福岡藩佐賀藩に課せられた長崎港警備のための戸町西泊の両番所(沖両番所(おきのりょうばんしょ)とも呼ばれた。沖とはいえ港口に近い港内である)には、「減番」と言う仕組みがあった。 この仕組みは松平康英の命運にとって極めて重大な意味を持ったので、章を設けてここで取り上げておきたい。というのもフェートン号の襲撃に始まる長崎の大混乱をこれから先の章で取り上げるが、この番所警備の実態が決定的な鍵を握ったのである。しかもそこには複数の要因が絡み合っていた。それが松平図書頭を悲劇に導くのだ。そこを分析していこう。
千人番所と呼ばれた戸町西泊の2つの番所を1年交代で勤番する福岡藩と佐賀藩の負担が極めて大きかったのは想像に難くない。このため幕府は両藩に江戸参勤を百日に減免する処置をとった。このため両藩は百日大名と呼ばれたそうである(「 長崎大名」外山幹夫)。ちなみに江戸幕府は千人と言う単位が好みだったようで、江戸の街にとって中山道の守りとして重要な八王子に配置されたのは千人同心である。ところでローマ帝国の好んだ単位は百で、「百人隊」が軍の基本単位であり、これをセンチュリオンと呼んだ。英国の戦車センチュリオンはこれからの命名である。世紀をセンチュリーと呼ぶのは百年単位であるからだ。
千人番所と言っても厳密に千人が駐在していたかどうかは、 極めて怪しい。1647年に長崎港口を封鎖してポルトガル船を閉じ込めた時には幕府は5万人の軍勢を動員した。戦国の気風が残り幕府の統治も 容赦なく厳しいこの頃は福岡藩佐賀藩とも二つの番所に千人近い軍勢を駐屯させていただろう。だがそれから太平の2百年近くが続き、風紀も緩んだ文化年間に実際はどのくらいの人数を駐屯させていたか?それについては明解な資料はない。また福岡藩佐賀藩ともその実数を長崎奉行に報告してはいなかったようだ。
と言うのも、フェートン号が 日本側から何の攻撃も受けないまま長崎港を発ち松平図書頭 その責任を負って自害した後に急ぎ長崎に到着した次期長崎奉行曲淵甲斐守の調べに対して佐賀藩が提出した文書の中に、当時両番所にいた人数(減番中)と平時の人数が報告されているからだ(大井昇 「 フェートン事件前後の長崎警備についての新見解」)。それによると『両御番所合人数 172人、 船頭役者船子人数 234人、 船数 12艘』とある。通常警備時は『両番所には人数・船とも同等に配置され、 両番所合人数 278人、 船頭役者船子人数540 人、 船数 24艘』であったという(大井昇/同上)。これは実は疑わしい数字である。フェートン号が旗合わせ(オランダ船がバタビア発の貿易船かどうかの確認する作業)に来たオランダ人二人を拉致し、激昂した松平図書頭がすぐに検使(役所からの公式使者)を派遣して出動を命じた時に両番所は事実上もぬけの殻であり、オランダ商館長のドゥーフが『両御番所にはせいぜい20人か25人足らずの兵士しか配置されておらず長崎においては武装できる下剣使(同心クラス、足軽)の数はほとんど150名を超えない』(「長崎オランダ商館日記4・198p」)と記しているからだ。この時ドゥーフは西役所に避難しており、奉行の元へ両番所に派遣された検使たちがもたらす報告を大通詞から直接聞いているので、残されている記録の中では最も正確であろうと思われる。これが実態だった。また「通航一覧」に収録された当時長崎から発信された或る書状によると「武士十人足軽二十人餘」とある。この書状は通詞もしくは長崎駐在の某藩機器や国より発信された可能性が高いので、信頼するに足る数字であると思われ、ドゥーフの聞いた人数とほぼ一致する。つまり両番所は事実上空っぽだったのだ。しかも、佐賀藩の報告には「通常警備時は278人、減番時172人」とあるが、この通常警備時の278人は幕府が定めた定数の千人の1/4強でしかない。ここまで人数を抑えたのには佐賀藩特有の事情があり、それは詳しく後述する。
一方、長崎奉行所は普段からその人数を確認していたのか?『「崎陽群談」には、両番所は奉行、目付交代の砌(みぎ)り、奉行・目付同道で巡視するものと定められている』(大井昇「長崎絵図帖の世界」119p)と言うが、松平図書頭はその遺書で自分の手抜かりとして番所の人数を確認していなかったことを挙げているから、これも形骸化していたのだろうか?いやもし巡視は行っても佐賀藩が巧妙に人数把握を避けたのかも知れない。両番所警護のお役目は両藩が幕府から直接命じられたのであり、非常時を除けば長崎奉行の管理下にないため、長崎奉行は口を挟みにくい事情であったとも勘案されるのである。
ではその佐賀藩の事情を解明してみよう。この時の藩主は鍋島斉直である。三年前の1805年文化2年、佐賀藩の9代藩主となった。25歳であった。この時に佐賀藩には1万5千貫の借金があったという(Wiki)。銀1貫が約17両として25万両の借金であり、財政破綻に近かった。鍋島斉直は徹底的な経費削減に走り、その槍玉に上がったのが負担の大きい長崎警備であった。大井昇によれば、佐賀班の警備費用は5千両を遥かに上回っていたと思われる。警備の人数を長崎に出すと言うことは、往復の道中、滞在中の食費、さまざまな経費が考えられる。だが『鍋釜はおろか米や味噌まで持参する不自由な長期出張』(「白帆注進」9p)だったと言うから、派遣される武士たちにとっては出張手当(加役)もなく自己負担の大きい迷惑な業務であったろう。これほどケチケチしながらなお5千両の経費であるから、さらに秘かに派遣人数も削れるだけ削っていたに違いない。その上、鍋島斉直はこの警備のお役目を熊本藩に引き継いでもらおうと言う画策も秘かに行っていたのだ(鍋島斉直Wiki)。恐らく年貢の取り立ては厳しく、領民の苦しみは半端ではなかったと思われる。
ここまでのことをしながら鍋島斉直自身の日常はどうであったか?
吉田幸男「佐賀藩の科学技術 2」によると、『文化、文政期は江戸文化の最後の爛熟期と呼ばれているが佐賀藩にとっては大変な時代の幕開けにもなった。文化二年(1805)、斉直は前藩主治茂の忌中にもかかわらず佐賀藩主に就任した。藩財政は悪化の一途をたどっており新藩主斉直には財政の健全化が期待されていた。この為異例の忌中の新藩主就任となったにもかかわらず就任すると藩をかえりみることなく放蕩を繰り返し加えて藩の実権までとりこもうと画策し始めた』と言う。彼は将軍家斉と嶋津重豪(薩摩藩主。ヘンミイ、スチュワートと抜荷を画策した。16章、17章で取り上げている)と華奢を競い『斉直は参勤交代の途中、江の島にて鯛網を見学し大漁に感激、網に入った鯛を全て買い入れ家来に配った。家来達は頂戴したものの行列途中の生鯛はどうしょうもなくすべて捨てざるを得なかった。花火が好きで一人で花火大会を催し江戸両国橋で打ち上げ見物人は川開き以上の人が集まりあまりにも花火を買いすぎその日に終わらなかった。斉直は着物にもうるさく絹以外は袖を通さず一度袖を通した着物は二度と着ないならともかく絹の着物以外を着た者と面会もしないなど金銭感覚はまるでなかった。斉直は多芸で謡曲、猿楽、茶の湯その他、多くの趣味がありその教授料だけでも膨大な費用をかけていた』とも言う。江戸で生まれ江戸の藩邸で女中たちに囲まれて育つと、このような愚昧な君主になるのだろうか。領民の苦塗炭の苦しみを理解できず、我の欲望に任せた濫費は死ぬまで続いた。また側女の寵愛も度を過ぎており、女色に耽った挙句、25人余りの側女を江戸の藩邸から佐賀に送ったこともある。斉直の際限のない放蕩で江戸藩邸の金庫は空になっており、用済みになった側女たちの世話を国元へ押しつけたのだろう。藩の重臣たちは危機感から斉直藩主就任後3年目の1805年文化5年には早くも『、請役の武雄鍋島家鍋島茂順、前請役、諫早茂図等藩政の中枢の四名は連署で藩主斉直に上申書を差し出した。「御身辺被召仕候者」本来藩主の身辺世話役にすぎない者(斉直が寵愛した側女の縁者らしい)を藩主が不当に重用しその人物は「御国政の大旨」を心得ていないと諌言し藩主の身辺の世話係にすぎなく藩の政治に無知なものを重用していると抗議している』(吉田幸男、同上)が効果はなかったようだ。
佐賀藩を代表する学者として古賀穀堂が知られる。彼は昌平黌の学官であった父精理に学んだ俊才で、1806年文化3年(鍋島斉直が藩主になった翌年)藩校弘道館の教授に就任した人である(古賀穀堂Wiki)。斉直より2歳年上だが、ほぼ同年代である。彼の鍋島斉直評が佐賀鍋島公爵家の文書に残っている(長崎高商教授の武藤長蔵博士が日英交通資料としてまとめたうちのNo8)。
「日英交通資料8」に収録された彼の日記(旧暦8月15日)によれば(428p)「本藩奢淫無度女寵妄」原文が漢文なのでそのまま引用したが、女色に耽るのが度を過ぎて際限無く、と言うような意味だろう。そのため「絶無金穀武備荒廃」つまり財源も尽き蔵には米は無く武備荒廃している、と言うのだ。佐賀藩はこの窮状のため、普段から長崎警護の人数を大幅に割き、支藩である深堀藩(長崎の南、野母半島を領地とする小藩)に警護の役目を丸投げした状態であった。古賀穀堂は長崎に異国船が来襲したとの急報が届いた時、長崎という重要拠点の防御に「(我が藩の)船の備えは足りず弱兵でその人数も少なく無統制の状態であった」と非難している。
松平図書頭の悲劇は、ここにもある。佐賀でなければ、福岡であったなら、と言う思いである。実は福岡藩も減番をしていた。小早関船(速度の速い=艪の漕ぎ手が多い)小型番船)の多くを引き揚げていた。だが異国船が急襲したのですぐに兵を出せ、との松平図書頭の要請に陸路海路で実に八千人の軍勢を送り出したのだ。緊急の部隊派遣は実にお手波鮮やかだったが、如何せん福岡は佐賀よりは遠い。長崎に大軍が到着したのはフェートン号が出帆した後だった。半日遅かった。これは小藩ではありながら機敏に出兵した大村藩も同様である。
佐賀藩も福岡藩も勝手に減番したわけではない。一応、長崎奉行にお伺いを立て、松平図書頭の承認を得ている。だが図書頭は、佐賀藩の減番の実態がこれほどとは露知らずにいた。彼の後悔は、その遺書に書き残されることになる。