41 憤怒

検使、帰る そこへすごすごと検使の菅谷保次郎と上川伝右衛門の二人が西役所へ戻って来たのである。タイミングとしては最悪であった。夜六半刻、午後6時ごろ、中秋の名月が顔を出し夕陽が稲佐山に没した頃であり、まだ市中は明るかった。二人の検使が戻ったと言う知らせを聞いて、直ちに上條徳右衛門が奉行の居間に案内し(他聞を憚ったのであろう)奉行松平図書頭が直々に聞き質したところ菅谷保次郎は大息を吐き歯の根も合わない状態であった(「通航一覧」404P)。この検使二人がオランダ人を奪われてからの行動は前章(36章)に書いたが、ここでもう一度おさらいしておく。二人は槍(槍持ちが付き従っている)もその他の従者も捨て(従者たちが乗る船をそのままに)、現場に一番近い西泊の警備所に自分たちの船だけで乗り付けて非常警備につけと言い捨て、長崎港の表玄関である大波止に乗り付けると従者も槍持ちも配下の船も見捨てた二人きりのみっともなさが人目につくので、江戸町(出島を挟んで大波止の反対側)からこっそり上陸したのである。恥ずべき行動だったことを自覚していることがこのエピソードでわかる。

凛々しい鎧姿の図書頭の面前で、二人が蒼白の面持ちで説明するには「異国船の連中がバッテイラ(小舟)に乗り移って接近して来て、なんと(バッテイラの)船底から15人ほどが短銃や白刃を振るってオランダ人の乗船に飛び込み、二人を捕らえてあっという間に本船(異国船)に引き取りました。彼らはそれぞれ猛虎のような獅子奮迅の働きで威風堂々付け入る隙もないように見えました。跡を追い刀を振るって戦うべきところ、そうするには鎮台(奉行所)のお考えもあるでしょうし、かえってご迷惑になるかもとも思いひとまず帰って報告すべしと判断いたしました(原文:其人物各如猛虎勃握自在之働、威風可近附様も無之相見候へとも、跡を附入刃傷にも及へき慮、夫に而者鎮臺御心配も多く、却而亂雑致すべくやと、一先此段申上候)」。これを聞いた奉行松平図書頭はみるみる憤怒の表情に変わった。二人が案内された奉行居間とは、奉行所の公式応接間である書院の西側の部屋で奉行はここで寝食をとる。それだけに近習を除き誰も立ち入る機会の無い、奉行所の最奥に位置する。そこへ案内したという事は、図書頭は二人を厳しく叱責する構えであったことがわかる。だがその弁明は図書頭の倫理観の許容度を著しく超えた情けなさであったのだ。これで図書頭は激昂したのである。図書頭は二人を声高に罵倒した。

「その方どもよく聞け。小禄(幕府御家人の与力(手附)は通常俸禄は百俵。長崎勤務には手当金年70両が加わる)と言えどもそれを賜っている以上公禄(幕府にお仕えする身分)である。西国諸藩がこのていたらくを見るとこれほどの恥があろうか。季節外れの阿蘭陀船の渡来だから異国船の可能性もありくれぐれも油断するなと出掛けに注意した阿蘭陀人は当地に滞在する以上は日本人も同じ安安と奪われたことの情けなさよ今朝も言い聞かせたように紅毛(オランダ人)はお預かりしている大切な人々であると思い、不用意に先に出してはならぬと指示したではないか。それなのに異国船にが入港する際の身元証明書確認の返事も尋ねずとは手抜かりも甚だしいが、そのうえ刃傷に及べばかえって事態が面倒なことになるかもなど、なんと言う恥知らずな言い訳か。とても我慢ならぬ、刃傷に及んだ結果と無事に紅毛を取り戻すこと、どちらが大事かわからんのか。即刻立ち戻り(紅毛を)取り返すべし、心配労苦もあろうがこの非常事態なので平穏時のように見逃す訳にはいかぬ。潔ぎよく打ち向かい死力を尽くして取り戻すべし、諸々の準備は(上條)徳右衛門に申し付けるからよく心得よ」と厳しく命じた(「通航一覧」404P)。重大ミスを犯したとはいえ、菅谷と上川は長崎奉行所幹部である。他の地役人や町方の前でこれだけ厳しく叱責する訳にはいかず、居間を選んだことになるが、それにしても激しい言葉であった。二人の検使は身の置き所がないほど恥入ったと思われる。だがそれにしても「命懸けで取り戻して来い」と言われても、二人に練達の武芸の嗜みがあったとも思えず、ただただ茫然としていたのではなかろうか。酷な言い方になるが、腰抜け侍であることは既に露呈し切った二人であったのだ。

徳右衛門に奉行が言う 二人が悄然と居間を出ると、図書頭は上條徳右衛門にこう指示した。「非常時の心構えをしておくことは言うに及ばず、各人が担当する任務においてしっかり適切な処置を取るようにこころがけよ」と命じた。図書頭は奉行所手勢の貧弱さを思い知ったに違いない。先程勢揃いした3組(町使散使唐人番)の面々に「手柄を立てよ」と奮起を求めたが、彼らは所詮は地役人でいざ戦闘となった際に当てに出来るとは思えない。武人(旗本)としての松平図書頭にはやはり西国雄藩の戦力がどうしても必要だった。

両家聞役 三度、佐賀藩と福岡藩の聞役を呼び出し、「非常事態で錯綜しているので連絡係を務める者を陣屋に待機させよ、急用を伝えさせよ」と命じた。この文章で注目されるのは「陣屋」という言葉が使われたことだ。最初にこの単語が登場したのは[砲の配備を進める項で御武器蔵預かり三浦等に旗や幔幕鎧鎖帷子旗竿など取り揃え 御陣屋へ差し出すように申し渡した」という一節である。これは西役所を「陣屋」すなわち要塞化して前進基地として用いる、ということだろう。砲術家の町年寄薬師寺九左衛門に出動を命じた直後に奉行所機能は丸ごと西役所に移動したと見て良いだろう。

各町の乙名蘭唐通詞宿老、帯刀願い 惣町77の乙名(町の代表/責任者/仕切り役)オランダ通詞と唐通詞、宿老(商人の監督者)が非常時につき「帯刀許可」を願い出た。上條徳右衛門はこれを受け、「貸し刀という心構えでこの非常事態に限り許可する、皆手柄を立てよ」と命じ、またそのことを奉行所内に待機している町年寄後藤惣太郎にも命じた。これにより年寄達の配下の者どもも帯刀願いが出たので徳右衛門が了承した。このことからわかるのは、長崎町方には苗字帯刀を許された町方は多い(町年寄、町使など)が、日頃の帯刀は厳格に管理されていた事が分かる。普段帯刀許可の無い者が奉行所の刀を借りて武装したことが「貸刀」であったのだろうか。

さて、ここまでは7月に奉行松平図書頭が策定した、魯寇を想定しての非常時体制に基づき、長崎の街は奉行の指揮下で機敏に動き始めたことが見てとれた。長い記述ではあったが、吉岡重左衛門の第一報が届いてから町方一同を含む非常態勢が敷かれるまで1時間ほどだったろうか。その間には奉行所機能は立山役所から西役所に移動までしている。合戦(かっせん)のような喧騒が続いたが、ある程度シナリオ通りの展開であった。だがそれは、思いもかけぬ形で齟齬を来たし始める。