若宮丸という千石船が1,300俵(80トン)の米と材木を積載して石巻から江戸へ向かって出港したのは寛政5年11月27日(1793年12月29日)のことであった。だが2日後福島県塩屋崎付近で暴風雨に合い遭難、舵が壊れ帆柱も切り捨てた若宮丸は実に5か月半も極寒の北太平洋を漂流してようやくアリューシャン列島の小さな島に流れ着いた。乗り組員は16人であった(以上は「石巻若宮丸漂流民物語」から)。この小さな島は太平洋戦争で有名なアッツ島やキスカ島よりさらに東にある。上陸後1人が亡くなり15人になった漂流民はロシア人に出逢う。ラッコ漁で得る毛皮の売り先に日本を考えていた彼らは、日本との通商交渉にこの漂流民が役に立つと考えてイルクーツクへ送り出す。ラックスマンが大黒屋光太夫等を連れて根室に現れて通商を求めて根室へ現れてから2年半後のことである。だがその道程も苦難の道で1年半後にイルクーツクに着くまでにもう一人が亡くなった。ここには大黒屋光太夫の乗組員2人が残っていて、彼等からロシア語を学んで善六がロシア語に堪能になったほか、善六等4人がロシア正教の洗礼を受ける。ということはキリスト教を禁ずる日本への帰国が不可能な道を選んだことになる。こうして希望のない日々が7年過ぎたあと、運命の変転が彼らを訪れる。首都ペテルブルグでクルーゼンシュテルンが企図した世界一周周航計画にレザノフが提案した日本での通商交渉を含めることが認められ、その航海に漂流民を連れて日本へ帰国させることになったのだ。こうして石巻を出港した若宮丸の人々はペテルブルグから世界を一周する航海に旅立つことになったのだ。彼等は最終的に長崎でレザノフから幕府へと引き渡されるのだが、彼等から詳細な旅行記を聞き取ったのが、石巻を領地とする仙台藩きっての知識人大槻玄沢である。それは「環海異聞」(文化4年1807年)という文書にまとめられたのだが、明治になって小原大衛という人が原文を近代日本語に変えて出版した。それが「寛政年間仙臺漂客世界周航實記」であるが、この書は何と国会図書館でデジタル文書化(PDF)されていて誰でも(登録は必要)ダウンロードして読めるのである。(因みに環海異聞16巻もデジタル化されている。)その序が非常に興味深い。「大槻磐渓(大槻玄沢の子)がロシアと交盟すべきと幕府に上陳したのは嘉永元年(1848年)であるが、当時の日本人は海外事情に甚だ暗く(外国人は)夷てき(野蛮人)禽獣(とりやけだもの)と考えていたから、この本が出ると世の攻撃を受け罵詈雑言、極めて醜悪であったが今や(明治27年1894年)局面はすっかり変わり子供でさえ会議の事情に通じているがその変わりようはせいぜい40年の間のことである」と述べているが、これはまさしく23章の⑦日本人の熱狂 で指摘したように攘夷論が実態を知らない「観念の憎しみ」であったことを明治の人が認めているのである。
それはともかくこの「世界周航実記」により、我々は若宮丸の漂流民の出港から日本帰還までを詳しく知ることができる優れたドキュメントなのだが、ここで取り上げたいのはイルクーツクにいる彼等がペテルブルグに出頭するようにと命じられ、ロシア皇帝に拝謁するまでを取り上げることにする。
イルクーツクに滞在すること8年、帰国の希望を持ちえなかった彼らのもとに皇帝の使者(原文は飛脚役人)が訪れる。帝都に出頭せよ、というのだ。地元の役人が彼等に羅紗の上着ズボンなどを調達してお仕着せとし、使いと共に旅立つ。イルクーツクとサンクトペテルブルグの距離はGoogle Earthで約4,500km。これは直線距離だから皇帝の使者は5,000キロを軽く超える工程を遥々やって来て、同じ行程を潮流民たちを連れて戻ることになる。使者は双鷲がデザインされた革のマークを襟に付けて、皇帝の公用であることを表示していたようだ。これまでの旅程、そして漂流民を連れてのこれからの行程の長さと困難を考えると独行して来た使者の覇気勇気を原著者は讃えているが、私はそれに加えて皇帝の威令が全土に行き渡っていることに注目したい。アリューシャン列島の小島でさえ日本との通商を政府が進めたがっていることが知れ渡っており、それが漂流民をイルクーツクへの苦難の旅のきっかけとなった。そのイルクーツクに彼等が来たことを首都では把握して使者を送って来た。これを考えると、ヨーロッパからシベリア、カムチャツカ、アリューシャン列島、さらにアラスカと、レザノフが言う「世界の半分」を領有するロシア帝国は堅固な統治体制を完成させていたことになる。これから漂流民たちが使者と共に難儀な旅ではあったが賊に襲われるようなことは無く無事長駆旅を終え首都サンクトペテルブルグに着いて、そこで受けた厚遇を考えると、「北方の熊」とか共産主義者が喧伝した「腐敗した帝国」というのは歴史の嘘ではなかったろうか、とここでも思うのである。
先を急ごう。13人の漂流民と大黒屋光太夫等の仲間でイルクーツクに残っていた2人計15がイルクーツクを旅立った。その時、その中の4人が世界を一周する最初の日本人になるなど誰が想像できただろう。彼等は馬車に分散乗車したが駅逓で馬車を乗り換える度、使者の皇帝の公用証を見て各地の役人は大いに恐れ戦いたというから皇帝の威令は全土に行き渡っていたと見るのは間違いのないところである。白夜のシベリアを行きながら3人が病死するなど苦難を重ね、49日を経てついにサンクトペテルブルグへ到着する。注目すべきは最後の旅程700里は敷石を敷き詰めて平坦でまっすぐな道であったことで、ロシアの国力が想像できることである。首都に着いた彼等は6人の国老(元老院?セナートル)の一人である外務大臣の館に収容される。館に着くまで銃を持った番兵の門が三重にある広大な敷地で、館では3階に案内され200畳以上の広さの部屋で従者5人を従えた外務大臣と面会する。彼は漂流民たちに「このままロシアに留まりたいか?それとも日本へ帰りたいか?それは望み次第である」と聞き、何事も心配に及ばず安心していなさい、と語りかけた。漂流民たちは感動して、その奥ゆかしさ、気高さに打たれてさすが大国の大臣と、ただただ恐れ入るのだった。彼等を無事連れて来た使者は褒美として金を賜った。
皇帝に謁見するまではこの貴顕の高官の館で暮らすのだが、毎日の食事はコース料理で、ここで漂流後初めて米の飯を食べる機会に恵まれる。もちろんロシア側の配慮であろう。さらに1日に2回はビールやワイン付きの食事だった。鶏豚牛魚介、山海の珍味が毎食溢れ、脇にはいつも給仕と調理人が待機し、これは日本の王公貴人よりも恵まれた生活ではなかろうかと感動している。この館には700人もの従者が働いているとのことだった。外出時にあてがわれたのは6頭立ての馬車で前後に2人ずつが供として付添う。ロシア皇帝に謁見する準備のために彼等が連れていかれたのは、外交事務全般を司る大きな役所で諸外国との交渉のため70か国の通詞がいると聞かされる。ここにどの国の衣服も作成できる仕立部門があり、ここで彼らは何と立派な和服を仕立ててもらうのである。それは「島襦子着物、袷羽織、帯の三品」(世界周航実記104p)で彼等は日本帰国に際して持ち帰り、幕府の検使に提出している。彼等漂流民の観察眼は細部に実に正確で、馬車には鉄製の延べ板がサスペンションとして使用され道路の凹凸にも乗り心地が損なわれないことも述べている。豪勢な館に逗留すること2週間目にしてロシア皇帝謁見の日が来た。宮廷は広く高く橋を渡ったり幾つもの大広間が続く回廊を経巡って謁見の間に辿り着く。そこは恐らく豪華な舞踏室と思われる巨大なホールで、他に誰の姿も無く、付き添いと共に皇帝を待つのである。事前にこの国に留まるも日本への帰国を希望するも自由に述べよ、との指示を受けいよいよ拝謁となる。彼等を預かっている高官の案内で皇帝母后皇后弟君が姿を現すが、その威儀に打たれて漂流民たちは平伏するが、それを傍らに控える役人が「この国では立ってご挨拶するのが礼儀であるから、平伏してはいけない」と言われ恐れ多くも「立ち上がり少し頭を下げ居たれば」皇帝が「本国へ帰りたいか」と声をかける。すると帰国希望者6人のうち2人がこの国に残りますと翻意してしまうのだ。残る4人が「10年も異国にいて望むことは日本に帰ることだけでした」と帰国の意思を述べると、藍ビロウドの羅紗の高貴な装いの皇帝は日本帰国を表明した4人の肩に手をかけ、「その気持ちは当然であろう」との言葉を賜るのである。2人が皇帝に拝謁してなぜ心変わりしたかは実記には記述が無い。この時点では彼等はレザノフ率いる周航計画を理解していなかった可能性がある。日本帰国の具体案が無い時点で、彼等の体験は当時の日本人としては途方もないことであった。シベリア横断で目の当たりにした大国ロシアのスケールの大きさ、高官の館での厚遇、そして皇帝に拝謁する時に平伏するな立ったままご挨拶するのがこの国の礼儀だと言われれば、感動と動揺が激しく、思わず「ロシアに留まります」と言わせたのではないか、と思えるのである。ロシア皇帝はこれから珍しい催しがあるからそれを見学するように、と言い拝謁は終わる。宮廷を辞した彼らは大河ネバ川に浮かぶ島へ案内されると、夥しい数の群衆が蝟集していた。そこへやがて皇帝の一行も姿を現す。それは巨大な熱気球の飛翔実験であった。熱気球には乗員を積載した大きな籠が下がっており、やがて空高く舞い上がると何れもともなく飛び去って行った。漂流民たちはさぞかし驚いたことだろう。この熱気球の小型のものをレザノフに随行したラングスドルフが長崎へ持ち込み、3度ほど飛翔させて役人たちを夢中にした。翌日も漂流民はこの島に案内されるが、そこは博覧会の会場だったようで様々な珍奇なものを見物している。またある日は皇帝の植物園を兼ねる御涼み所へと案内されたり、ロシアバレーや演劇を観劇するなど、ロシア側の厚遇が続いている。やがてレザノフに引き合わされ、6月17日、帰国希望の4人に通訳役の善六の計5人はクロんシュタット港からナデジュダ号で世界周航及び日本を目指して出航する。出発に際し、皇帝より金銀20枚と懐中時計をそれぞれが賜っている。これには一同大いに驚き感謝したことであろう。ナデジュダ号に乗り込んだのは、津太夫(61歳)、左平(42歳)、儀兵衛(43歳)、太十郎(34歳)と、通訳者としての善六、計5名である。前にも書いたが語学の天才レザノフは航海の間善六から日本語を学び続けるのである。ナデジュダ号は英仏海峡からスペイン沖そしてアフリカ沿岸を経て赤道を越え、南米へと南下し、ホーン岬では暴風に難破しそうになりながらなんとか太平洋へ出て北上、マルケサス諸島では全身刺青をした身長2メートルの島人たちに驚いたりしながらハワイを経由してカムチャツカのペトロパブロフスクに至る。ここは漂流民4人がアリューシャン列島の小島からイルクーツクに行く際に立ち寄った場所であるから、彼等にとっては世界一周となる。ここで善六は下船する。彼はロシア正教の洗礼を受けているため、キリスト教を禁教とする日本への同行には都合が悪いのである。この一事を見てもロシア側は周到にこの日本寄港に備えていたことがわかる。それから日本沿岸を航行し、薩摩沖でも遭難しそうになりながらなんとか九州南端をクリアして長崎へ現れたのである。その後のレザノフ一行に起こったことは前の章でみたとおりだ。
レザノフによると漂流民たちは長崎について以来、一言も発しなくなった。日本の港へ着いて懐かしさより先に、異国へ渡って異国の生活を経験した人間への幕府の仕打ちを思い出して恐怖に捕らわれたのだ。外界に固く扉を閉ざした母国では、自分たちは許されざる存在であることを認識して「我に返った」というべきでもあろう。それを裏付ける出来事が長崎到着直前に起こっていた。朝、長崎沖で9人が乗り組んでいる小舟を発見して漂流民たちを使って話しかけたのだ。びっくりしたが興味をそそられて彼等は招きに応じてナデジュダ号に乗船している。長崎港へ入港するのは(周りには島が多い)難しいと彼らが言うのでパイロット(水先案内)を頼むと、顔色を変えて断った。(外国船に無断で乗り込むことは)法律で禁止されているし、命にも関わる、というのだ。このやり取りで、漂流民たちはようやく自分の立場を自覚したのであろうと思える。彼等が石巻を出港してから11年、苦しいシベリアの旅、ロシア皇帝が肩に手をかけて言葉をかけてくれたこと、さらに続いた大西洋、太平洋の冒険ともいえる旅。それを支えたのは故国への思いであったが、そこに到着して初めて自分たちが死罪にもなりかねない罪を犯した立場であることを夢から覚めたように認識したのである。
レザノフ来航の翌日、長崎奉行成瀬因幡守の名代(徳川幕府を代表して駐在する長崎奉行が異国からの来航船に出向くことなどあり得ない)として訪れた家老(奉行所No2)は漂流民と引き合わされると、好意的な感じでいろいろと質問をしたようであるが、これは役職上鷹揚にふるまったと思える。実際、その翌日詳細の調査に来た手付の行方覚左衛門は漂流民たちが一言も発しないとレザノフから聞くと彼等との面会を求め、彼等に説教を始める。大変なお世話になっていながら感謝をすべきところを言葉も発しないようではロシアに対して失礼だし、日本人は恩知らずと思われて幕府を侮辱することになる、ロシア大使に不満を持たせただけでも厳しく処罰されるぞ、というような説教である。長いさすらいの旅を経て帰国した人間へのいたわりが初めにあってしかるべきだと思うが、民を下に見る幕吏にはそんな思いやりよりも管理統制が先であり、くどくどとした説教に加え厳罰までほのめかしたのである。これは漂流民たちをさらに萎縮させたようだ。その年の暮れ(文化元年12月17日/西暦1805年1月17日)漂流民の一人太十郎が喉に剃刀を突っ込み自殺を図ったのだ。その動機をレザノフは「ラクスマンによって日本に送還された大黒屋光太夫と磯吉の二人は牢獄にいると聞いてノイローゼになったから」と書いている。漂流民たちは親戚に会えるどころか同じような運命が待っていることを知ってロシアを捨てたことを後悔しているというのだ(「レザノフ日本滞在日記」195p)。世界周航実記では、太十郎は元々陰気偏屈の性があると書かれているが、将来を絶望した挙句のことには間違いない。彼は懸命の手当て(長崎の医師吉雄幸載の外科医としての処置にロシア人の医師が感嘆したと世界周航実記で語られている) で一命をとりとめたがほとんど人と口をきかなかったそうだ。彼等の悲劇はこれだけで終わらない。最終的にようやく漂流民たちが日本側に引き渡されレザノフ一行が長崎を離れた後、彼等を待っていたのはまたまた苦難の道であった。7か月も長崎で取り調べが行われ、その間踏み絵(ロシア正教の洗礼を受けた善六をペトロパブロフスクで下船させたレザノフの判断は正しかったと言えよう)、白州での取り調べ、揚屋(特別な牢)入り、持ち帰り品改め、箝口令が行われたという。持ち帰った書物、地図、金銀銅は没収されたが外国銭は同価値の銀にして返却されたという。その年の暮れ、江戸の仙台藩上屋敷で藩主の伊達周宗の引見を受け、その後2か月間大槻玄沢等の審問を受け(その内容は「環海異聞」としてまとめられる)、4人が故郷へ帰ったのは文化3年の春、長崎来航後1年半後のことである。その年のうちに自殺を図った太十郎と儀兵衛は亡くなっている(若宮丸Wikiによる)。なんとも辛い話である。太平洋戦争時の捕虜になった日本兵と同じ扱いが既に江戸期にあったことになる。鎖国という政策がいかに当時の日本人を冷酷に扱ったかがわかるし、徳川幕府の法治に酸いも甘いもあった(犯科帳などの判例)と主張する私としては、索漠とした思いを禁じ得ない。