航海日誌の第1ページ(7月9日)には「toward China」と記された。これから見ると士官クラスには目的地は中国と知らされていると思えるが、これは総員点呼の際に乗組員全員に通知しただろうか?そのような記述はないが、例えしていなくても艦長室での士官たちの食事を給仕する従卒が士官たちの会話から目的地が中国だと盗み聞きし、それは狭い艦内中にあっという間に広がっただろう。荷揚げの時から中国行きは公然化していたかもしれない。
10日午後、風は南から5m前後、波穏やかであったろう、17時30分に抜錨、展帆してフェートン号は出航した。ブリッグ艦(二本マスト)のフェートン号よりも小型のバラクーダBarracoutaも錨を上げフェートン号に同行する。なぜ2艦が一緒に出航したのか、その事情は分からない。
1時間後には陸地から10キロほどの海上、インド大陸がかろうじて見える距離だったがすぐに日が暮れて陸地は見えなくなったろう。月は明るい。3日前の8日が満月である。レーダーもGPSもない時代、目視だけが頼りの航海では月光は極めて重要な航海要素である。
また動力のない帆船には夜の休止もない。当直による展帆、縮帆はわずかな風の変化にも始終対応しなければならない。
11日午前4時、空が晴れた。ベンガル湾の波は月の光で銀色に輝いて見えたろう。
『帆船の朝は日の出とともに当直員のターン・ツーではじまる。夜に備えて甲板上にコイル・ダウンした動索類をピン・レールにコイル・アップし,海水でデッキを流し,こすり,拭き取り,飲料水樽に清水を補給するとたちまち7点鐘(午前7時半)である。忙しい朝食を済ますと8時にはその日の仕事がはじまり,僅かな食事時間を除いて日没時までぶっ通しで働かなければならない。』(杉浦昭典「木造帆走戦艦」)
ターン・ツーとはturn to work の略である。「さあ、働き始めろ」という号令だ。これ等の指示はボースン(boatswain掌帆長、甲板長、水夫長)の吹く笛で伝わる。命令ごとに独特の笛の音があり、甲板にはいつもこの笛の音や時間を知らせる鐘が鳴り響いていることになる。
4時20分、Strong Breeze(雄風)、10mを超える風になった。外洋に出たフェートン号はモンスーンに乗ったのだ。秒速10mは時速36㎞。Strong Breeze(雄風)の最大値は13.8m、時速50㎞にも達するのである。この強い追い風を受けてマスト上部のトゲラン帆を縮帆した。艦体が前のめりになり、速度が落ちるのを避けるためだ。
モンスーンは南東アジア地方の貿易風である。赤道付近では熱暑で温められた空気は上昇し、比較的温度の低い中緯度の亜熱帯地帯で降下する。この風の流れは地球の自転により北半球では東風となる。
『モンスーンという言葉は、季節風と同義にも使われますが、南アジアに吹く夏の季節風とそれによってもたらされる雨期をモンスーンとよぶこともあります(「図解気象学入門 古川武彦/大木勇人」)』
ところが夏になって太陽の位置が北に行くと、インド洋や太平洋では赤道低圧帯が北へ移動する。遠く東では日本のすぐ南まで来て梅雨をもたらすのだ。そして風の向きも南西からと変わり、東への航海を可能とする西風となる。フェートン号の7月の出航は、このモンスーンに合わせたものだった。
5時30分、フェートン号は洋上で風上に立って停船して艦載艇を下ろし、同航するBarracoutaに向かわせ、すぐに戻った艦載艇を再び艦上に引き上げるとトゲラン帆を展帆し満帆 トップスル帆を2次縮帆しロイヤルヤード(一番上の帆桁)を下ろす等慌ただしく作業した。
7時40分、Barracoutaと別れる。フェートン号は東へ。Barracouta はおそらく北への航路をとってベンガル地方、カルカッタ方面へ向かったのではないか。あるいはセイロンを経由してボンベイか?5時30分に艦載艇をなぜBarracoutaに送ったのか、記述はない。長い航海の前の短い挨拶だったのだろうか。製帆手たちはメインマスト(真ん中のマスト)のトゲラン帆のスタンスル(補助帆)作り作業を始めた。彼らは航海中、製帆作業に明け暮れる毎日が続く。
正午、晴れ、Fresh Breeze(疾風 10ⅿ前後の風)、航海は極めて順調である。毎日正午には航海日誌には必ず正午時点の観測で場所が記録される。北緯12.20ないし12.16 東経81.48。マドラスから97海里、ニコバル島まで702海里と記している。マドラス出航から18時間で180kmの距離を稼いだ。快速フリゲート艦ならではの速さだ。
インド大陸からベンガル湾を東へ向かうと、真東の方角にはアンダマン諸島があり、南東の方角にはニコバル諸島があって、極めて有効な目印である。マドラスを出航してアンダマン諸島に向かい、そのままの航路を南東に行けばマラッカ海峡が大きな口を開けている。フェートン号はマラッカ海峡を目指しているのだ。
正午の日課として水の残量調査がある。11日の正午で、111.5トン。
午後も晴天が続き、帆の作業もそれほど多くない。日が暮れてから風やや弱まる。
翌12日、曇天。午前4時風強まり、南西方向に雷光を見る。4時20分、出航以来初のスコール。忙しく操帆作業が続く。9時30分には製帆手たちがハンモック作りの作業を、Caulkersコーキン工たちは水樽の水漏れ補修の作業を開始する。
正午、曇り、風もおさまる。移動距離は142海里。昨日の正午から45海里、83kmの航海。水は残量110トン。一日の消費は1.5トンということになる。この日は海流も調査。速度と方向を記録。世界制覇を目論む英海軍にとって世界中の海流調査は貴重な情報となっていくだろう。
午後も順調で、操帆作業も少ない。5時30分、総員点呼。ほかに異常なし。
12日午前、4時20分スコール。正午ごろまで操帆作業に忙しく明け暮れる。製帆手、コーキン工の作業は荒天でも続く。
正午、水の残量は昨日とほぼ同じ。ニコバル諸島まで564海里。午後から夜間まで帆の展縮作業は続くが特記事項はこれと言ってない。
13日午前、小火器Small Arms演習が行われた。小銃などの射撃訓練と思われる。艦には赤い制服のMarine海兵隊が乗り組んでいる。海戦の時には彼らは敵将校の狙撃や敵艦乗り込みが任務となる。彼らを中心とした訓練だろうか。演習内容や時間についての記載はない。
午後になると風が強まり、翌14日も弱まる気配はない。スコールの記述も多くなる。曇天、もしくはスコールもしくはしのつく雨。大洋のうねりも大きくなっている。風を孕んだ帆の傷みもあるらしく、ミズンマストの主帆を下ろしての修理も行われている。
14日夜、異変が起こった。11時30分、東北東に3本の帆を見つけたのだ。陸地を見つけた時は「Land ho!」とマスト上の見張りが叫ぶが、この時は「Sails ho!」と叫んだのだろうか?直ちに太鼓手のドラムが鳴り響き、「総員配置につけ」の号令が下される。艦上は火事場のような騒ぎになったろう、砲手たちは舷門を開け、キャノン砲を所定の位置に据える。海兵は舷側で小銃を構えたはずだ。すぐに友軍と判明したようだ。10分後には風上に向けて艦を停船させ、11時55分にはHMS Calorineとメガフォン越しに会話を交わす。5分後にHMS Foxと会話、艦載艇が下ろされ艦長が乗り込みFoxに向かった。
午前2時半、艦長がフェートン号に戻り、Caloeine、Fox、もう一隻の船の3隻と別れて航海に戻った。3隻の任務や行き先の記述はないが、彼らはマドラスを目指していたものと思われる。それにしても夜の11時30分に帆を発見し、その10分後には停船操作をしているからせいぜい数キロ程度の至近距離での出会いと想像される。月は下弦、英語ではHalf Moon。
さらに翌15日朝7時、北東に再び帆を見る。8時10分に接近、二本マストの小型アメリカ商船Hileniaで、ベンガル地方を出航してフィラデルフィアへ向かっているとのこと。どうやら足の速いフェートン号が追いついたらしい。ボートを出して相手船に乗り組んでいるが、臨検だったと思われる。アメリカ船はナポレオン戦争については中立である。だがフランスの軍需物資を運んでいることもありうるからだ。そのような荷はなかったらしく艦載艇はすぐに戻り、フェートン号は9時には展帆して航海に戻った。この日は終始悪天候で操帆作業はひっきりなしに行われ、裂けた帆の修理作業も行われた。
それにしても2日立て続けに大洋上で他の船舶と遭遇するとは、いささか想像を超える事実である。考えられるのは、インドから東(マラッカ)へ向かう、あるいはマラッカからインドへ向かう航路としてニコバル島が良い目印で、東西からの船舶の航路として存在していたのであろう。
16日正午、ニコバル島南西53海里(98km)地点に到達。予定通りのコースであり、フェートン号はニコバル島の島影を確認することもなく、南東への航海を続けた(地図参照)
翌17日この後数日間、ただただ雨風との日々が続く。帆の修理作業も連日である。私もヨット操船の経験があるが、風を孕んだ帆の力は恐ろしく強い。300人の乗組員と大小42門の砲、100トンの水を積載した約1,000トンのフェートン号を推進させるのだから、帆と帆桁とマストにかかる負荷は並大抵のものではない。艦の中ではギシギシとマストが軋み音を立て、甲板には帆桁から無数に伸びるリグ(ロープ)がピューと風切り声を上げている。その中で一番弱いのが布製の帆だ。布といってもただの布ではない、分厚いキャンバス生地で出来ていて、古びた帆は水兵のハンモック地に利用されるほど頑丈なものである。それが恐ろしい風の力で破れたり千切れたりするのである。長い航海中には修繕が欠かせないのは当然であろう。
17日正午、Mizen Mast(最後部3本目のマスト)の見張りが「Land ho!」と報告した。コーターデッキ(後部艦橋甲板)の士官たちはそれぞれ望遠鏡で注視したことだろう。地図で見ると、インド洋に突き出したスマトラ島の北端にゴマのように小さな島がある。Weウェ島だ。ここはアチェン県サバン市である。そのさらに北北西26㎞にあるPulau Rondoロンド島が見えたのだ。Google Earthではぼんやりと映っているだけで島名の表記もない。既に英海軍の海図にはこの島が登録されていたと見える。このロンド島の北西157㎞にニコバル島がある。マドラスからマラッカ海峡へ直線を引けば、最短航路はニコバル島とロンド島の間を通る。フェートン号はたった6日と18時間でこの狭い水域を通り抜けた。極めて正確な航海技術である。洋上での2度の邂逅(英艦隊とアメリカ商船)もこの航路が定着していることを物語る。
翌18日の夜明け、南南西方向にスマトラ島の山が見えた。陸地ではなく、高い山の頂のみが水平線上に見えたのだ。フェートン号は補助帆も含め全帆を展張した。小鳥が羽根の間に空気を入れて全身を膨張させる時のようにフェートン号のシルエットも膨れ上がったに違いない。モンスーンを満帆に受けてフェートン号はマラッカ海峡へ快走する。正午、曇空だが、スマトラ島の陸地も見えた。
19日終日雨模様、夕刻この航海で初めての水深観測を実施、27もしくは30fathom(ファゾム=6フィート)を得る。マラッカ海峡に入り、水深は浅くなり55ⅿである。
この後、19日20日21日の3日間に渡ってフェートン号は北緯4度50分付近ペナン島の南80km、マラッカ海峡中央付近を遊弋している。おそらくフランス船やフランス海軍の艦を求めての偵察行動だったろうと思われる。ある時は水深11fathom(20ⅿ)の地点もあった。狭いマラッカ海峡といってもペナン島から対岸のスマトラ島海岸まで250㎞もある。結局、何事もなく、フェートン号は最初の寄港地マラッカを目指してマラッカ海峡を南下する。
ニュース映像で見るマラッカ海峡は陽光が燦々と注いでいる光景が多いが、モンスーンのただなかのフェートン号にとっては太陽を見ることはほとんどなく、曇り空か激しいスコール、もしくは篠突く雨という陰鬱な毎日だった。陸地を見ることもまれだった。艦内は水浸しになり、何もかも湿気を含んで陰鬱な衛生環境だったろう。
そのせいもあるだろうか、22日夜、死者が出た。クリストファー・ギャリー水兵が9時ごろ死亡した。
日誌には死因や年齢などの詳細はなく、Departed His Life, Christopher Garry (Seaman)とあるのみである。マドラス出航以来、病に臥せっていたのか、何らかの事故なのか、1水兵の死を調べる手立てはない。暗い湿った艦内はさらなる陰鬱さに包まれたことだろう。
その夜更けから、激しいスコールと雷鳴が始まり、夜明け近くまで続いた。ただでさえ迷信深いのが船乗りである。艦内のあちこちで上官に聞こえないように「クリストファーの魂が恨んでいるのだ」と恐れ戦いた囁きが交わされたのではないか。午前4時、日誌には“Constant heavy rains; wind shifting all round the Compass”とある。雨強く、風が吹き荒れてしかも風向きが始終方向を変えている様子がわかる。帆の操作はさぞかし錯綜したことだろう、細かい記述は一切ないのがそれを裏付ける。
6時になりようやく風向きが落ち着いたらしく、全帆を展張した。
10時、クリストファーの水葬が行われた。カーペンターが棺を作り、その中に遺体とキャノンボールが入れられ、太鼓の音が響く中で海に沈められた。日誌にはCommitted the body of the deceased to the Deep.とあるだけである。すぐに艦の配置は通常に戻り作業が再開されたらしく、製帆手はハンモック作り(千切れた帆の再利用か?)とフォアマスト(前から1本目のマスト)の上部帆の修理を始めている。艦上に感傷の入る余地はどこにもない。
推論だが、これは艦長の性格によるものかもしれない。それは後述することになる。
正午にはAt Noon, Cloudy W. & very threateningと記述されている。何がthreatening脅威なのかはわからないが、曇り空がただならない様子に見えたのだろうか。この一言に水葬の後の艦の心理的緊張が表現されているとみるのは読みすぎか?
午後8時、すでに夕闇に包まれ始めていたろう、Fine Pleasant Weatherとの記録された。Fine Weatherの記述は実に出航翌日の7月11日以来である。日誌に初めて現れた“Pleasant”という形容詞にようやく分厚い雲と雨から解放され、さわやかな風を受けた解放感が読み取れる。
これを境に天候は変わった。雨はたまにあるが全般に腫れた天候が多くなる。水兵たちはクリストファーの魂が神の御許に帰り着いたのだ、と噂したかもしれない。
タックTackという操船作業がある。帆船がほとんど消えた現在では主にヨットの操作に使われる言葉である。船が風上に向かっている場合、ジグザグに航走する必要がある。
図(杉浦昭典『帆船-その艤装と航海』より)を見ればわかるように、④の時点で左前から受けていた風向きを右前から受けるように帆の位置を変える(風上に立つ)ことである。大概のヨットの場合は1本マストの主帆を右向きから左向きに変える(あるいはその反対)だけだが、帆桁が船体上で旋転し、ヨットの傾きも逆になるので初めての人には大変な作業に感じる。だが、フェートン号は3本マスト、帆の数も多く、数多くの操帆のための索が艦上に張り巡らされているから、タックは艦上の全員(士官や海兵を除く)が総がかりの作業であろう。ベンガル湾を快走しているときにはモンスーンの追い風を受けているので、タックはほとんどなかった。だが、マラッカ海峡に入ってからは連日タックが頻繁に行われるようになる。乗組員の負担は一気に倍増しただろう。日誌はタックの実施をいちいち記録している。
25日正午の点検で水の残量が90トンを割り込んだ。翌26日早朝、水樽の一つが水漏れを起こして空になっているのが発見された。連日の水樽の修理が始まる。
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