62 足留め

陽が西に傾いてきた頃、沖合では水と野菜を届けた一行の帰りを待っていた。陽暦10月5日(和暦8月16日)の日の入りはちょうど18時、月はすでに17時21分に上がっている。だから17時45分前後であったろうか。
そこへ甚左衛門と茂十郎がやっと帰って来た。「牛と野牛(バッファロー)などを届けてくれれば残る一人のオランダ人シキンムルも解放する」と船主が言ったという。そして横文字の手紙を預かっていた。西役所ですぐに和訳された内容は以下の通りである。
『昨夜手紙でお願いしていた水と野菜は今日届けていただきおかげを持って早速船内で用いております お心添えをかたじけなく感じ思っております 私は水野菜など積み込んだ上で上陸させるとのことでございます また薪は格別船内では必要なものなのでなにとぞ2艘分ほどもお届けくださりますよう船主が申しております シキンムル』

つまりシキンムルがフリートウッドに命じられて書いた手紙であった。
さらにもう1通の手紙があった。

『昨日手紙で申し上げた水野菜を今日お届けいただき本船へ積み込みましたのでこのことにつき厚くお心遣いいただき千万かたじけなく思っております。 私の上陸につきましては牛野牛などを積み込むまでは上陸はできません またお願い申し上げますのは水芋並びに薪これは早くお届けくださいますようお願い申し上げます 水5艘芋200斤これは異国船より送られてきたきた船主のお願いでございます  シキンムル』

同じ様な内容の二つの手紙がなぜ必要だったか?1通目は薪2艘分の補給を要求しているが、それをシキンムルが筆記しているうちにフリートウッドはさらに要求を追加することにして“水5艘芋200斤”を追加する2通目の手紙を書かせたのだ。

水1艘の配給のあと、フリートウッドは5艘の水の追加配給を請求した。このことから大きな出来事がフェートン号の艦上で起こった、と断言できる。
彼らは間違いなく届けられた水の清冽さに感嘆したのである。59章水船システムで触れたようにマカオで補充した70トン余りの水は土や砂、藻などの不純物が混入した質の悪いものであったろうし、それが真夏の東シナ海を1か月以上も航海してきたのだから微生物やバクテリアの繁殖によって色が濁り腐臭を放っていただろう。フリートウッドは「艦内に病人がいる」とシキンムルの手紙で伝えてきたが、水の劣化による赤痢、あるいは樽の中でボウフラが蚊に成長してマラリアに罹患していたのだろう。帆船時代の最も恐るべき壊血病は英海軍はレモンを補給することで解決している。
稲佐山の麓の稲佐郷の井戸で汲まれて清潔な水樽で移送された水は全身に染み渡り、生き返ったような感動をもたらしたろう。まずクオーターデッキに陣取る士官たちが試飲し、ボースン等の下士官にも分け与え、そして全乗組員に配給するために5艘分の水の追加補給を求めたのだ。
彼等を感動させたのは、水だけではない。10月中旬(陽暦)の爽やかな薫風、港を包み込む山々の柔和な緑、見渡す限りの丘に広がる丁寧に開墾された耕作地、瓦を重ねた町々の静かな佇まい。それらは彼らの母港マドラスの騒々しさ、寄港したマラッカの灼熱の太陽やマカオ港外の黄色く濁った珠江、等とはまるで違う感動を彼等フェートン号艦上の人々にもたらしたのである。フェートン号は不法侵入者であり、オランダ商館員を拉致している立場でありながら、この港町に魅了されたのだ。
日誌記録者ストックデールは、航海日誌に特別なページを作り、こう述べている。

『港の景色は、凡そ想像し得られる自然及び芸術の最も美しいものの一つである。』

またフリートウッドもその報告書に次のように記している。

『⾧崎港は、あらゆる点から考えて、おそらく世界でもっとも素晴しく、またもっとも安全な港の一つだろう。』

フリートウッドは18歳10か月の血気盛んな若者である。自分が行った行為が日本と言う厳格な法治国家に対して行った結果(ここはconsequenceと言う英語を使った方が適切であろう。ある行為に対しての結末や帰結)や影響について無頓着、と言うか想像が及ばない。オランダ人を拉致して長崎の町が狂乱状態に陥り町中の鐘(各町に張り巡らされた火事見張り台の鐘)が狂ったように鳴り響き、『陸手海手とも高張提灯篝火夥しく二里にも及び真昼の如し』(通航一覧406p)となっても怯えもせず、むしろそれを楽しむかのように自らも小艇に乗って港内を探索した挙句、無謀にも稲佐の海岸に上陸して裕福そうな民家を覗いたりしていたのである。
そして最初の水補給によって新鮮な水の極上のうまさに舌を巻き、図々しくさらに5艘の水船の補給を要求した。二十歳にも満たないフリートウッドは、そのキャリアの晩年に近くなった父エドワード・ペリューの息子への気遣い=日本への遠征でオランダ船を襲って巨富を得させようという親心、を理解していても長崎港内にオランダ船がいないとわかると巨富への執着をあっさり捨てた。なにしろ彼の人生はこれからで、理想的な海軍士官の特質を備えた彼の前途は洋々なのだ。それが18歳10か月の若さであり、精気である。

図書頭の狙いは当たった。水5艘の追加要求で、してやったりではなかったろうか。少なくとも今夜中の出帆はあるまい。今こそ反撃の好機到来、と捉えたのだ。

彼は佐賀藩聞役関傳之允を呼び出した。何度目であったろうか。