ここからは、拉致されたオランダ人の状況を彼らの商館長ドゥーフへの報告書をもとに描いていこう。商館日記210pに記述された、オランダ人二人が10月5日(8月16日)午後9時に最終的に解放された時に商館長ドゥーフに行った短い報告をもとに再現する。
10月4日午後5時ごろ、オランダ委員(簿記役ホーゼマンと商務員補スヒンメル。日本語文献ではホウセマンとシキンムル)の船は検使の船に寄り添っていたが、異国船を発した端船の乗組員達がサーベルを振るってオランダ委員の船に乗り移り二人を連行した際にシキンムルは帽子と靴を失った。その時の激しい混乱が想像される。混乱して落水者も続出する検使らの船団を尻目に、端船は本船(フェートン号)に素早く漕ぎ戻りデリック(荷や船を引き上げる装置)を使って瞬く間に船上に引き上げられた。この時に二人は異国船の物々しい武装や無数の乗組員を間近に見て軍艦(この時はまだオランダ旗が翻っていた)である事に気が付く。
二人はすぐにコーターデッキ下の船長室に連行された。間もなく2人の兵士等を伴って船長が現れた。オランダ人二人が驚いたのはその若さである。20歳前後の若者であった。彼こそがフリートウッド・ペリュー艦長であった。父親譲りの長身の彼は遠路の航海の後にも拘らずプレスの利いた士官制服に身を包み、他の薄汚れた乗組員とは比べ物にならない貫禄と優雅さであった。従者として乗り組ませた自費で賄うインド人の少年が毎日糊目を効かせてシミひとつなく手入れした仕官服で一段高いコーターデッキから主甲板を睥睨すれば、荒くれ者揃いの乗組員でさえその威厳に「さすがは父親譲りの生まれついての艦長」と恐れた事だろう。19歳という年齢が艦長としての尊厳に水を刺すことは無かった。
ペリュー艦長は二人から「来航オランダ船への警告書」(長崎オランダ商館長から船長への警告=船内を厳重に検査し禁制のカトリックに関わる本や文書や十字架と偶像などの全てを始末せよ、というもの。オランダ委員が来航オランダ船に乗船して船長に渡す警告書)と、もう一つの「代表委員たちと検使たちの間に起こった記録」を奪い取った、と言う。「警告書」の存在は通常の出迎えプロトコルの一つとしてよく知られている。しかしオランダ人たちが「代表委員たちと検使たちの間に起こった記録」を残していたと言うのは「長崎オランダ商館日記」のこの部分以外に言及はない。日本人と同様かそれ以上に厳密な記録を残す習性のオランダ人は、検使たちと行動を共にした間の出来事を全て記録していたのだ。恐らくこれはシキンムル(ホウセマンより年若)の仕事だったのだろう。この記録魔とでも言うべき習性は彼らの安全保障の意味もあった。もし何らかの行き違いで事故もしくは事件に至った場合、全て検使の指示に従ったと言う証拠保持のための記録であるのだ。オランダ人は心の奥底で奉行所も通詞も信用していない。いつ何時、自分らの所為にされるか分からない、と言う恐怖の世界観の中で生きているのである。
二人の兵士はサーベルを抜き白刃を二人の胸に突きつけた。生きた心地はしなかっただろう。ペリュー艦長が英語で話しかけると、水夫がオランダ語に通訳した。この水夫はメッツェラールと言う名前で、オランダ商船エリザベート号に乗っている時に英海軍に捕らえられたと後に明かしている。
もうひとつ二人のオランダ人を驚かせた事がある。それはペリュー艦長が美青年と言うべき整った顔をしていたことだ。父エドワード・ペリュー提督が頂点に立つインド・マドラスの社交界である婦人をして「こんな美しい青年は見た事がない」(「Storm & Conquest by Stephen Taylor」と驚嘆させたほどの凛々しい海軍士官であった。だがサーベルを胸に突き付けられた二人がそれを認識する余裕があったかどうか、は分からない。
若きペリュー艦長はメッツェラールを通じて二人に「オランダ船はどこに停泊しているのか?」と尋ねた。この時、ペリュー艦長等は長崎港の全体像がわかっていない。と言うのも航海日誌を書いたストックデールが特別手記に書いているように、彼等は長崎港一帯を大きな河の河口だと勘違いしていたからだ。これはマカオで見た珠江のせいだろう。その河口は大海そのものであった。そこから上流に遡行すれば西洋各国の東インド会社の支店がある広東まで100kmもの距離がある。だから長崎の「河」の上流のどこかにオランダ船がいると考えていたのは間違いない。
オランダ人二人が「今年はオランダ船はまだ来航していない」と答えるとペリュー艦長は「それが本当かどうか、私自身が確かめてくる」と言い放ってすぐに艦長室を出て、命令を放った。軍人らしい行動の素早さだった。二人の耳には本船から端船(短艇やカッター)を降ろす叫び声やボースン(甲板長)の吹き鳴らす警笛、大勢の水兵が動き回る騒音が聞こえていたが、やがて静かになった。
ペリュー艦長自らが率いて3艘の、カロネード方まで装備した端船が港内探索に出発したのである。敵地であろうとも、ペリュー艦長は恐れる気配は全く無い。3年前のバタヴィア襲撃で父エドワード・ペリュー提督が泣きながら感激し賞賛した息子フリートウッド・ペリューの勇姿が、今は長崎の港に降り立ったのだ。