襲撃の凶報届く 和暦8月15日(西暦10月4日)の黄昏時、陽は午後6時ごろに稲佐山に没した。代わりに中秋の名月が東の日見峠の彼方に上った。天は快晴である。江戸よりも千km近くも西の長崎では江戸に比べ40分ほども日没は遅い。沖では30分ほど前にペリュー艦長がボートを降ろしてオランダ人を襲い旗合の船団と港口付近にいた漁船商船の群れに大混乱が起きたのだが、長崎奉行所は無論それを知らない。薄明るい夕暮時に奉行松平図書頭の月番近習が『今日は名月、空も晴れ渡り、待ち望んだオランダ船も来航した。夜になれば図書頭様酒や肴菓子など召し上がれよう、と次の間に控えて図書頭の前に進もうとしたその時、検使菅谷保次郎/上川伝右衛門の書状が月番に届いた。「例年よりは大型の船ですが、紅毛船(オランダ船)に間違いなく荷足(喫水)深く(=貨物満載である)見えるのでまずはご安心下さい」と四郎ヶ島辺りで待ち合わせている時に書いた書状を大通詞の中山作三郎が持参した(*これは旗合船団の中の通詞の1人が伝令船に託して中山に届けさせたのであろう)ので、月番の私(近習)が奉行図書頭様の前に出て披露した』(「崎陽日録」11p)。これは図書頭にとって名月の夕にふさわしい吉報であったろう。だが、そこに四郎ヶ島から懸命に漕ぎに漕いで危急事態を知らせんと逸(はや)った隠密方吉岡十左衛門が奉行所玄関に駆け込んだのである。吉岡は広間に進んで用人(奉行の家来)木部幸八郎に急を伝えた。オランダ人襲撃されるの凶報は、オランダ船に間違いなしという吉報の直後に届いたのである。居間で近習が酒肴を差し出す直前の図書頭に伝えた。図書頭は異変の報を聞くと「直(じか)に聞く」と対面所へ出向き吉岡十左衛門を呼んで報告させた。
隠密方吉岡十左衛門の報告は「通航一覧」400pに詳しい。『入港したのは異船(オランダ船では無い)で、夕方7ッ時(午後6時)ごろ高鉾島前に碇(いかり)を入れ、御検使も前に出られ旗合も済んだ様子に見えましたので紅毛本船に近寄りましたところ、彼の船より15人ほどが小舟に乗り移り、こちらから出ました二人の紅毛人(オランダ人)を乗り移らせ、1人が拒否しようとする様子でしたが、たちまち剣を抜いて立ち向かい二人とも捕り押え本船へと引き入れました。私十左衛門は沖でカピタンに返すべき証文を(オランダ船から)受け取り御役所に差し出すべき手続きですので、度々本船に(返事を)催促したところなぜか遅れるので不審に思いながら本船に付き従って港口まで来ましたがあまりにも心配になり追従をやめ港口に走り入って検分したところ今申し上げた次第でありました』とある。この報告でわかるのは沖取締遠見番と一緒に横文字証文を来航船に届け所定の返事を受け取って御役所に届ける責任者が隠密方であったのがわかる。前章で触れたように返書を求めて沖取締遠見番を催促するとともに異船に縋りついて行ったのだが、異船の行動が尋常で無いので異変を知らせるべく沖取締遠見番の船と同様に急いで旗合団に合流しようとしたが間に合わなかたようである。吉岡十左衛門の報告には前章でも紹介したが『長さ4-5間(8-9m)幅2-3間(3-5m)くらいの青い塗装のバッテイラを海上へ巻き下ろし天幕を張り左右に両人が杓子のような橈(かい/オールのことである)を操って速度を早め紅毛船へと近寄り、船板を跳ね上げ下から15人がそれぞれ短筒を持ち火縄を振り剣を帯びて躍り出て白刃を振りかざし大声をあげて紅毛人両人を取り押さえ、直ちにバッテイラへ連れ込んだが、検使船船頭はじめ棹子(漕ぎ手)ども水中に飛び込み、辺りにいた漁師や商い船もみな大騒ぎして逃げ出したり落水して逃げる者あり』という記述が吉岡自身の報告なら、吉岡十左衛門は危急の中にあっても冷静かつ沈着に事態を把握し報告できる優秀な人材であったと評価できる。隠密方は手附出役とはいえ同心であるが、与力である検使二人よりよほど肝が据わっていたのかもしれない。
「物の具持て!」 この報告を聞いた松平図書頭は顔色を変えた。だが武人としての即断は目覚ましかった。『近習に「物の具持て」(鎧を用意せよ)と命じられ、近習の者が具足柩を持参すると小具足を着られ(兜を除き籠手脛当て脇楯の鎧一式を着用)、対面所に出て床几にかかられ(次から次に報告に来る)注進を聞いて諸方の手配を命じられる。庁(奉行所)の騒動一方ならず』と「崎陽日録」11pは伝える。エリート旗本として勤勉さと勉強熱心な日常は30章で詳述したが、武人としての心構えを常日頃から心がけていた事はこういう非常時に判明するのだ。続けて『盗賊改方田口惣兵衛、沖取締遠見番の児島唯助/吉川次郎平等が次々に沖の様子を注進(報告)する。図書頭自らこれを聞いて指令を飛ばした。一方、図書頭の「物の具持て」の命を聞いて、上條徳右衛門の家来(上條が自分の扶持で雇っている家来)毛利健助は用部屋(上條が奉行の指令に基づいて指揮をとる部屋。普段、上條はここで業務を取り仕切っている)に鎧一式を運び込んでいつでも着用できるように広げ、高橋忠左衛門は自分の詰所に行って鎧を着用するなど、奉行所は一気に戦時体制となり、館内騒然となった。
長崎代官の緊急配備始まる 図書頭は長崎代官高木作左衛門を呼び(代官屋敷は奉行所に隣接している)「港内の防備、かねて打ち合わせの通り行えと命じ、舎弟高木道之助は一隊を率いて稲佐郷(長崎港大波止の対岸)へ出動せよ」と命じた。この「かねて打合せ」とは「31章長崎港の警備」で紹介したように、レザノフ来航後の魯寇(ロシア兵が松前藩などを荒らした事件)を受けてこの4月にロシア船来襲を想定し、代官町年寄による地役人の総動員体制を定めていたことである。これは老中牧野備前守の指示(その知恵袋は在府の長崎奉行曲淵甲斐守。この事件当時は松平図書頭と交代のため長崎への道中である)が発端だが、実施は図書頭の功績である。代官高木作左衛門への指示により、2千人にものぼる長崎地役人と惣町77町の非常時体制のメカニズムが動き始めることになる。これは唯一の海外への窓として機能する長崎ならではのメカニズムであった。
岩原屋敷、召集 図書頭は岩原屋敷に陣取る幕府派遣の支配勘定役と普請役にも招集をかけた。岩原屋敷は通称で「岩原御目付屋敷」として立山役所(長崎奉行所)上隣に立地し24章でも詳細に報じたように狂歌で名を残した大田南畝が検使の菅谷保次郎初任時に長崎に同時に赴任しており、その際「奉行屋敷(立山役所のこと)を鯨屋敷と言い、こちら(岩原屋敷)をしゃちほこ屋敷と呼んで、奉行の家来までこの屋敷を遠慮している(煙たがって近寄らない)(『新百家説林』)」(「長崎奉行」外山幹雄47p)と書き残しているように、長崎奉行の目付として長崎奉行や長崎会所(貿易機関)の業務を監察していた。会計を監察する支配勘定が二人、長崎奉行所関連の施設や遠見番所の新設などを司る普請役が二人、駐在している。任期は1年ほど。彼らが長崎に赴任する時の行列は50人ほどにもなる仰々しいものである。だが今回のような非常時には幕臣として長崎奉行の指揮下に入るのだ。すぐに支配勘定の人見藤左衛門と中村継次郎、普請役の荒堀五兵衛と松本佐七が参上、図書頭直々の命を受けて物の具(鎧)に身を固めて奉行所に詰めた。支配勘定中村継次郎は35章で触れたようについ半月ほど前に、老中の指示を受けて台場に新規に大砲を配備しようとした図書頭に待ったをかけて事業を延期させたばかりである。彼はこのあと大失態を演じ図書頭に叱責されることになる。
着々と非常態勢 奉行松平図書頭が直々に長崎代官や岩原屋敷の支配勘定や普請役に指令したが、上條徳右衛門は常に脇にいて奉行の補佐役を務めるとともに自らも奉行配下の者どもと町方への指示を始めた。その詳細は「通航一覧」(401ページ以降)に詳しい。以下に命令毎にまとめる。
佐賀聞役呼び出し 長崎御番(長崎港警護の役割。千人の警備兵を駐在させる)は福岡藩と佐賀藩が毎年交代で勤めているが、この年の年番は佐賀藩である。松平図書頭はその佐賀藩の聞役(長崎に駐在して奉行所と国許の連絡役を勤める)関傳之允の呼び出しを命じた。関傳之允が出頭すると上條徳右衛門の案内で対面所へ通された。彼はこの日の朝、「香焼島沖午未の方角20里余に異船が見えました」と報告に参上している。その時の奉行所は「季節外れの来航ながらオランダ船なら大慶」と祝賀ムードであった。だが今回は奉行所内外が合戦準備に騒然としている。さらに関傳之允を驚かせたのは奉行松平図書頭が鎧姿で武装していたことだ。図書頭はいつもとは打って変わった厳しい口調で「すぐに紅毛人二人を取り戻したうえで、正徳年間(これは「通航一覧」の誤記。実際は寛永17年1640年。168年前の事件)に南蛮船を焼沈させた例に倣い船を打ち砕き焼沈させるので焼草火船(乾燥した燃えやすい木片や草を満載して火を放ち敵船に接近して類焼させる船)その他の準備をして書面にて報告せよ。敵船には秘密にして(悟られるな、という事だろう)国許へ増援を直ぐに要請せよ」と関傳之允に命じた。これを平伏して聞いた関傳之允は心穏やかではなかった。というよりも心中は甚だしく狼狽していたろう。その狼狽を図書頭も上條徳右衛門もこの時は気づいていない。佐賀藩の警備には重大な秘密が、というか隠し事があったからだ。関傳之允はこれ以降、長崎全体を巻き込んだ巨大な渦巻きの中の最も苦悩する人物の一人となる。早々に奉行所を退散して佐賀藩屋敷(港に面した大黒町にある。奉行所から歩いて8分。今のホテルニュー長崎辺り)に向かいながら、関傳之允の胸中にはどす黒い不安が膨らんでいたろう。図書頭の焼き打ちを決行せよという命にどう対処するか?対処しようが無いのだ。
砲の配備を進める 四人の町年寄のうち薬師寺久左衛門は砲術家である。この薬師寺久左衛門を出頭させると、図書頭は以下のように命じた。「近年蝦夷地騒動(魯寇のこと)以来兼ねて奉行所より異国船を防ぐため江戸表に報告している港内14ヶ所の矢配り(筬(おさ)に矢を順序よくさすこと。そのための仕切りのことともいう(コトバンク)。つまりは石火矢大筒に弾丸や煙硝を配備して戦闘準備をせよ)についてそれぞれ両組を率いて兼ねて決めてある通りに町年寄見習も指揮を取って異船が近寄って来たら石火矢で打ち払え」と命じた。石火矢とは火薬(煙硝)を用いた武器、すなわち大型の火縄銃か小型の大筒(大砲)を指すようだ。石火矢と大筒を明快に定義した資料はない。本久四郎兵衛(所属不明、出役の同心か?)に警護場所ごとの人数割付の書面を渡した。これにより薬師寺久左衛門が率いる両組の人数がそれぞれ14ヶ所に配置されることになる。さらに上條徳右衛門は御武器蔵預り三浦藤次郎 永尾亀三郎 その他見習い共5人を呼び出し、薬師寺久左衛門に石火矢大筒を渡すように命じた。持ち運び用の地車(重い物を運ぶ四輪車)や人足は五箇所宿老会所に必要な分を通知せよ、また旗や幔幕鎧鎖帷子旗竿など取り揃え 御陣屋(奉行所?)へ差し出すように申し渡した。
市中に轟き渡る轟音 また上條徳右衛門は又左衛門(地下宿老の森又左衛門か?)より煙硝を出す用意があるとの申し出があったので煙硝蔵預り塩見元助に、薬師寺久左衛門とそれぞれ一緒になって渡すように命じたところ程なく煙硝渡しましたと申し出たので、薬師寺久左衛門に手配するように命じた。この夜中、石火矢配備の地車の音や運搬手の声が山谷に響き雷のようだ、と「通航一覧」は伝える。この轟音は狭い長崎市街の人心を恐怖のるつぼに落としたに違いない。
さてここで面白い記述が一項目ある。『書記役手付斧生源一郎(与力序列No5、文化3年つまり2年前に半年在任に次ぐ二度目の赴任中。本間晴子「長崎奉行所組織の基礎的考察」論文より)は、奉行が「脇差を用意しろ」と命じられた件につき、そのように書き留めておけ(これは上條徳右衛門の命か?)と指示したところ、奉行所内を奔走していたのですっかり憔悴して記録を書くのが出来なかった(忘却した?)という手抜かりがあったと記録したが、詳細については公式の引渡日記からは除外しておく』という項目が、慌ただしい奉行所内の動きを叙述している中に存在している。(このページの画像添付)この短い記事は当時の奉行所内のことについて色々参考になることを示唆している。第一に、斧生源一郎は「通航一覧」のこの記事内では「書記役」とされ、本間晴子論文では「書方」となっているが、以前この原稿内で「記録係」がいるようだと指摘したが、それがこの書記役・書方の斧生源一郎であるようだ。第二に、奉行所内が騒然と化し、書記役の斧生源一郎も疲れ切るほど館内のあちこちを駆けずり回って消耗していたことがわかる。物の具(鎧)着用、武器庫の開放、数々の町方へのひっきりなしの指示指令などなど。それに加えてオランダ人拉致の一報が入って以来、どこにも記録が残っていないが、奉行以下は武装して立山役所から1kmほど離れた西役所(港を眺望する砦の役割もある)に移動している筈である。そのような大混乱に奉行所一同てんてこ舞であったろう事が、斧生源一郎のミスに現れたと言って良い。第三は、そのような状況であっても部下の些細なミスにも気が付いている上條徳右衛門の沈着冷静さ、である。一見、こんな大騒動の時に重箱の隅をほじくるような上司、との見方があるかもしれないがそれは浅薄な判断である。上條は斧生源一郎のミスをきっちり指摘した上で、次期奉行への引渡日記からそのミスを削除するという心憎い気配りを見せているからである。部下のミスを公式記録である引渡日記から削除する彼の気配りは、この後オランダ人を目の前で拉致された検使二人の懇願に応じて彼らの「オランダ船に間違いありません」という誤報(第一報)を削除するという人情を見せている。しかし上條の真骨頂は気配りだけではない。この後、戦場(いくさば)に向かう武士(もののふ)としての肝の座った仕草や指揮ぶりも見せるのだ。彼は奉行松平図書頭の筆頭家来である(家老という記録は見当たらない)が、沈着冷静にして武士(もののふ)の気骨溢れる人物(大人物と言っても良いだろう)で、図書頭は実に良い家来に恵まれたと言っても過言ではなかろう。図書頭自身は謹厳実直で誠実な人柄だけに、彼の倫理観が許すことの出来ない事態が出来(しゅったい)した時に激しやすい性格であることがこのあとの展開で見受けられるが、上條徳右衛門はよくそれを冷静に補佐しているようである。第四は、「引継日記」の存在である。これは私の調べた範囲内ではどの資料にも出て来ないが、これは次期奉行(この時点では長崎へ下向中の曲淵甲斐守)への現奉行からの在任中の執務公式全記録であろう。上條が斧生源一郎を咎めたことから鑑みるに、このような非常事態においてはどのような小さな指示も詳細に記録していた、と推測できる。江戸幕府の統治システムが担当者の恣意によらない厳密な記録に支えられていたことがよく分かる事例である。長崎奉行所に残された文書を調査した「長崎奉行所関係文書」(中村質)によれば、引渡日記と言うものは無いが、「用部屋申送帳」と言う文書がある。もしかしたらこれかもしれない。この引渡日記は現奉行の次期奉行への引継ぎ文書と想定されるので、受け取った奉行が江戸へ帰任時に持ち帰ったとすると、長崎奉行の役宅というのは江戸に無く、奉行の屋敷が在府中の役宅となるから、維新後に散逸した可能性がある。それが引渡日記が資料として残っていない原因かも知れない。
支配勘定普請役 中村継次郎(支配勘定/岩原御目付屋敷)は木部幸八郎(松平図書頭家来/用人、松平家中で上條徳右衛門に次ぐ地位か?)と共に、対面所に御役所附触頭一同を集めて港内の警備場所の指示を行った。御役所附とは地役人からなる警察組織の幹部連中で、触頭はその筆頭格であったろう。何名かの記述はない。これにより、火消など治安を担う町方が港内の警備所を固めることになる。中村継次郎に次ぐもう一人の支配勘定人見藤左衛門は松平図書頭家来の松平佐七と共に、港内見回りに出発した。この項で、岩原屋敷の幕僚と松平図書頭の家来が共に行動したこと、それぞれのペアのリーダーは岩原屋敷の幕僚であることがわかる。
14家聞役緊急招集 松平図書頭は長崎に聞役を駐在させている14藩の聞役を全員招集させた。その顔ぶれは図表の通りである。この14名は、奉行の公式執務室である書院に通された。ここは長崎訪問の大名と対面する時にも使われる正式な応接間である。鎧に身を固めた松平図書頭が厳しい表情で言い渡した。原文を記す。「今般異国船渡来非常之儀に付、其段銘々在所表に走使を以申遣、跡船等も見え候はゝ、一左右次第人数差出候様直達有之」。現代日本語は次の通りになる。「異国からの船が来たという非常事態について、国表にすぐに急使をお送り頂きたい、(さらに)他の船も見えたら、すぐに軍勢を揃えて出陣するように」。14名は国許へ急使を派遣するために即座に退出した。ただ長崎御番の佐賀藩と唐津藩、福岡藩の3人の聞役は奉行の命により留まった。「長崎御番」とは1年交代で長崎港の警備(戸町と西泊御番所に千人を駐兵させるお勤め)を担当する佐賀藩と福岡藩の特別な役目である。負担が大きい役目だけに、参勤交代の免除など特別な配慮も受けている。今年の当番は佐賀藩である。
佐賀藩福岡藩に直達 「福岡佐賀両家へは前段の儀につき、早々国許に可申遣旨、且つ又水野和泉守に者(は)在邑に付き、様子次第人数繰り出し候様相達可申す旨、其段別段に心得居候様、小林大登へ直達、徳右衛門取扱、夫々伺等有之、海陸持場の外、多人数集場等指図有之候、」以上は次の通りとなる。福岡藩の立花善大夫、佐賀藩の関傳之允には「福岡と佐賀の両家には、増援部隊の出陣を速やかに国許に伝えよ」。また、唐津藩聞役の小林大登には「水野和泉守公(唐津藩主/佐賀藩の支藩)は今国許におられるから、こちらの状況次第で出陣するよう特に心掛けておられよ」と命じた。ここで分かるのは九州諸藩の藩主が国許にあるのか江戸にあるのか、長崎奉行が仔細に掌握していると言うことである。長崎奉行の職掌の一つが九州諸藩や西国一般を所管することがこの例でよくわかる。徳右衛門がさらに海上陸上の持ち場や軍勢の配置などを詳細に指示した。
後藤惣太郎(町年寄り総覧33p) 町年寄の後藤惣太郎広間に詰めた。彼は9人いる町年寄の年番か、もしくは市中取締担当(総括)、あるいは両方を兼ねている役割と思われる。以降、後藤は奉行所に詰めっきりでさまざまな町方との調整役を務めたと考えられる。
散使町使唐人番招集 次に(後藤惣太郎の手配により?)町使散使の両組と唐人番一同を呼び出し広間に集合させた。町使(ちょうじ/時代によって町司とも言う)は地役人で構成される警察組織であり、日頃街を巡邏して、キリシタンを捜索、犯罪取締り、追放者の護送、などを行う。触頭(ふれがしら)、御役所附、平町使、と言う3階級があり、享保元年1716年には触頭3人、御役所附14人、平番35人である(長崎地役人総覧117p)。給与は年2貫以上。引地町・大井手町・八百屋町・銅座跡に役宅があった。いずれも奉行所と牢屋に近く、奉行所への被疑者の引き立て、牢屋への収容に便利であった。銅座跡だけは唐人屋敷に近く、唐人の監視統制が主任務であったろう。散使は町使に次ぐ警察業務の地役人で、与力または長崎会所(貿易商業全般を司る機関。長崎町方が運営)に属し、町使が人数不足の時はこれを補い、オランダ船唐船の入港から出帆までの役務や諏訪大社祭礼(おくんち)の時など細々とした業務に従事した。今でいうと平巡査だろうか?給与は町使より安い。この町使散使に唐人番(これも船番と同じく奉行所指揮下にある地役人20人)が広間に詰めた。西役所の大広間は東に面した門を入り玄関から上がるとすぐの部屋である。この大広間狭しと詰めかけた町使散使唐人番の3組は帯刀が許された者も多く(先祖を辿れば徳川幕府初期の天下に溢れた浪人が多い)、殺気だった空気が満ちていたろう。そこへ鎧姿の奉行松平図書頭が現れた。全員が平伏すると図書頭は「今非常事態だから全員気合を入れてそれぞれが手柄を立てよ」と自ら叱咤激励した。それを聞いた町年寄後藤惣太郎が代表して返事を申し上げた。記録には無いが、お国のため身命を投げ打ちます、と言う決意表明であったろう。その後、彼らは御武具庫で槍などの武器を受け取って配置についたと思われる・
再び長崎御番の両藩聞役 「長崎御番」を務める佐賀藩(今年の当番)と福岡藩の聞役(佐賀/関傳之允、福岡/立花善大夫)を再び呼び出し、石火矢台場(砲台のある台場)の警備について松平図書頭が対面所において言い渡した。「今般の異船は狼藉(無法)して紅毛二人を捕らえたまま出帆させるわけにはいかない、取り押さえる手段を考えているうちに出帆するようなら拠(よんどころ)無く打ち沈めるべし、かねてより両家(両藩)で申し合わせていた通り規則に決めてある通り警備の軍勢を配置し、石火矢台場では二の目三の目足並みを揃え敵の焼き打ちを行なうとなったら準備が出来次第即刻出動すべく、その準備の様子を知らせよ、ただし先程伝えた焼き討ち手続書面(作戦書か命令書?)はまだ出来ていないが、両藩とも全力で取り組め」と奉行松平図書頭が直々に言い渡した。
鉄砲組配置 一方で奉行所配下の山田吉右衛門と花井常蔵の両名には御役所付鉄砲組20名に実弾装備させて戸町と西泊御番所(年番の佐賀藩警備拠点)へ急行させ、また異船を攻撃するための台場設置してある大砲配備の状況確認に走らせた。
検使、帰る 以上見て来た通り、奉行所も町方も大喧騒のさなかであった。斧生源一郎のように奉行所内を走り回って憔悴し自らの記録業務を放念した与力もいたほどである。徳川幕府は武力で政権を奪い取った武闘政権である。200年の太平の中で戦国の気風は薄れて来てはいたが、このような非常時には本来のDNAが目を覚す。特に奉行松平図書頭は日頃の勤勉なエリート像から、異国に襲撃されオランダ人を奪われると言う恥辱に「敵を撃滅せよ」と復讐に燃える将軍直属の武将(旗本)に一瞬にして変貌したのだった。
そこへすごすごと検使の菅谷保次郎と上川伝右衛門の二人が西役所へ戻って来たのである。タイミングとしては最悪であった。夜六半刻、午後6時ごろ、中秋の名月が顔を出し夕陽が稲佐山に没した頃であり、まだ市中は明るかった。
二人が西役所のすぐ下の江戸町の船着場に着いた時には、出発時とは打って変わって戦場のような物々しい光景が広がっていた。槍を携えた地役人が船着き場一帯を警護し、坂を上がって西役所の大門を潜ると、鎧姿で武装した武士たちが血相を変えて行き来している。供も連れず、旗合に出かけたときの正装のままの二人はその喧騒の中ではいかにも不釣り合いで、顔から火が出るほどに恥ずかしかったろう。
二人の検使が戻ったと言う知らせを聞いて、直ちに上條徳右衛門が西役所の一番奥の奉行の居間に案内した。ここは客を迎える書院や業務を指揮する対面所と違って、図書頭のプライベートな部屋で、近習以外は立ち寄ることを憚る場所である。無様な失態を仕出かした検使二人を短気な図書頭が叱り飛ばすことを予期して他聞を憚ったのである。
奉行松平図書頭が直々に聞き質したところ菅谷保次郎は大息を吐き歯の根も合わない状態であった(「通航一覧」404P)。この検使二人がオランダ人を奪われてからの行動は前章(36章)に書いたが、ここでもう一度おさらいしておく。二人は槍(槍持ちが付き従っている)もその他の従者も捨て(従者たちが乗る船をそのままに)、現場に一番近い西泊の警備所に自分たちの船だけで乗り付けて非常警備につけと言い捨て、長崎港の表玄関である大波止に乗り付けると従者も槍持ちも配下の船も見捨てた二人きりのみっともなさが人目につくので、江戸町(出島を挟んで大波止の反対側)からこっそり上陸したのである。恥ずべき行動だったことを自覚していることがこのエピソードでわかる。
凛々しい鎧姿の図書頭の面前で、二人が蒼白の面持ちで説明するには「異国船の連中がバッテイラ(小舟)に乗り移って接近して来て、なんと(バッテイラの)船底から15人ほどが短銃や白刃を振るってオランダ人の乗船に飛び込み、二人を捕らえてあっという間に本船(異国船)に引き取りました。彼らはそれぞれ猛虎のような獅子奮迅の働きで威風堂々付け入る隙もないように見えました。跡を追い刀を振るって戦うべきところ、そうするには鎮台(奉行所)のお考えもあるでしょうし、かえってご迷惑になるかもとも思いひとまず帰って報告すべしと判断いたしました(原文:其人物各如猛虎勃握自在之働、威風可近附様も無之相見候へとも、跡を附入刃傷にも及へき慮、夫に而者鎮臺御心配も多く、却而亂雑致すべくやと、一先此段申上候)」。これを聞いた奉行松平図書頭はみるみる憤怒の表情に変わった。二人が案内された奉行居間とは、奉行所の公式応接間である書院の西側の部屋で奉行はここで寝食をとる。それだけに近習を除き誰も立ち入る機会の無い、奉行所の最奥に位置する。そこへ案内したという事は、図書頭は二人を厳しく叱責する構えであったことがわかる。だがその弁明は図書頭の倫理観の許容度を著しく超えた情けなさであったのだ。これで図書頭は激昂したのである。図書頭は二人を声高に罵倒した。
「その方どもよく聞け。小禄(幕府御家人の与力(手附)は通常俸禄は百俵。長崎勤務には手当金年70両が加わる)と言えどもそれを賜っている以上公禄(幕府にお仕えする身分)である。西国諸藩がこのていたらくを見るとこれほどの恥があろうか。季節外れの阿蘭陀船の渡来だから異国船の可能性もありくれぐれも油断するなと出掛けに注意した。阿蘭陀人は当地に滞在する以上は日本人も同じ安安と奪われたことの情けなさよ。今朝も言い聞かせたように紅毛(オランダ人)はお預かりしている大切な人々であると思い、不用意に先に出してはならぬと指示したではないか。それなのに異国船にが入港する際の身元証明書確認の返事も尋ねずとは手抜かりも甚だしいが、そのうえ刃傷に及べばかえって事態が面倒なことになるかもなど、なんと言う恥知らずな言い訳か。とても我慢ならぬ、刃傷に及んだ結果と無事に紅毛を取り戻すこと、どちらが大事かわからんのか。即刻立ち戻り(紅毛を)取り返すべし、心配労苦もあろうがこの非常事態なので平穏時のように見逃す訳にはいかぬ。潔ぎよく打ち向かい死力を尽くして取り戻すべし、諸々の準備は(上條)徳右衛門に申し付けるからよく心得よ」と厳しく命じた(「通航一覧」404P)。重大ミスを犯したとはいえ、菅谷と上川は長崎奉行所幹部である。他の地役人や町方の前でこれだけ厳しく叱責する訳にはいかず、居間を選んだことになるが、それにしても激しい言葉であった。二人の検使は身の置き所がないほど恥入ったと思われる。だがそれにしても「命懸けで取り戻して来い」と言われても、二人に練達の武芸の嗜みがあったとも思えず、ただただ茫然としていたのではなかろうか。酷な言い方になるが、腰抜け侍であることは既に露呈し切った二人であったのだ。
徳右衛門に奉行が言う 二人が悄然と居間を出ると、図書頭は上條徳右衛門にこう指示した。「非常時の心構えをしておくことは言うに及ばず、各人が担当する任務においてしっかり適切な処置を取るようにこころがけよ」と命じた。図書頭は奉行所手勢の貧弱さを思い知ったに違いない。先程勢揃いした3組(町使散使唐人番)の面々に「手柄を立てよ」と奮起を求めたが、彼らは所詮は地役人でいざ戦闘となった際に当てに出来るとは思えない。武人(旗本)としての松平図書頭にはやはり西国雄藩の戦力がどうしても必要だった。
両家聞役 三度、佐賀藩と福岡藩の聞役を呼び出し、「非常事態で錯綜しているので連絡係を務める者を陣屋に待機させよ、急用を伝えさせよ」と命じた。この文章で注目されるのは「陣屋」という言葉が使われたことだ。最初にこの単語が登場したのは[砲の配備を進める]項で御武器蔵預かりの三浦等に「旗や幔幕鎧鎖帷子旗竿など取り揃え 御陣屋へ差し出すように申し渡した」という一節である。これは西役所を「陣屋」すなわち要塞化して前進基地として用いる、ということだろう。砲術家の町年寄薬師寺九左衛門に出動を命じた直後に奉行所機能は丸ごと西役所に移動したと見て良いだろう。
各町の乙名蘭唐通詞宿老、帯刀願い 惣町77の乙名(町の代表/責任者/仕切り役)オランダ通詞と唐通詞、宿老(商人の監督者)が非常時につき「帯刀許可」を願い出た。上條徳右衛門はこれを受け、「貸し刀という心構えでこの非常事態に限り許可する、皆手柄を立てよ」と命じ、またそのことを奉行所内に待機している町年寄後藤惣太郎にも命じた。これにより年寄達の配下の者どもも帯刀願いが出たので徳右衛門が了承した。このことからわかるのは、長崎町方には苗字帯刀を許された町方は多い(町年寄、町使など)が、日頃の帯刀は厳格に管理されていた事が分かる。普段帯刀許可の無い者が奉行所の刀を借りて武装したことが「貸刀」であったのだろうか。
さて、ここまでは7月に奉行松平図書頭が策定した、魯寇を想定しての非常時体制に基づき、長崎の街は奉行の指揮下で機敏に動き始めたことが見てとれた。長い記述ではあったが、吉岡重左衛門の第一報が届いてから町方一同を含む非常態勢が敷かれるまで1時間ほどだったろうか。その間には奉行所機能は立山役所から西役所に移動までしている。合戦(かっせん)のような喧騒が続いたが、ある程度シナリオ通りの展開であった。だがそれは、思いもかけぬ形で齟齬を来たし始める。