64 佐賀藩の内情

佐賀藩を代表する学者、古賀穀堂は、昌平黌の学官であった父精理に学んだ俊才で、鍋島斉直が9代藩主になった翌年1806年(文化3年)に藩校弘道館の教授に就任した。彼の残した日誌は、武藤長蔵博士が編纂した日英交通資料その11に収録されている。この資料には、藩士が古賀穀堂のもとを訪れ、意見交換や藩政報告を行う様子が記録されており、藩主斉直の同時代人であるだけにその藩政批判は率直で辛辣である。

この日記からは、フェートン号事件発生時の佐賀藩の内情の一端を垣間見ることができる。ここでは、文化5年(1808年)8月15日からの数日間の日記を引用する。

『十五日 朝早く、藤崎十兵衛が大阪に向かうために出発した。彼は浪華(大阪)に直行し、鍋島源右衛門と同行する。この旅の目的は、大坂で商議を行い、借財の利息を減らすことで財政の負担を軽減することにある。これは大事業であるが、多くの意見が飛び交い、賛否が分かれているため、世論の動揺が懸念される。
十六日 今夜、長崎から急報が届いた。ロシア船が高鉾島付近に入港したという。その意図は測りがたく、長崎の人々は騒然となった。藩の城内でも諸宗室、大夫、官人たちが集まり、議論が白熱して夜を徹して続いた。ロシア船は、実際にはイギリス船であるようだ。
十七日 朝、竹野忠五兵衛が訪れ、兄である金兵衛の馬旗の書を乞うたのでそれを贈った。金兵衛はその後、今日、長崎に向かった者の中には、参政の相良内記、属官の百武善左衛門、長崎奉行所の役人である原口彌左衛門らがいるという。
長崎では、鎮台(著者注・長崎奉行のこと)が検使を派遣し、ロシア船の目的を尋ねた。しかし、ロシア人は無礼にも検使の槍を奪い、オランダ人のカピタンとその仲間二人を拘束した。検使はどうにか逃げ帰ったが、その後、ロシア人は深堀藩の人物をも拉致しようとし、その者は泳いで逃れたという。さらに、ロシア人は小舟に乗り、泊台(停泊地)に向かい、砂を採取し、豚や野菜などの食糧を要求したが、地元の者が拒否すると砂を焼くと脅迫した(著者注・この「砂」の意味は不明。船の誤記か)。長崎、深堀などの各地では、再度検使を派遣したが、ロシア人の態度はますます無礼になった。鎮台は、江戸に決戦の覚悟を伝える急報を送り、長崎邸ではこれに応じるべく準備を進めた。先鋒部隊と警備部隊の二隊が直ちに佐賀から出動し、長崎の情勢は沸騰するがごとく緊迫している。
十八日 朝、洪(軍議の場)に赴く。弟の牟田口宮富、成富千兵衛、田中東兵衛らが出陣の準備を進めるが、その決定には多くの異論があり、同意しない者も多い。昼には再び洪に戻り、洪翁(軍議の主催者)からの話を聞く。彼は「ロシア人の態度はますます無礼であり、決戦は避けられぬ。君命(藩主の命令)により、近日中に出兵する準備を急がねばならぬ」と述べた。
佐賀藩の状況は極めて危機的であり、まるで積み重ねた卵のように不安定な状態である。その理由は以下の二点にある。
① 江戸の藩邸は財政的に困窮し、銀の供給が絶たれている。さらに、世子(藩主の後継者)が去る七日に死去し、藩にとって未曾有の危機である。
② 大坂での借銀交渉のため、鍋島源右衛門と藤崎十兵衛が既に出発した。しかし、長崎での軍備が不足しており、食糧の確保すら危うい状況にある。それにもかかわらず、関係者はこの危機を深刻に受け止めず、まるで他人事のように考えている。』

この日誌には注目すべき点が2つある。そのひとつは、15日の記述で藩士が大阪へ行き藩の借財の利息軽減に赴くことであり、その借財について藩論が沸騰していること。
もうひとつは16日長崎から急報が届き、『藩の城内でも諸宗室、大夫、官人たちが集まり、議論が白熱して夜を徹して続いた。』というが、これは明らかに異常な事態である。佐賀藩は「長崎御番」という長崎警備の大役を担っており、そのために参勤交代では諸藩に比べて負担を軽減されている。議論などせず、すぐに派遣軍の編成と準備にかかるべきであろう。出動兵士の軍装準備、兵糧の炊飯などやるべきことは山ほどある。議論をしている暇は無い筈である。『出陣の準備を進めるが、その決定には多くの異論があり、同意しない者も多い。』とあるが、異論や同意しないものも多い、とは幕府から見たら噴飯ものである。
現に同じ長崎御番の福岡藩(黒田藩)は非番年であるにもかかわらず『家老黒田源左衛門諸役人同道、御役所罷出申演候て、去る十五日異船入津人數可差出御達之趣、十六日相達(通知が届いた)、卽刻人數相調へ、海陸とも八千餘人書夜走せ付、只今到着仕候(通航一覧445p)』とあるように16日急報が届くと8千人を超える軍勢を陸路と海路昼夜を分かたず急行して18日昼には長崎に到着しているのだ。知らせが届いてから8千人の軍勢が長崎に着くまでに中一日しか要していない。軍費、兵糧(ロジスティクス)の準備調達などこれほどの軍勢を動かすのは並大抵のことではないにもかかわらず、だ。
佐賀藩は、幕府から任ぜられた長崎御番よりも、藩財政のひっ迫を深刻に捉えていたと言える。

古賀穀堂の日誌について「この日誌には注目すべき点が2つある。そのひとつは、15日の記述で藩士が大阪へ行き藩の借財の利息軽減に赴くことであり、その借財について藩論が沸騰していること」と書いたが、異国船(フェートン号)襲来の急報が届く前日の佐賀藩では借財の軽減策で議論が沸騰していたのである。
まさに佐賀藩は「困窮」と言う宿痾に息も絶え絶えだったのだ。
藩の財政難には、藩の成り立ちと、現藩主の愚鈍さという2つの要因がある。
佐賀藩は表向き36万石で、大名の中では石高10位の大藩であるが、実情は大きく異なる。
佐賀藩には、小城藩、鹿島藩、蓮池藩の3つの支藩があった 。これらの支藩は、藩祖とも言える鍋島勝茂が家臣から上地(じょうち/あげち・知行地を没収すること)させた土地を基に創設された。これらの支藩は、幕府から直接朱印状を受ける独立支藩とは異なり、佐賀本藩の統制下にあったが、大名並みに参勤交代を行い、幕府の普請役なども負担していた。これが佐賀藩の財政困窮の一因ともなった。
その石高の大きさにもかかわらず、佐賀藩主の実質的な収入は限られていた。実質的な石高は6万石程度であった、という指摘もあるhttps://www.touken-world.jp/edo-domain100/saga/。
それに加え、長崎御番(長崎警護)は当番年(福岡藩と1年毎の交代)には約1万5千両の出費(全経費の20%であった)がかかり、さらに加えて参勤交代の負担が重かった。長崎御番の負担を考慮して在府100日(百日大名と呼ばれた)の優遇はあったが、江戸への距離はGoogleマップで1126km(佐賀市→皇居)もある。Perplexityによると片道最短28日、最長37日かかったと推測される。現藩主鍋島斉直を継いだ10代藩主直正の時代には「大名行列が通ったあとは、雑草までも粥に入れて家臣に食べさせるほどの徹底ぶりであったと言われている」(佐賀市HP)。この参勤交代もまた経費の20%を占めていた。

つまり藩の成立時に構造的に財政逼迫が組み込まれていたわけで、この物語当時の鍋島斉直が25歳で9代藩主を継いだ時(文化2年1805年、この物語の3年前)には15万両の借財があった。
それでもその10年前の寛政7年(1795年)に将軍家から松平姓を授かり、家督を継いだ頃には将軍徳川家斉からの偏諱授与(「斉」の字)も行われているのだから、幕府へ並々ならぬ献身(贈答や献上など)をしていたろう事は想像に難くない。
[https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000228341&page=ref_view)]によれば、『「九州の佐賀藩の明暦元年(1657)の総支出額は、米3万8203石・銀1297貫346目で、うち銀支出は江戸経費は686貫430目(53%)、道中経費517貫目(40%)、長崎警備経費5貫目(0.2%)、国許経費他が88貫916目(6.8%)の内訳となる。なお、江戸経費のなかでは、藩主家族の在府生経費が半分を占め、残りは江戸雑務納戸・台所料・定詰藩士飯料・屋敷修理費からなる。いずれにせよ、銀支出の90%以上は江戸経費と道中経費で占められ、米支出の七割近くが藩士への禄米、残りが国許台所料と諸費用である」という(『参勤交代(日本歴史叢書新装版)』(丸山雍成/著 吉川弘文館 2007.7)p.215)。長崎警備経費五貫目(0.2%)というからこの年は当番年ではなかったのだろう。
煩雑な資料だがこれを見ると藩主家族の江戸での経費が異様なほど負担が大きいのがわかる。
これでは藩士たちの日常がそれこそ「草を食む(はむ)」ような毎日であったことは想像に難くない。先述した佐賀藩大名行列の凄まじいエピソードがこれを裏付ける。
無能とレッテルを張られた聞役関傳之允はこういう空間にいたのであり、それを理解すると同情もわいてくる。
一心不乱に常に「死」を心掛けて奉公する『葉隠』を書いた山本常朝の生活はこのような困窮が背景にあったというのは考慮しても良いだろう。
莫大な借財と共に藩政を継いだ斉直は当然あらゆる経費の削減に取り組むことを反省の基本に据えた。と言えばこれは歴史教科書の記述になる。実際はどうであったか?同時代人の古賀穀堂の批判を次章で検討しよう。

そのような困窮にあえぐ佐賀藩は図書頭の増援指令にどう答えたか?

先述した

17日の日記には参政の相良内記、属古賀穀堂の日誌17日には『官の百武善左衛門が急遽長崎へ向かった』とある。これは16日の事であったろう。関傳之允からの続報に応えて交換の二人が長崎へ向かったのであろう。
続けて17日には、
『先鋒部隊と警備部隊の二隊が直ちに佐賀から出動し、』とあるが結局これは出動しなかった。愚図愚図しているうちに異国船(フェートン号)が出帆し、図書頭から「出動取り止め」の指令が届いたからである。
老中へは「異国船出帆のため出動を取りやめるよう長崎奉行松平図書頭から指令が来たので取り止めた」と報告しているが、態勢が整わず間に合わなかったことには何ら触れていない(通航一覧437p)。
気なるのは、この報告書内で『松平図書頭より申し遣わされ候に付』と書いてあることである。「図書頭」とは官職であるから様が無くても無礼とは言えない。だが他藩の場合は「松平図書頭様」と様付けが多い。ここにも佐賀藩の屈折した感情が表出されていると感じるのは、考え過ぎだろうか。