ドゥーフの手紙を持たせて甚左衛門一行を異国船へ送り出した図書頭であったが、彼の宮中にはある不安が膨らんでいた。ドゥーフの助言通り水や食料を補給すれば、異国船はすぐにでも出航してしまうのではないか、という予感である。もしそうなれば国法を無視して違法に長崎港に侵入した上に迎えに出たオランダ人二人を白刃を振るって拉致したこの行為に、彼らを打ち砕くことで罰を与えねばならない。だが出航してしまえば、長崎奉行としての務めを果たさないどころか、日本という国の権威(それは幕府の権威である)を失墜させてしまう。
一方、いざ事が起こると、日頃言っていることとは裏腹にその人の本性が出る。上段の文章で述べたように『日頃猪武者と呼ばれる者もこの時に臆している いわんや猪武者で無い者はなおさらである』(松平図書頭)と言う有様になる。
既に39章で、異国船の小艇が遊弋し大黒町辺りに上陸したという流言が飛び交う中、大黒町の佐賀屋敷への連絡を命じられた吉仲勇蔵が任務を果たさず夢遊病者のようにさ迷い歩いているのを上條徳右衛門に見咎められたエピソードを取り上げているが、そのような軽輩ではなく、幹部級の怯懦も記録されているのである。怯懦=怖気づく、と言い換えても良いだろう。
中村継次郎は岩原目付屋敷の支配勘定である。長崎奉行を監察する立場であり、大田南畝が『奉行之家来迄、此方やしき(岩原目付屋敷のこと)を遠慮いたし恐れ候』と書き残したほど目の上のたん瘤的存在であった。支配勘定は二人おり、もう一人は図書頭の指示下フェートン号へ何度も赴くなど勇敢な行動で勘定奉行から褒詞を賜ったが、中村継次郎は「百日押込(おしこみ)」という処罰を下された。自宅の中に座敷牢が設営され、その中で百日間は髭も剃らず謹慎しなければならない。お仕込みは20日から100日というから一番重い押込処分となったのである。彼になぜこのような処分が下されたのか?その実態が用部屋日記(通航一覧)に記述されているから、見ていこう。
『此時之検使中村継次郎へ被申候處答不宜、當人檢使等可相勤覺悟に無之、着服手薄之由に而、徳右衛門着類用立申候、彼是迷惑之様子を見請』(「通航一覧」419p)、つまり「(佐賀藩が担当の両御番所が手薄なので督促の)検使(使者)を命じたところ当人にその役目を果たす覚悟がなく衣服(鎧などか?)も無いというので上條徳右衛門が自分の物を貸し与えたが本人にはかえって迷惑な様子」と記している。
「崎陽日録」はもっと詳細で、記述内容も違っている。ここでは御番所へ行く役目を図書頭が命じると、中村継次郎は『差込(剣)を持参していないので参上できませんと答えるので図書頭が「それは事欠けの事、使い古しだが自分の差込(剣)を用立てるからそれを使え」と申され自分用の差込を取り寄せられたところまた中村継次郎が言うには「江戸を発つときに仮養子を願い出ましたがその人は見当たらず(其人なき)願書を出し置きましたので万一ことあらば相済まずとして行かず」(崎陽日録21p)と記し、さらに『中村継次郎の逃げ口上を見た人々は非難し又大いに笑うものもいた』というから大勢の人々の中での見苦しい振舞だったようだ。
31章で見たように、ほんのひと月足らず前の7月、図書頭の長崎港の台場への大筒配置を必要な経費ではないと渋り、断念させた男である。その報いがこの事態であるのに自らに降りかかった危険な任務からは逃げるとは、武士(もののふ)の風上にも置けない。岩原目付屋敷の支配勘定に選抜されたほどだから優秀だったのだろうが、太平二百年はこのような経済官僚も生んでいたのである。
結局この後、彼は様々な任務を命じられ、それらの役目は果たしたようであるが、どのような心境でそれをやったのかは記録にない。
侠気と怯懦、いずれにしてもいざという時にならねばその人物の本音が出てこない。図書頭がいう「猪武者」は誰のことを指すのかわからないが、普段の大言壮語とは別の正直な本性が非常時に出ることがこの事件でもよくわかる。