我々は「15 スチュワートの登場」で、1800年秋、スチュワートがハチング船長のオランダ商船に乗せられ長崎を出航させられたこと、その後スチュワートはマニラに寄港し彼のネットワークの広さを我々に示したこと、その後バタビアではオランダ総督府の監視下に置かれたが1802年に彼が秘匿した銀の利益の確保を目指していずこかへ脱走(恐らくベンガル=インド)したところまで見届けた。
ここではその後の長崎を見てみよう。少し前の1795年(寛政7年)と翌1796年の2年に渡って長崎は空前の水害(寛政大水害)に見舞われた。その後これほどの規模の水害は1982年の長崎大水害まで無い。市中の石橋群が崩落し、または破損して大きな被害が出たのだが、1800年頃から多くの石橋の再架が完成し、中島川沿いの街並み元の佇まいを取り戻していった。奉行所は罹災町民に銭や銀を支給している。元々税金に相当するものがないどころか毎年かまど銭という給付金を配っているのだが、これは長崎会所でのオランダと中国との貿易で上がった利益の上納金を奉行所が市民に還元しているもので、長崎は当時特異な福祉都市であった。この水害の際の給付もその一つの例である。
1801年には長崎名物のペーロン競争で本五島町と深堀の間で喧嘩騒ぎが勃発、奉行所がペーロン競争(銅鑼や鐘を鳴らしながら行う、中国渡来の競艘レース)を一時禁止することとなった。
深堀は長崎市街の南隣で野母半島にあるが、肥前佐賀藩領である。そのためか双方に微妙な対抗意識があり、1701年(元禄13年)、有名な深堀事件が起こった。長崎町年寄高木家家人と深堀在住の佐賀藩士の間の騒動で、佐賀藩士が雪の夜高木家に討ち入り、当主の高木彦衛門を討ち取った。元禄13年と言えば思い起こすのは「時は元禄14年」の赤穂浪士の吉良家討ち入りであるが、赤穂浪士側はこの深堀事件の討ち入りの顛末を研究したと言われている。この佐賀藩との微妙な感情のもつれはフェートン号で再び露わになることになる。
長崎の通詞と言えば、「16 島津重豪の抜け荷」で見たように利にさとく巨大な富を蓄え、後に触れるように外交や世界情勢については「事なかれ主義、日和見」に終始したが、一方で蘭学においては日本中の蘭学者(当時もっとも科学的と言われ、それを自認した人々)が長崎を聖地として長崎での学習を目指す中で、その頂点に立った通詞もいた。代表的な例がこの時期に「暦象新書」を刊行した志筑忠雄である。これは引力を発見したアイザック・ニュートンの高弟ジョン・ケイルの天文書の蘭語本を翻訳したもので地動説や引力を紹介しているが翻訳のみならず彼の自説の展開が極めて高度な知識と理解を示していると言われている。もう一つの彼の功績はケンペルの「日本見聞記」(1691年(元禄4年)から2年間日本滞在。「17 近藤重蔵の探索」で大通詞の収入を年三千両という彼の説を紹介)を翻訳し、その中で日本の外国との閉鎖状態を『鎖国』と訳した人物でもある。これが『鎖国』という言葉の誕生と言われている。このように通詞たちの中には一流の学者とも言えるレベルまでに科学や語学の研究の最高峰を成し遂げた人たちがいたことも忘れてはならないことである。この時期の日本人の知識欲、先端科学の貪婪な吸収力は凄まじく、これらの人々を頂点にしてほぼ日本中に散在した蘭学者(例えば映画『たそがれ清兵衛』のロケ地ともなった秋田・角館の武家屋敷は蘭学医の家屋が多い)や知識人、商人という広大な裾野が、維新の後の日本の急速な西洋化を支える土台となったと言えるだろう。
またこの時期は伊能忠敬が測量隊を率いて日本全国の精密な地図作成を始めたこととも重なる。1800年に奥州街道と蝦夷地の測量を開始した伊能忠敬は、ドゥーフが商館長としてまだ長崎にいる1812年に長崎一帯を測量することになる。
これらのことは、日本という国は外国との接触を禁止していたが、科学や地理についての日本人の進歩は決して西欧に負けてはおらず、来るべき開国の時期への熱量高いマグマは十分に地下で蓄えられていたことを物語ると言える。
1801年、オランダ船がドゥーフの荷倉役昇格の辞令をもたらした。これでドゥーフは書記からオランダ商館のナンバー2に昇進したことになる。この利発で沈着な青年は上司のワルデナールを尊敬し、彼からすべてを学ぶのだが、ワルデナールもまたドゥーフを信頼し、彼の後任として務まるようにしっかりと育成していったと言える。
ヘンミイ既に亡く、商館長としての資格も能力も欠けるレオポルド・ラスが代理商館長を務めていた結果、きちんとした経理記録もなく杜撰な運営により慢性的な赤字が蓄積するなど秩序も風紀も紊乱していたオランダ商館の立て直しに、ワルデナールとドゥーフが力を合わせた。ドゥーフ自伝(英語版)37pには「私は当時ワルデナール氏を一点の疑いもなく尊敬し、また氏も私に全てのことを相談してことを進め、紊乱した会計を正常に戻し、売買された商品価格を正確に記録し、密封した報告書をバタビアへ送った」とある。ワルデナールは肥満体で喘息があった(ドゥーフ自伝194p注50)。健康に自信がない彼は辞任の意思とともに後任にドゥーフを推薦する文書もバタビアへおくっている(ドゥーフ自伝44p)。それがまさか将来、この二人が思いもかけぬ形で相まみえることになるとは、神も気がつかなかったろう。
出島大火から3年、商館長の館はまだ完成しておらず仮設の建物が並ぶ出島ではあったが、穏やかな日々が回復されたことであったろう。そんな日々にさざ波が立った。1801年10月、長崎西方の五島列島に嵐で遭難し船長を失った異国船が漂着し、取り調べのため長崎奉行の命で長崎へ曳航されてきた。その取り調べの通訳をワルデナールが奉行名で命じられたのだ。異国人7名と中国人2名であったが、ワルデナールが生存者たちに聞くと、死亡した船長はその名前からポルトガル人であることが分かった。マカオ仕立てのポルトガル船だったのだ。だが通詞たちにワルデナールは「彼等はマカッサル(ジャワ島の北にあるスラウェシ島の港町。香辛料輸出の基地)からボルネオへ行く筈だった」と口裏を合わせることを強制される。マカオやルソン(フィリピン)はポルトガル領であり、そこから来たというだけで死罪になるからだ。これを避けるための通詞たちの知恵であり、世渡りであった。真実を言えば、生存者たちは死刑になる。それほどゴンゲンサマ(ドゥーフ自伝で家康のこと)の祖法は厳しく、例外や目こぼしはこの事に関してはあり得ない。だから漂流民たちの人種や出航地や目的地を偽ることは人道的な行為とも言えよう。だが真実が明らかになればいろんな面倒が起きることを避ける事なかれ主義でもあった。かくて日本に漂着する船は一切マカオやルソンとは関りが無いことになる。これに異議を唱えたのが林述斎であり大槻玄沢であった。松本英治「大槻玄沢『嘆詠餘話』と五島漂着船事件」によれば林述斎は、「ロシアやその属国が日本の国情を探りに来航しても、本当の国籍が分からないまま対処することになるので、述斎は「御制禁之国」であっても薪水給与を求めるだけの寄航ならば許可し、来航船の国籍を偽ることがないようにすべきだと主張している。」とある。また大槻玄沢は「国籍や漂流先が偽られて報告されるのは幕府が世界地理や対外情勢を把握していないためであると指摘し、対応策として幕府の管轄下に蘭書の翻訳機関を設置することを提言」したとある。だが真実を隠したのは通詞たちだけではない。ワルデナールとドゥーフにも幕府の国際情勢の無知を利用したうえでの偽装があった。「9 陰謀渦巻く出島へ」で書いているが、家康から朱印を貰ったネーデルラント連邦共和国は既にナポレオンに占領されて存在していないという事実である。この事についても松本英治「大槻玄沢『寒燈推語』とナポレオン戦争」によれば大槻玄沢から見抜かれているのだが、そのことにはここでは触れない。幕府の国際情勢無知という環境下で、ワルデナールとドゥーフもまた真実と虚偽のはざまを危うく渡り続けるのある。
1803年、オランダ船(アメリカ傭船レベッカ。船籍はボルチモア。船長James Deale)が運んで来た辞令は、ワルデナールの願いが叶ってドゥーフの商館長昇格であった。ドゥーフは満25歳である。未確認ではあるが、恐らく史上最年少の商館長の誕生であったろう。だがその目出度い通知の僅か2日後、五島漂着船とは桁違いの驚天動地の異国船が長崎へやって来たのだ。
長崎奉行所は市街の南に延びる野母半島の先端と、長崎の西にある小瀬戸、それぞれの小高い山の頂上に遠見番所を置いて異国船の到来を見張る態勢をとっていた。地球は丸い。帆船が長崎に近づくとまず帆柱のてっぺんが針のように小さく見え始める。この僅かな予兆の発見の速さを両番所は競っていた(籏先好紀・江越弘人 共著『白帆注進』)。発見して間違いが無ければ、高い松の木に印を上げる。同時に早船で奉行所へ急を知らせるのである。Gourley教授のCamelとワルデナールの日記がこの事件を詳説しているので、それを追って行こう。
先ずはワルデナールの日記から見ていこう。
8月24日、異国船が出現した翌日、奉行の命によって商館長ワルデナール(商館長の交代辞令は届いても、前任者が日本を離れるまでドゥーフとワルデナールの二人の商館長という体制だったようだ)は、異国船の素性の確認のため赴くことになった。オランダ商船は先日到着したばかりだからだ。小舟にワルデナールとともに乗船したのは荷倉役(No3)のマック、商務員補のポヘット、二人の検使(奉行所上級職)、多くの下検使(奉行所役人)、一人のオランダ大通詞(恐らく年番)、二人の小通詞(大通詞に次ぐ通詞ヒエラルキー2階層目の上級通詞)という陣容である。小舟とワルデナールは言うが、和船の中では大型の立派な装いの奉行所公式船、番船である。出発してからワルデナールは、異国船からの奉行への贈り物と手紙、積載商品リストが既に奉行所に届いていると知らされる。異国船は伊王島のそばに停泊している。伊王島は長崎港外の横に長い島で、香焼島と並んで長崎港に蓋をしたように見えなくもない。今の長崎港周遊船に乗ると、約10キロの旅程を20分ほどで着く。大型番船は何人もの櫂の漕ぎ手が全力で漕いでも、数十分から1時間はかかったろうか。番船の姿を確認したのか、異国船が大砲を撃った。こういうディテールの描写が研究者には宝である。海上では大砲の発射がいろいろな交信の意味を持っていた。フリゲート艦が敵商船を発見して遠距離から発砲すれば、それは停戦命令となるであろう。入港する際の礼砲は、大砲を発射することによってもう弾は装填していない、敵意が無いことを示すことが始まりだったと言われる。この場合も敵意無し、welcomeの意思表示であったろうか。さらに近づくと3本マストの船体にはフナクイムシ除けの銅板が貼ってあり、長さ150フィート(45ⅿ)ほどであった。この物語の主役であるフェートン号は141フィートであるから、ほぼ同じ大きさの巨艦(当時の日本人の感覚)であった。3本マストがそれを裏付ける。銅板が貼ってあることからみて、陳腐な安い作りの船ではない。さらに不思議なことに船首には漢字で鮮やかに「長崎丸」と書いてあった。面妖なことである。唐船は異国船とみなされない。既に異国船として扱われているのだから、唐船ではないはずなのになぜ漢字で船の名前が書かれているのか。「長崎丸」という名前も異様である。
乗船したワルデナールは仰天した、出迎えたのはなんとあのスチュワートだったのだ!1800年(寛政12年)の数か月間、ワルデナールを悩ませ続けた疫病神が舞い戻って来たのだ!スチュワートは金モールで飾り立てられた青い羅紗地の立派な礼服を纏っていた。「船長は誰か?」とワルデナールが聞くと「私だ」との答えが返って来た。スチュワートの得意満面が想像できる。ワルデナールはそれがイギリス東インド会社の上級幹部の制服であると気が付いた。もう一人同じような青の羅紗服を着た人物を除けば10人ほどの西洋人は、普通の服装で、肌の黒い100人余りの乗組員はベンガル人(インド人)だろうとワルデナールは判断した。この時にワルデナールはスチュワートがイギリス人と心を固めてしまう。ベンガルから来た、イギリス(ワルデナールの母国オランダの敵国)の手先である、と。
ワルデナールはスチュワートに「オランダの貿易信任状を持っているのか?」と尋ねると、スチュワートは「そんなものはない。私は私自身の責任でやって来た」と答える。この言葉を聞くとワルデナールは検使たちに向き直って「お聞きになったように、この船は一切会社(オランダ東インド会社)とは関係が無く、会社が派遣した船でもありません。したがって私にはこの船のことは一切わかりません。同時に(唯一貿易が許されている会社の立場から)この船の入港に強く抗議するものであります」と宣言して、スチュワートとのそれ以上の会話を拒否してしまうのだ。良くも悪くもこれがワルデナールの真骨頂である。厳密と言えば聞こえはいいが、官吏的役人的であり、保身に非常に気を遣う。1800年にスチュワートがエンペラー号で来航した際、彼は自分に法的な権限が無いと嘆いたが(「15 スチュワートの登場」)、彼の頭の中の厳密な世界では「法的な不安定」と「常に通詞たちのスパイ網に取り囲まれて生活している不安」(出島のオランダ人に共通する世界観)が深く投影していると思われる。そもそもバタビア(ジャカルタ)に比べれば彼の持病の喘息には日本の風土の方がずっといい筈なのだ。バタビアは遠浅の潟の上に築かれた城郭都市であり、疫病が猖獗を極めて発病してから数日で死に至ることが頻繁にあった。これはマラリアであったろうが、当時はこの病気はバタビア特有の謎の風土病だと思われていた。それでもワルデナールは長崎着任後早くもドゥーフを後任者と見定め、バタビアに商館長交代を要請しているのだ。彼にとっては赤道直下の風土病が蔓延しているバタビアの方が心の安寧にはずっと良かったのだろう。このあたり、翌1804年にロシアの使節ナザレフが来航した際の、日露間の交渉に奔走したドゥーフとはだいぶ器量の差を感じる。この後のドゥーフの十年以上の苦労はワルデナールならとても持たなかったろうと思われる。
それはさておき検使たちはさぞかし当惑したことであろう。いきなり頼りにしているワルデナールが抜けてしまったのだ。ワルデナールは長崎滞在はや3年、その間長崎の最高権力者である長崎奉行には丁寧にそつなく対応しているから時の奉行肥田豊後守の信頼も厚い。そのワルデナールが手伝わないというのだ。しかも奉行配下の検使たちはスチュワートと初めて会った可能性が高いが、通詞たちにとってスチュワートは旧知の仲である。ただし検使たちの前では通詞たちは用心深くスチュワートに馴れ馴れしくはしなかったであろうが。
奉行肥田豊後守と検使らその配下は1800年(寛政12年)9月から1年間長崎奉行所に在勤し、1802年9月から再び奉行所に在勤している。これはスチュワートの来訪と重なっていないため検使らはスチュワートとは初見参である。ここは慣例通り何としてもワルデナールを頼りにしたいところだがワルデナールは頑なであったのだろう、通詞を通してスチュワートを尋問することとなった。スチュワートは尋問に「これはアメリカの船であり、ニューヨークから来た、私自身の責任で貿易するために来た」。検使が、ヨーロッパ人とは取引しないのを知っている筈なのに貴下はなぜ来たのか」と問われ「オランダ人、中国人、朝鮮人に貿易を許可しているので、私も貿易の許可を求めてきた」と答えた。私はこの新世界(アメリカ)の人間らしい途方もなさに注目せざるを得ない。国家という看板なしに個人の資格で、厳格な鎖国を貫く日本に「オランダ人、中国人、朝鮮人と同じように貿易を許可せよ」と求めたのだ。もとよりスチュワートはヘンミイが旅先で変死し、元通詞が出島門前で磔にされ、代理商館長を務めていたレオポルド・ラスが怯え切っていたことを先刻承知の上で、この異邦人には極めて危険な国へ「儲けのチャンスあり」と再来したのだ。ここにワルデナールと対極のスチュワートの真骨頂がある。ワルデナールは先ず危険に反応し常に自分の限界を認識しているのに対し、スチュワートは常にチャンスを求め、そのためならあらゆる危険を乗り越えるのだ。この二人が合う筈が無い。二人は内心お互いを軽蔑しあっていたろう。スチュワートの日本滞在は合計で718日にも達する(もちろん多少の誤差はあるはずである)。ほぼ2年である。
その間、彼はいつも通詞たちの間で人気者であった。通詞たちが彼に食事や何やかや個人的な贈り物をしていたのは「15 スチュワートの登場」で見た通りである。彼は厳格な法規制や張り巡らされた監視網にさほど痛痒を感じなかったのではないか。ルールや規範を越えたところで彼は常に行動しているのだ。スチュワートの出現を「スチュワートのドラマチックな再登場」(A Camel 12p) と書くグーレイ教授は彼のキャラクターを「かつてないほどクリエイティブ(創造的)な」と評している。話は変わるが、かつてタイガー・ウッズが最強だったころ、同じプロゴルファーがタイガーを「ゴルフがとてもクリエイティブ」と表したのに感心したことがある。グリーン周りからのアプローチにフェアウエイウッドを使ったことなど前例のないやり方のことだ。日本人は定石を好み、定石にこだわる。スポーツのコーチなどは特にそうである。野球ではスリーボール・ノーストライクから打って凡打に終わると叱られるのが落ちである。だがアメリカ式だとピッチャーは追いつめられているのだから棒球が来るチャンスだ、と考える。クリエイティブ、とは前例にこだわらないアメリカ人にとって最高の美徳である。アップルのスティーブ・ジョブズ、アマゾンのジェフ・ベゾス、アメリカ人ではないがアメリカを舞台に挑戦を続けるイーロン・マスク。列挙すればキリがない。グーレイ教授のスチュワート評は最高の賛辞に他ならない。
検使の尋問に話を戻そう。この時のやり取りで有名なのが「ニューヨークとはどこの国王または領主に属し、その頭人の名前は何というのか?」と問われたスチュワートが「全アメリカの国王に従属し、その国王の名はジェファーソンである」と答えたくだりである(「長崎オランダ商館日記 四」53p)。アメリカが独立を宣言してから僅か27年だが、スチュワートの返事には新世界人の誇らしさが感じられるのは私だけだろうか。
結局スチュワートはそのまま今の場所に停泊することを命じられるのだが、日本をよく知るスチュワートは日本人が見たこともないものを将軍に献上しようとして運んで来たものがあった。駱駝1頭、水牛1頭、驢馬2頭、ジャッカル数頭である。これら珍奇な動物は中甲板にいた。なんともクリエイティブな思いつき、と言わざるを得ない。初めて駱駝を見た検使や通詞たちは胆を潰したに違いない。駱駝を知らない筈はないワルデナールはさぞかし苦々しい思いをしたことだろう。駱駝について追記
こうしてワルデナールの懊悩の日々がまた始まった。彼は後任商館長のドゥーフを含む政策評議会を開催し、スチュワートに関わる一切のことにオランダ人が関わらないこと、スチュワートが実はイギリスの手先であるから一切の貿易を日本側に拒否させること、を決議した。だがそうは問屋が卸さない。奉行所からは奉行肥田豊後守直々の要望で、「この件に関わりたくないという要望は理解しているが、私は貴下を全面的に信頼している。オランダ人との契約(家康の朱印状のことだろう)で、オランダ人があらゆる事柄で日本人を援助したり補助したりすることとなっている。(中略)将軍による命令を馴染みのないヨーロッパ人に伝達する時には立ち会わなくてはならない」(「長崎オランダ商館日記 四」62p)と彼の最初の決議は封じられてしまう。その上、スチュワートからの頼み事はすべて出島を介して行う、ということになってしまった。イギリス人だから交易を拒否させる、という二つ目の決議にも問題が起こった。1800年(寛政12年)スチュワートがエンペラー号で入港した時にレオポルド・ラスがオランダの会社の船として来航したと言い訳し、それを着任したばかりのワルデナールが口裏を合わせたことで、今回に限ってイギリスの手先とは主張し辛いのである。乗組員の殆どがベンガル人であるという事実にしても、同じく前回にジャワ人だと言いくるめた経緯があり、今更ベンガル人なのでイギリスが支配するインドから来た証拠だと言えないのだ。ワルデナール自身の過去の言動が今になって彼を縛るのである。
こうしてスチュワートに対し再びワルデナールの無力感が襲うのであるが、一方で面白いことに大通詞が長崎の人々の、スチュワートの荷物を是非買い取らせて欲しいという要望を伝えてきた。これは様々なことを物語る。まず、長崎の街は駱駝を始めとしたスチュワートが持ってきた珍奇な品々の噂で持ち切りだったのだろう。既に長崎でスチュワートは有名人であったろうから、彼が持ってきた商品への期待も大きかったのだろう。また、舶来ものへの興味関心がとても高く、それを商うことで莫大な富と利益が生まれるからだ。さぞかしワルデナールは苦々しく思ったに違いない。
結局、ワルデナールとスチュワートそれぞれの目論見は、五分五分の決着となった。まず、スチュワートの荷物は1800年(寛政12年)の時と違って、売り捌けないことになった。だがそれはスチュワートがイギリスの手先だからではなく、アメリカ人であるから、という理由である。この結論は将軍の裁可としてスチュワートに伝達されることになった。将軍の意思を伝えるのであるから、極めて厳格な儀式となる。将軍の家紋を染め抜いた船旗が掲げられた大型の番船(屋形船)に日本側の代表は検使を始め多くの役人が乗り組んでいる。長崎奉行肥田豊後守は将軍の権威を代表する立場であるから、異国人と対峙するこのような場に軽々しく出て来ないのだ。スチュワートの船に近づくとスルスルと星条旗が掲げられた。どの歴史書にも記載されていないが、これは徳川幕府が公式の場で初めて星条旗を見た歴史的な瞬間である。ワルデナールとドゥーフも日本代表に組み込まれて、番船に移乗して来たスチュワートと対峙する。スチュワートもまた長崎に来た時と同様に青い羅紗服の正装に身を固めていた。ここでスチュワートは両手両膝を床について平伏することを求められ、スチュワートは素直に従った。長崎滞在2年近い経験のあるスチュワートは日本人の様々な習慣を習熟しているから、平伏することに抵抗はなかったのだろう。読み上げられた将軍の命令は「前回(1800年)の来航時はオランダに通告してあるとのことだったので、特別に商品の売却を許したが、その際スチュワート自身の危険負担で当地への来航はならぬと命令した。にもかかわらずバタビアの政庁の許可を得ず当地へ来たのは日本の国法を破る行いである。貿易は昔から許可されているもの以外には許されない。順風を得次第直ちに出航せよ」というものだった(「長崎オランダ商館日記 四」67p)。スチュワートはただ貿易をするためだけに来たと弁明したが、検使はバタビアで申し出るべきことだと答えた。スチュワートは、ここはオランダではなく日本の地であるから、あえてバタビアの許可を求めなかったと言い返したが、日本はオランダとしか貿易しない、と検使が回答する。結局、スチュワートは了解した印に署名を求められ、それに従った。スチュワートは水の補給を求め、それは承諾された。こうしてスチュワートの壮図は虚しく消えることになった。だがスチュワートは最後まで諦めない。彼はワルデナールに手紙を寄こした。順風になるまでは時間があるので、積み荷の販売と将軍への贈り物を配慮して欲しい、という内容だ。その手紙の内容をワルデナールは保管しているので見てみよう。
“私がここへ運んで来た積荷についての日本の政府〔奉行所〕からの情報を子細に検討する時、その積荷は日本の高官たちおよび住民の好みにあわせたもので、この同封の積荷日録を見ればはっきりわかるように、よく取り揃えた各種積荷は、資下の政府〔パタピア政庁〕の高官たちにとって、大変有利な取引ができるものと認められることは確かであります。(中略)他の様々な商品のなかでも駱駝、水牛、驢馬および鳥の献上品について配慮し、それが皇帝陛下〔将軍〕に贈られ、また、奉行間下への贈物も届けられるための命令が出されるよう、” (「長崎オランダ商館日記 四」93p)
積み荷については、日本通のスチュワートらしく日本人の興味関心の高い商品を選び抜いたことを示しているし、長崎の人々が彼の積み荷を販売したがっていることを知っていて何とか実現しようという試みだ。その上、これらの商品を販売すればオランダ商館の利益にもなると言及している。また将軍への贈り物については、オランダ人や長崎奉行を飛び越えて将軍の歓心を買うことさえ出来れば、不可能が可能になるという算段だろう。そのための駱駝であり水牛でありジャッカルなのだ。まさにスチュワートでなければ思いつかない壮大なプランである。このスチュワートの意図を潰すためにワルデナールは最後の手段を取る。「日本の国法の厳しさはよくご存じの筈。退去命令を守らない場合にどういう事態が生起するかもよく知っている筈である。そのような事態が貴下に起こらぬように速やかな出航を忠告する」という手紙を船上のスチュワートに送った。どういう事態か?文面の背後にあるのは、ヘンミイの怪死、名村恵助の磔、出島の大火、という恐るべき事態を思い起こせ、という脅迫である。ここに至って遂にスチュワートは観念する。日頃からワルデナールの心の奥底に潜んでいる日本という国への恐怖感、それをついにスチュワートに伝染させることに成功したのだろう。9月2日、スチュワートは錨を上げて出航した。4回の渡来のうち、今回が一番短い、僅か10日間のあっけない滞在であった。駱駝や立派な青い羅紗服や長崎丸とわざわざ漢字で表記した船名。それらの努力は実ることはなかった。これらの準備費用は、オランダの傭船でありながら行方不明になって横領した10憶円以上の銀が元手になったのではないか、私には思えてならない。もちろん長崎奉行が駱駝や他のものを預かることもなかった。もし将軍への贈り物として受け取って病死でもされたら、それこそ一大事である。過去にも、オランダ人がいろいろ珍奇な動物を持ち込んだ場合に、江戸への輸送の手間を考えて無かったことにした例もあるのだ。この駱駝たちは長崎丸の中甲板に閉じ込められたままで長崎の人々の前に姿を現すことは出来なかったようだ。物見高い長崎の人々が実見したらさぞかし大騒ぎになったであろう。9月2日、スチュワートが出港したと聞いたワルデナールは日記に「天よ、同船が今ただ速やかにこの固から立ち去るように」(「長崎オランダ商館日記 四」73p)と書きつけている。ワルデナールの頭痛はついに解消された。快(怪)男児スチュワートは日本の歴史から永遠に去ったのである。ただワルデナールの肝を冷やす事態が6日後の9月8日に起こった。午前2時に叩き起こされたワルデナールは、年番大通詞から例の異国船が視野に入ったと聞かされたのだ。ワルデナールは悪夢を見た気分だったろう。だがそれはトリ―という船長が指揮するイギリス船フレデリック号だった。トリ―船長の取り調べにおいて通詞たちは彼と彼の船の国籍を明確にせず、検使にはただヨーロッパ船と報告する。ワルデナールはもちろん面倒に巻き込まれないように聞かないふりをした。そしてトリ―船長に「イギリス人だと思われなかったのは幸運中の幸運だ。処刑される前に早く出航した方が良い」と忠告した。それを聞いたトリ―船長は到着4日後には錨を上げて出航した。こうしてワルデナールはスチュワートの悪夢から完全に解放されることになるのだが、このトリ―船長の到来は少しタイミングが良すぎるのではないか。偶然9月8日に長崎に入港したとは思われないのだ。私の推測では、スチュワートに唆(そそのか)されて長崎で貿易が出来ると信じたトリ―船長がどういう手筈だったのか分からないが、スチュワート出航後に長崎に着いたのではないか。スチュワートなら、トリ―船長に何らかの儲け話を持ち掛けてその気にさせるのはお手の物だったのではないか、と思う。今となっては想像は付かないが、何らかの見返りの約束もあったのだろう。恐らくスチュワートらしい途方もない見返りの約束が・・・。
さて以上は、ワルデナールが書いた長崎オランダ商館日記を基にしたストーリーである。グーレイ教授の『A Camel for the Shogun』を参照すると、少し違う光が当たる。
最初に指摘すべきは、スチュワートが来航した時に大村藩が迅速に長崎へ駆けつけ、156人の藩士がスチュワートの船を包囲したことが明記されていることである。長崎を包み込むように所領がある大村藩(現在の大村市には長崎空港があり、長崎への玄関となっている。リムジンバスで30分強)は佐賀藩と並んで長崎の警護にもっとも大きな責任を持っている藩である。佐賀藩とは桁違いな小藩であるが、長崎への距離が一番近いだけに、この藩の対応が真っ先に問われるが、大村藩はそれをよく心得ていて抜かりが無かったようだ。その対応の素早さはフェートン号が出現した時にも存分に発揮された。それは後の章で述べられることになる。
次のポイントは、グーレイ教授はスチュワート再訪への対応に、島津重豪-ヘンミイ―スチュワートの抜け荷計画の陰を指摘していることだ(アメリカの東洋歴史研究家にもこの薩摩を巻き込んだ抜け荷が公然化していることになる)。まずワルデナールがスチュワートをイギリスの手先と非難するのを通詞団は奉行所側に「適当に通訳」していたと指摘する。事を荒立てないためだ。荒立てないとは何か。通詞団がスチュワートも当事者である抜け荷計画が蒸し返されることを恐れたからだという。さらに、その影は長崎奉行肥田豊後守まで巻き込んだというのだ。スチュワートの来航が8月24日。スチュワートに正式に退去命令を伝えたのが8月29日。つまり幕閣中枢に報告することが無いまま、将軍の名で命令を発したのである。なるほど。5日間では江戸と長崎をどんな早飛脚でも往復することは不可能である。グーレイ教授はこれを“Possibly he wanted to sweep the matter under the rug“「臭いものに蓋をしたかったのではないか」という。それは薩摩とヘンミイの抜け荷計画を幕閣中枢の関心を引きたくなかったからだ、と推測する。そうかもしれない。島津重豪は将軍家斉の岳父である。島津重豪が絡む抜け荷計画(ほぼ5年前に密かに処理された事件)が再注目されたら、幕府の中堅官僚たる長崎奉行(しかも将来の出世につながる要職)にもどんな累が及ぶかわからない。そこでスチュワートが再訪したことの幕閣中枢への報告をスルーして、早く追い払いたかったという推測は成り立つのだ。ワルデナールも思いは同じであったろう。前任の商館長が国禁の抜け荷を計画したことが公然化すればオランダとの国交断絶すら考えられる。こうしてスチュワートは僅か10日間で追い払われることになったというわけだ。臍(ほぞ)をかんだのは通詞団であったろう。長崎会所(公的貿易機関)に出入りする商人たちと通詞たちは利益共同体である。ちなみにワルデナールはスチュワートが積み込んできた商品リストを日記に掲載している。このリストは奉行所から正式に退去命令を受けた後に新旧の商館長であるワルデナールとドゥーフ宛てに何とか売り払ってほしいと請願した手紙に書かれていたものである。膨大なリストであり、仕入れの資本も半端なかったことを物語る。
さてこうして、オランダと傭船契約をした船を遭難させて日本初の沈没船引き揚げのきっかけを作り、契約を破ってオランダ商館から10億円相当以上の銀を横領し、軟禁されたバタビアから船を強奪(アメリカ西部での馬泥棒と同じく縛り首の重罪)してベンガルへ逃走(諸説あるがこれはワルデナール説)し、エンペラー号、長崎丸と2回に渡り、船を仕立てて長崎に貿易に押しかけた男スチュワートは日本から永遠に消えた。その男の生涯はどういうものなのか、興味は尽きない。グーレイ教授の論考がそれを詳細に語っているので、見ていこう。
彼が最初に歴史に登場するのは、1785年12月18日にニューヨークのエクスペリメント号が広東目指して出航した時のことである。アメリカ独立から3年しか経っていない。ニューヨークの18人の商人が投資して、独立戦争で荒廃したニューヨークの海運をボストン、ボルチモア、フィラデルフィアに対抗して中国交易に参加するために、85トンしかない小さな1本マストのハドソン川運航船をはるばる広東へ派遣したのである。翌1786年の6月、広東ではみすぼらしい小船がニューヨ-クから辿り着いたのを見て独立戦争時にアメリカ側についたオランダ船がやんやの喝采を送ったそうだ。歴史は時にユーモアをもって事物を登場させる。ハドソン川運航船の名は「Experimentエクスペリメント実験」だった。エクスペリメント号は中国に渡航した2隻目のアメリカ船という歴史の栄光も担う。用意周到とは真反対の、生まれたてのアメリカらしい冒険魂を感じさせる壮途である。この船に17歳のウイリアム・ロバート・スチュワートが乗船していた。投資した商人たちの中で筆頭であったのがワインや雑貨の交易商である「スチュワート&ジョーンズ商会」であったが、彼はスチュワート兄弟の末弟であった。彼の職務はSupercargo船荷監督人である。その役目は、航海中の船荷の安全の確保、目的地での買い手の選択と売値買値の交渉、利益の確保と投資家への償還、という極めて重要な役職であり、グーレイ教授は17歳のスチュワートがこの職を得たことに驚いている。既に商才と周りの人間を魅了する才能を発揮していたのだろう。1787年4月ニューヨークに戻る。街はこの壮挙で興奮に包まれた。こうしてスチュワートの冒険人生が始まった。1789年に再度広東へ行って中国茶をニューヨークで売り払っている。「スチュワート&ジョーンズ商会」が所有していた船の中にイライザ号の名前がある。そう、スチュワートがバタビアに出現してオランダ傭船となった時の船名である。このイライザ号で1791年3回目の航海を行い、南米南端のフォークランド諸島(サッチャー首相のフォークランド戦争で知られる地)で18,000枚のアザラシの皮を手に入れてマカオに現れる。この時にイギリスの南洋調査隊に雇われてアジアに来たAmasa Delanoと知り合いビジネスパートナーとなるが、このDelanoが残した日記がスチュワートの行動を知る大きな手掛かりとなって、この物語を構成することが出来たのだ。だがスチュワートは税関で申告しなかったため密輸犯として広東で収監される。そのスチュワートを釈放させたのは、オランダ領事(オランダ東インド会社の社員)のBraamブラームであった。彼は$500(今の時価なら軽く1000万円を超える巨額)の保釈金を用立てるのだが、このようにスチュワートの人生には地球上のいろんな所で窮地に陥る度、彼を救う人間が現れる(このBraamは後に日本貿易介入を企むラッフルズのアドバイザーを務めることになる。もう一度この物語に登場することになるだろう)。これはスチュワートがいかに人を魅了する(悪く言えば口八丁でその気にさせる)キャラクターだったかを物語るのだ。イライザ号を長崎港口で沈没させて半年間収監された時も通詞たちが甲斐甲斐しく面倒を見た。しかし釈放されても中国市場は不景気でアザラシの皮は安値でしか捌けず、彼はブラームが保有する砂糖(当時の極めて貴重な商品の一つ)をDelanoとともに輸送することになる。これがケチの付き始めでスチュワートは次々に不運に見舞われる。船体の古いイライザ号の船体はフナクイムシに食荒らされていて水漏れがひどく砂糖の大半が溶けてしまったのだ。しかも辿り着いた先は仏領モーリシャス(当時の名はIsle of France)でルイ16世を処刑した革命フランスはイギリスオランダスペインと戦争中のため僅かに残った砂糖も押収されてしまう可能性があるためイライザ号とともに叩き売る羽目になった。ただしイライザ号の船籍証明書は手元に残した。僅かな手元資金で1400トンの船Hectorを手に入れ、アメリカで売り捌くために綿を買い入れた。これがまた大災厄をもたらした。フランス当局が彼らの身柄を1794年2月まで押さえ続けたため、船員への未払い給与が莫大な額になった。その上ようやく出航が許されるとハリケーンに遭遇し、命からがらインド西岸のボンベイに辿り着いた時には金庫は空っぽであった。ここでDunlapという人物に出会い、船を担保に法外な利子で資金を借りて交易品を仕入れ、Dunlapも乗船してインド東岸のカルカッタへ向かうが嵐で船体などに1万ドルの損害を被った。Dunlapへの借金は計2万ドル(2億円以上)という途方もない金額になった。悪いことに米英戦争の噂が持ちきりで、心配になったDunlaoから即時返済を求められ、Delanoとスチュワートはカルカッタの25km北にあるオランダ人街Seramporeに身をくらます。ここでアメリカ人領事のとりなしによりHectorを借金のカタに売り飛ばし、完全に無一文になった。Delanoは諦めてアメリカへ帰るがスチュワートはなおインドに残り、驚くべきことに1797年春にイライザ号とともにバタビア(ジャカルタ)に出現するのだ。不死鳥の如くどうやってカムバックできたのか?ニューヨークの兄弟の援助を受けたのか、それとも例の口八丁で新しいパトロンを見つけたのか、イライザ号をどうやって調達したのか?今となってはグーレイ教授にもわからない。そしてバタビアはなんとしても中立国の船舶が必要な状況だった。ここから先は読者ご存じの通りである。スチュワートはオランダ船に仮装して貿易風に乗ってこの年の夏長崎に来航、ヘンミイと出会うのである(「15 スチュワート現る」を参照されたい)。まさに波乱万丈であるが、その間一度もめげたりした気配を見せないスチュワートに驚くばかりである。
1768年スチュワートが生まれた時、アメリカはまだイギリスの植民地であった。彼が5歳の時ボストン茶会事件が起こり、7歳の時独立戦争が勃発、15歳の時アメリカは独立を果たす(パリ講和条約)。彼はまさに「新世界アメリカ」の申し子のような存在である。この頃はまだManifest Destiny(西部開拓の正当化)の波が押し寄せる前であり、中国、インド、ジャワ、そして日本が一獲千金の場として強く意識されていたのだろう。生まれたてのmoney firstの国民性を刺激したのは当時はまだWestではなくEastだった。彼の才覚ならばもう少し後の時代に西部Westへ行けば、例の口八丁でまた別の大成功があったかもと思わせる人物である。無法が支配したWild Westほど彼にぴったりの土地柄は無かったろうと思えるのだ。一方で彼が長崎へ現れた時にはまだ29歳である。僅か10日間の滞在となった1803年の最後の来航時は35歳であった。6年間に4回の長崎来航を果たした彼はまず巨大な金儲けが目的だったことは間違いない。彼は負債にしろ儲けにしろいつも大金と縁のある人物だった。だから彼にとって出島のある長崎が宝の山だったのは間違いないが、一方で彼は長崎が何となく好きだったのではないか、とも思えるのだ。私の感傷だろうか。長崎で船長として脇荷(個人貿易)で儲ける味を覚え、オランダ商館と運送契約を結んだ銀を横領するなど、他の土地では無いような成功体験をしたのは、長崎に惹きつけられる大きなモチベーションであったろう。しかし日本の天皇を念頭に「Emperor号」と名付けたり(彼は将軍の上の権威である天皇を理解していたのかも知れない)、漢字で「長崎丸」と船名を描いたりしたアイデアたっぷり愛嬌たっぷりの彼には、金儲け以上の愛着が長崎にあったのではないか、と思えるのである。日本というシステムを常に陰険な監視のもと危険で命に関わる環境とワルデナールが恐れたのは逆に、彼は鎖国(貿易は堅く御法度、関われば死罪)の日本へ個人の資格、個人の危険負担で貿易の許可を求めて2度も押し掛ける、この途轍もないオプティミズムを支えたのは、彼にとって長崎が居心地が良かったのではないか、何となく性が合ったのではないか、と思えるのである。彼は2年間の日本滞在で、国禁の貿易に関わっても唐人もオランダ人も国外追放で済む、という知識を仕入れたのかも知れない。それを見切って大胆な行動に出たとしても、並の肝っ玉の人間に出来ることではない。彼が17歳で初めて中国に行った時のことをグーレイ教授は「中国流のdeviousな商売の洗礼を受けた」と書いている。deviousとは人を欺くという意味である。騙されるほうが悪い、という彼の地の商売のやり方をスチュワートは若い頃に見た。また3回目の航海ではマカオで税関で正式な手続きを怠ったという罪で収監されたが、清の政府システムは腐敗と賄賂が蔓延っていた。マカオの役人がどれほど正当な主張をしたかは疑わしい。賄賂をスチュワートが拒否したことへの報復だったのかもしれないのだ。清王朝は外国人を軽蔑し、貿易は朝貢の一種と考えていた。スチュワートたちに敬意を払う社会では無かった。また彼が見た街、マカオ、広東、バタビア、インド。それらは貧民があふれる街であり、極貧の人々を救うシステムもなく、貧困をただ当たり前のことと放置する社会であった。一方で長崎はどうだったろう。厳正な法治社会であり賄賂を役人が要求することはありえない。人々は異国人に興味津々で、イライザ号が沈没して収監された時は、仮設小屋を見物する人々が毎日詰めかけたという。何度も書いたが通詞たちは彼に食べ物や着るものを差し入れてくれたが、見返りを求めてのことではなかった。彼に好意を示したかったのである。村井喜右衛門が奇跡的に彼の沈没船の引き上げに成功した時も、誰も彼に謝礼や報酬を求めなかったし、日本中が引き上げ成功に沸いて祝福してくれた。商売は信用第一で、相手を騙せば自分の居場所がなくなる社会。既に米相場などで手形や先物取引が始まっていた社会であった。江戸の越後屋で買った商品に瑕疵があれば長崎の支店が払い戻す信用商売の国。四季があり温暖で、治安が良く身に危険が及ぶことが無い街。スチュワートにとっては実に気持ちの良い新鮮な体験をした街ではなかったか、と思えるのだ。それが彼を何度も長崎行きへ駆り立てたのではないか。
彼が去って5年後、フェートン号が出現した時に、スチュワートよりずっと短い滞在であったにも拘らず同じような感慨を持った人物が現れる。それはこのずっと後の章で語られることになる。
スチュワートが長崎を発ったあと、彼の痕跡は一時消える。多分ベンガル(インド東北部。今のバングラデシュからカルカッタの一帯)へ帰ったのだろう。日本向けに仕入れた商品(大量の象牙や犀の角も含まれる)は途中のルソンかマカオか、で処分しただろう。彼がグーレイ教授に再び発見されるのは、1807年3月ニューヨークの法廷にスチュワート家の資産係争で証人として出廷した時である。いつニューヨークに戻ったかは定かではないが、彼はこのあと死ぬまでアメリカを離れることはない。アジアでの冒険は終わったのだ。1809年2月、彼は未亡人のキャサリン・ホプキンスと結婚して今の6番街辺りに住む。この時の職業はまだ「船長」であるから何らかの海運業に携わっていたか。家業を引き継いでいたのかも知れない。だが1815年にキャサリンは病死する。その翌年、1816年の9月に30歳年下で18歳のマリア・ルイザ・ラビガールと再婚する。この時、48歳ということになる。グーレイ教授は彼の若き日の冒険談でこの若いマリアを魅了したのだろうと推測する。マリアの父は上院議員を友人に持つ、ニューオーリンズの大資産家で、マリアの母もまた資産家の出であった。こうしてスチュワートは求めていた巨富をついに結婚という形で手に入れたことになる。彼はニューオーリンズ滞在中に黄熱病でこの世を去った。1818年9月、50歳の時である。彼の遺志で遺体はニューヨークに運ばれ、今もスチュワート家の墓地に安眠しているそうである。その魂はもう一度長崎を夢見たであろうか。彼の肖像などは残っていない。写真が発明される前のこの時代、肖像画を残したのは一部の政治家か富裕な人々のみであった。彼の人柄を忍ばせる唯一の証言は女性のような声で話すという通詞たちの感想だけである。
最後に余談だが、興味深い話がある。スチュワートの荷物リストにアヘン二箱という記載がある。スチュワートは日本でもこの商財が売れると踏んでいたのだろうか。アヘンは明朝末期からイギリスが中国へ輸出を始めたといわれる。清王朝はこのアヘン中毒に手を焼き、アヘン戦争(1840年から42年)で手痛い大敗北を被るのであるが、このアヘン商売で巨万の富を築いたアメリカ人がいる。その姓をDelanoという。覚えていられるだろうか?若きスチュワートとマカオで出会い、彼の冒険談を残してくれた人物Amasa Delanoを。アヘン商売で財を成したDelanoと何らかの繋がりがあると見るのは決して不自然ではない。Delano家の人々が彼に倣って中国へ行った可能性はあるからだ。そしてアヘン商売という汚いビジネスで巨富を築いたのだろう。フランクリン・D・ルーズベルト、32代アメリカ合衆国大統領であるが、彼のミドルネームのDは、Delanoである。彼の母の祖父こそが、アヘン商売で巨富を得た男なのだ。ルーズベルトは資産家の一族に生まれて我儘いっぱいに育ち(彼にNoを言う人はいなかった)上院議員となってからは海軍次官(シビリアンの役職)を長く勤めて海軍人事を差配(彼に嫌われると左遷されたり昇進が出来なかったりした)したが、テレビのない当時、彼が隠したことはポリオで足が不自由だったことと、妻の祖父がアヘン王であったことである。盟友チャーチル首相の矢のような参戦の催促があっても世論の反対で身動きが出来ずにいたルーズベルト大統領はついに日本を開戦に引きずり込むことに成功したが、なぜか彼に好意的な日本のマスコミは、彼の母方の祖父がどういう商売で財を成したかについて報じることはない。