし大声をあげて紅毛人両人を取り押さえ、直ちにバッテイラへ連れ込んだが、検使船船頭はじめ棹子(水主)ども水中に飛び込み、辺りにいた漁師や商い船もみな大騒ぎして逃げ出したり落水して逃げる者あり』(吉岡十左衛門の証言「通航一覧」401p)と騒然となった。「崎陽日録」9pはこう活写する。『(現代語訳)紅毛人ホウセマンをバッテイラに引き込み大いに驚いたオランダ人シキンムルは後退りして船の中程にいたのを異国人ども残らず剣を抜き持ち、紅毛人の乗船へ飛び込み理不尽にバッテイラに連行した(「商館日記」によればシキンムルはこの時帽子を海へ落とした)。この船に乗っていた通詞3人のうち六三郎は検使の船に飛び移ってこれを知らせ繁次郎作七郎は紅毛人危うしと助けようとしたが海中に落ち入り、その他漕ぎ手(水主)舵取りなど大いに驚いて海中に飛び込む者や他の船に飛び移る者あり。たまたま残るものは酔った様になり漕げなくなった。この騒動に役船援船数十艘集まっていた船々は時雨に舞い散る木の葉の様にバラバラと逃げ散って無惨なり。バッテイラへは紅毛人二人を奪い取って本船より綱を下ろし本船へ引き付け船人共に巻き上げたのは素晴らしい手際の良さだった(原文「めざましかりける有様也」)。 隠密方(吉岡十左衛門)は検使の乗船へ漕ぎ着けこの次第を庁(奉行所)へ急報すると言い捨てすぐに港へ乗り入れる。盗賊方もこの様子を遠目ながら見て検使の乗船が乗り遅れるのが見え心許なく引き返し高鉾島の横で検使の乗船と出会ったところ「この状況を早く庁へ報告せよ」と命じるので早く漕ぎ立てようとしても漕ぎ手たちはことの次第に驚いてなかなか漕ぎ進まない。幸い曳舟の役に出ていた小舟がいたので乗り換えて戸町御番所下へ行ったところ御番所に詰めていた者に申し捨て直ちに庁へ向かう』。
以上が各資料が伝える襲撃の瞬間である。検使とオランダ委員団など長崎港を出発した旗合の船々は8艘(前章参照)、これに真っ先に口外に出た隠密方(吉岡十左衛門)と盗賊改方(田口惣兵衛)の2艘、さらに2人1組の遠見番の沖出役が4艘(児島唯助/吉川次郎兵が乗る1艘は異国船に遅れて追従していた)、計14艘の船がフェートン号のすぐそばに集まっていた。さらに盗賊改方の行動でわかるように、異国船がオランダ船であった場合に備えて曳舟の群れがもう出動していたようだ。これは高鉾島のそばで投錨したオランダ船を何十艘もの小舟で長崎港内へ曳いて行くためである。それが「役船援船数十艘集まっていた船々は時雨に舞い散る木の葉の様にバラバラと逃げ散って無惨なり」と、あっという間に大混乱となった。「通航一覧」401pには『検使船船頭はじめ舟の楫子(かじこ、櫨(とも)にいて、棹(舵)をさす人)ども水中に飛び入り、近辺漁師商い船までも大騒ぎに呼び立て船を出して逃げ出しまたは落ちて泳ぎ去るものあり、検使通詞その他役人も思いもよらざる事態に大いに狼狽しているうちに異人どもは本船に帰り碇(いかり)で引き寄せ(ボートの)天幕が風を受けてはためきながら舳先(へさき)から鉤(かぎ/フック)をかけてくるくると(ボートを)引き上げ、それから36間(65m)の船で「軍器を張り」(戦闘準備をし)舷側に並ぶ大砲の砲門を開け』とあり、フェートン号が日本側の反撃に備えたことがわかる。だが、日本側は反撃どころか、短銃やサーベルなどの白刃を見て恐慌を来たし我先にと海に逃げ、たまたま残った漕ぎ手も漕ぐどころの騒ぎではなく船も動かないと言う有様であった。太平の世の中が続き、人々は白刃を振りかざされる経験も無かったのだろう。幕吏(江戸幕府から出向)3人(検使2人と隠密方)のうち、気丈なのは手附出役(同心)隠密方の吉岡十左衛門であった。吉岡は検使の船に漕ぎつけ「直ちに庁(奉行所)へ事態を報告する」と言って奉行所へ急いだ。「崎陽日録」9pはさらに伝える、『盗賊改方田口惣兵衛(地役人)は遠方から事態を目撃していたが検使が乗る船を追いかけ高鉾島の横で漕ぎ寄ると「すぐに庁(奉行所)に報告しろ」と言われたが水主(漕ぎ手)たちは動転して漕げないのでたまたま曳舟に出動していた船に乗り換えて戸町御番所へ行き詰めていた番子に異変を告げて奉行所へ急行した。遠見番の児島唯助/吉川次郎平は異国船に1町(100m)ほど遅れていたが、沖で見た様子では(オランダ船ではなく)異船であることを検使に伝えようと必死に櫓を漕がせるが、大船は順風を一杯に受けてその速さはとても追いつけるものでは無かった。そのうち旗合の役船がこの異国船に近寄っていくのが見えるので「急げ急げ」とせき立てても海上のことでままならない。そのうちに異国船は船足を止めて漂うように見えたHaulingのでその隙にようやく追いついて検使の船に近づき沖での様子を伝えようとすると他の役船からオランダ人が拉致されたと聞かされ「早く庁(奉行所)へ報告せよ」と命じられ、港内に漕ぎ急いだ。さて検使2人はどうしていたか?検使の菅谷保次郎と上川伝右衛門はオランダ人を拉致されるという驚くべき事態に茫然自失となってしまった。これは検使という任務=①オランダ船かどうかを確認。確認できなければすぐに禁を破って来航した異国船として西泊/戸町両御番所へ命じて緊急体制を敷く。②「オランダ人を守り抜く」、これは奉行松平図書頭が強調した大きなポイントである。前章で触れた図書頭の指示は「紅毛船(オランダ船)は季節外れの入港であるから、例年より早めに出動し、この船に近寄らずに旗合(はたあわせ、信牌=入港許可証の確認作業)をせよ。(隠密方、盗賊方、遠見番など)出迎役として主導している者共によく状況を尋ね、もし疑わしい事があらば直ぐに両御番所(西泊御番所戸町御番所)に命じて港内侵入を阻止せよ。オランダの委員達は検使の後に従わせ、先頭へ出してはならない」というものであった。2人の検使の頭からこの指示は消えてしまっていたと言わざるを得ない。それも無理のないこの日の行動であった。午後2時に大波止から役船を出して5kmも離れた小瀬戸まで行き、そこから標高100mの小瀬戸遠見番所まで上り下りし、そして高鉾島より1.5km先の四郎ヶ島まで足を伸ばして待機していたのだ。大波止から伊王島へ行く船に乗ればわかるが、神崎/女神の長崎港口(今は空高く女神大橋が聳え立っている)を過ぎると海面は黒く変わりうねりも大きくなって、外海に出たことが認識できる。その港口からさらに3km以上も出て四郎ヶ島辺りまでいけば、この日の強い風で検使やオランダ委員らの大型の役船でも上下に大きく揺れ続けていたことだろう。10月の過ごしやすい天気とは言え小瀬戸遠見番所までの登り降りに加え、日頃慣れない外海での船上待機は、検使にもオランダ委員にも相当体力を酷使していたと言わなければならない。この日の強い風に揺れる役船上で船酔いしていた可能性も排除できない。小瀬戸遠見番所で船頭が「オランダ船でしょばい」という言葉に背中を押され、荒れる海上で待ち続けてようやく三色旗をたなびかせた異国船を目にし、通詞に尋ねれば「オランダ旗に間違いありません」と言われたら、全ての警戒心は溶けてしまったのではないか。「オランダ人を先に出すな」という奉行の指示など念頭から消えていたろう。だから検使自らが異国船と交渉するのではなく、オランダ人に交渉を任せてしまったのだ。
この時、異常を知らせようと漕ぎ手を督促して懸命に急いでいた児島唯助/吉川次郎平の遠見番船のことも落ち着いていれば目に入った筈だがその余裕は無く、なんとく流れに任せてしまったのだ。
その挙げ句に驚天動地とも言える想像もつかない事態が起きたのだ。菅谷保次郎と上川伝右衛門は幕府派遣の手付出役(与力)6人のうち筆頭の2人であるが、太平の世の江戸幕府と長崎奉行所での勤務で白刃を振るわれる修羅場など一度も経験したことがなかったに違いない。いきなり異形の男たち十数人が短銃と抜き身のサーベルを振りかざしてオランダ委員の船に乗り移ってきた時に、その驚愕と恐怖は泡を食って海に飛び込んだ漕ぎ手たちと同じであったろう。この時検使の役船とオランダ委員の乗る船がどれほど離れていたかはわからないが、正気であれば役船に備えてある槍を携えてオランダ委員の船に飛び移り、襲撃者たちを槍で突き立ててオランダ委員2人を守るべきであった。槍を手に出来なければ腰の大刀を抜刀して襲撃者の1人でも2人でも切り捨てるべきだった。例え短銃で撃ち殺される羽目になってもそれが彼らの任務だったのだ。それが出来なければ襲撃者たちの後を追い、救出の手立てを尽くすべきだった。だが何も出来なかった。海上での作業ということで、恐らく腰の大小の刀は柄袋(つかぶくろ)に収まっていたのではないか?槍持ちも槍を鞘袋に入れていたのだろう。太平楽に慣れて咄嗟に反応できる体制はまるでなかったと思われる。それどころか菅谷保次郎と上川伝右衛門は茫然自失という状態であった。
「崎陽日録」10pはこう伝える『(現代語訳)検使の二人は色を失い、連れて行った紅毛人二人を奪われ、船々も散り散りバラバラとなり、乗船も漕ぎ手たちが腰抜けて退かせることも出来ず、どうしようもない時に曳舟の役に出ている6人の漕ぎ手の小舟が通りかかったのでこれ幸いと呼び止めて乗り移り、検使二人は供を見捨てただ二人槍を捨て、西泊御番所へ急ぎ、程なく着いて番頭への面会を伝える』。なんと検使2人は供を捨て槍も捨てて現場を逃げ出したのだ。自分の役船は漕ぎ手たちが腰を抜かして動けない。たまたま出動していた6人漕ぎの曳舟に乗り移って、現場から一番近い(4km)、港口そばの西泊御番所(佐賀藩警備部隊の駐屯地)にようやくのことで駆け込んだのだ。とても武士とは思えない行動で、海に逃げたり腰を抜かして漕げなくなった水主(漕ぎ手)となんら変わりない。事件現場で指揮もせず、供まわりも見捨て槍も捨てて、2人だけで逃げ出したのだ。「崎陽日録」は続ける『番頭は病で会えず物頭に会い、異国船が現れ旗合の紅毛人二人が奪い取られた。異国船は未だ錨を下ろしていないので港内に乗り付けることもありうる。早々に人数(軍勢)を手配されよと命じ、西泊御番所を乗り出て供を連れていないので大波止に上陸することを憚り、江戸町の上り場からすごすごと上陸して庁に出る』とある。辛うじて西泊御番所で事件勃発とこれから港内侵入の恐れがあるから準備せよ、と命じたのはいいが、実はこの時西泊御番所は当番の佐賀藩は規定の警備人数が揃えておらず空っぽに近い状態であった。だが上の空の2人はそれに気がつく余裕もない。しかも気がつけば供回りも役船に置き去りにして2人きりである。みっともないので正規の波止場の大波止ではなく、奉行所(西役所)下の江戸町の乗船場から人目を避けて上陸し奉行所へ出頭したのだ。これを形容するなら夢遊病者という言葉が適切だろう。オランダ人が襲撃された時、「彼等を護って闘う」という覚悟と胆力を持たぬまま任務につき、我に帰れば供回りも見捨て槍も捨てた自らの不甲斐なさにようやく気がつき、人目の少ない乗船場からすごすごと奉行所へ帰りついたのだ。復元図挿入その情けなさ、いかばかりだったか。しかも「通航一覧」401pによれば、襲撃直前に沖合から奉行所へ検使2人は「紅毛商船に相違無之、旗合も相濟候」という届書を送っているのだ。この届書は事件直後に2人の泣訴により正式文書から削除されたという。ペリュー艦長が襲撃を命じたのが午後5時30分。その混乱から西泊五番所へ行き、そこから江戸町で上陸するまで2時間以上はかかっただろう。この日の日没は18時2分。すっかり日は暮れていた。ペリュー艦長が待ち望んだ満月はオランダ人を時発見した前後の17時13分に東に上がった。検使2人が人影を避けて上陸をした頃、満月は2人をあかあかと照らしていた筈である。