54 夜明け

そのドゥーフは、異国船がイギリス船であることを発見していた。その経緯は次のとおりである。

この朝ドゥーフは、夜明けとともに西役所から異国船を望見した。その際は船舶旗を識別できず、異国船から数隻の小艇が降ろされているのが見えただけである。

その後、上條徳右衛門の用部屋日(419p)によれば、異国の船が旗を掲げたというので、上条はドゥーフと年番大通詞の中山作三郎を伴い、遠眼鏡を持って観察に出た。商館日記によれば8時30分である(ドゥーフのみが時刻を記録しているので実に貴重な情報である)。西役所の西側、出島を見下ろす側に面して近習長屋がある。その脇から高鉾島脇の異国船が見える。

上條から渡された望遠鏡(単眼鏡である)を覗いたドゥーフは驚きの声を上げた。まごうことなく翻っていたのは巨大なユニオンジャック(英国旗)だった。

ドゥーフは見たものを詳細に報告したが、それは用部屋日記に記録されている(通航一覧418p)。

『敵国エンゲレス二番之軍船フレガットと申船に而、賊船等には無之候、筆を取自ら印之繪圖を書候て差示し、船大さ長さ三十六間、舳先には羽翼を伸玉眼彩色怖しき鳥之形を付、五十挺之石火矢上の方より、夜中楯を引候處、一夜之内自塗之塀をかけ候様相見、筒毎火蓋を取黒装束陣笠着たるもの一人つつ火縄を振り、今にも可打出様子いかにも厳重、稻佐嶽の裾高鉾前に小城を構えたるやうに見え、一のマスト一二三と櫓を揚け、一の櫓は八畳敷有之』。

すなわち「敵国イギリスの二番目の軍艦であるフリゲート艦という船で、海賊船などではありません。船の大きさは長さ36間(約65メートル)あります。船首には翼を広げた目が怖ろしく彩色された鳥の形をつけています。50挺の大砲が上の方から見え、夜中に楯を引くと、一晩のうちに自然に塀をかけたように見えます。

大砲ごとに火蓋を取り、黒装束に陣笠をかぶった者が一人ずつ火縄を振っており、今にも発射しそうな様子で、非常に厳重です。稲佐岳の裾野に高い矛を立てて小さな城を構えたように見えます。一本、二本、三本とマストを立て、一つのマストは八畳敷(約13平方メートル)ほどの大きさがあります」。

ドゥーフはユニオンジャックの絵を描いてみせた。上條は「珍しきもの」としてこれを保管した、とある。

驚くのはこの望遠鏡の性能である。ドゥーフ達のいる西役所の丘から高鉾島脇に停泊している異国船(フェートン号)まで5kmの距離である。私が出島近くの海岸から高鉾島の辺りを130mmの望遠レンズで撮った写真と比べれば、この望遠鏡の精度が高いのがよく分かる。

ドゥーフは異国船がイギリスの軍艦であることに非常な衝撃を受けた。敵国の軍艦が意図は不明なもののはるばる長崎までやって来たのだ。彼の知識と当時の常識で判断すれば、イギリス軍の根拠地はインドであるはずだった。一体、何を求めてここまでやって来たのか。果たして水食糧の補給だけだろうか?彼らは最新の世界情勢を明らかにしないだろうか?家康が御朱印状を与えたオラダ国はもう存在しないことを彼らは言いふらすのではないか?望遠鏡で見たフリゲート艦は何十門もの大砲を備えている。その戦力は現下の奉行所の戦闘力に比較しようもないほど強力と思える。

そんな思いを胸に秘めたまま、ドゥーフはイギリス軍艦であることを奉行に知らせるように年番大通詞中山作三郎通詞に言った。間もなく中山作三郎は戻って来て「奉行は長崎には一人の兵士もいないので地団太を踏んでいられる。かの船を抑留するにはどんな手段があるか、また、船上にはおおよそどれほどの乗組員がいるだろうか、とお尋ねだ」と伝えた(長崎オランダ商館日記4/202p)。

ドゥーフの返事を要約しよう。

「昨夜(小通詞並)末永甚左衛門が観察したように加農(キャノン)砲40門を備えているのなら間違いなく300人かそれ以上の乗組員がいると思われます。同船を抑留するためには同船が出港する際、通らなければならぬ出口(神崎女神間の500m弱の港口)に大型船を何艘も沈めることしか思いつきません。でもそれを実行するには大変な労力と時間が必要で、それを準備しているうちに異国船は出帆してしまうのではないでしょうか?」

中山作三郎はこの返事を奉行へ伝えると、図書頭と上條徳右衛門は「今の人数(兵数)では佐賀福岡にはとても無理だろう」と結論付けた。

やむなく乙名頭取石本幸四郎と盗賊方田口惣兵衛を呼んで、ドゥーフに聞いた異国船封鎖の可能性を検討せよ、と命じた。この攻撃計画を、乙名頭取(惣町77町、町方の代表)と盗賊方に命じたということはこの時奉行所の主だった面々はみな両御番所への警備督促や沖に出て異国船監視などで出払っていたのだろう。

石本と田口は「これは容易ならざること、出来るかどうかはお約束できませんが早速取り掛かりご返事申し上げます」と答えた(用部屋日記(通航一覧419p)。

二人(上條徳右衛門の指揮下か?)は長崎港の絵図を広げ、大名(出動してくる各藩兵力)の朱引き配置図の作成、それぞれの人数(兵数)と役割、奉行所兵力の出動法、空船はここへ、敵船を沈めるのは警備年番である佐賀の役目と評議一決し、すぐに必要な品々の人数分の手配を始めた。

佐賀藩聞役関傳之允に「異国船焼き打ちにつき、即刻深堀役人に申し伝えよ。空船が足りないから深堀に停泊中の廻船にも非常事態につき召し上げて御用に使う旨船々に通知せよ。ただし、先刻空船御用になることは盗賊改め方に命じたから船々も承知している筈であるが承知の有無を問わず召し上げよ」と命じた。

地下宿老林伊三太(宿老とは35章で詳述したが商人を監督する家柄であり、森・徳見・林・浜武の4家、権力と財産は町年寄に次いだという)を呼び、佐賀藩屋敷の番頭米倉権兵衛に役人口上を兼ねて(奉行所役人の立場で、ということか)所持催促をせよ、と命じた。石本に次ぎ主要町方幹部の動員である。林伊三太は米倉権兵衛に石本等が作成した攻撃の際の担当部署を説明し、封鎖に用いる空船を連結する大綱の手配を直ちに深堀へ連絡するよう申し渡した。

また堺宿老高次藤一郎を呼び出し、大阪廻船碇綱をすぐに集め、林伊三太に渡すよう命じた。これから判断すると、廻船用の碇綱は大綱の一種だったのだろう。

そうこうするうちに両御番所へ遣わしていた木部幸八郎や山田吉右衛門と花井常蔵が戻り、手薄な状況が相変わらずと報告している。