61 深堀藩

深堀藩は、江戸時代に佐賀藩(肥前藩)の支藩として存在した小藩である。領地は現在の長崎市深堀地区を中心とし、長崎に隣接していたため、その地理的条件から遠見番所の設置など外交や港湾警備に一定の役割を果たしていた。

深堀藩の起源は戦国時代にさかのぼり、深堀氏は大村氏の一族とされている。1580年に長崎がイエズス会に寄進され、1587年に豊臣秀吉の命により長崎が直轄地となった際、深堀氏は長崎周辺の領地を失い、深堀の一部に移された。その後、江戸時代には佐賀藩鍋島家の支配下に入り、深堀藩として認められたものである。藩主は佐賀藩の家老職である。

領地の石高は約6000石と非常に小規模であった。深堀藩の藩主が居住した深堀館(後に深堀陣屋)は、小規模ながらも防衛や行政の拠点として機能した。

深堀藩は長崎に隣接していたことで、幕府からの特別な命令を受けることもあった。特に1634年(寛永19年)以降、佐賀藩が幕府から長崎の防衛を命じられて以来、深堀鍋島家がその任務を担っていた。深堀藩の領地には、香焼島、伊王島、高島などが含まれ、さらに外洋防衛のための台場として高鉾、蔭ノ尾、長刀岩の三カ所が設置されていた。これらの台場のうち、長崎防衛の要衝として機能していたのは深堀藩領内にあったものである。

大井昇の研究によると深堀藩の軍備に関しては、藩士やその家臣を含めた総兵力が300人以上であり、船頭役者船(船頭や船乗りの役を担う者)が357人、減番時(緊急時の動員解除後)でも164人が確保されていた。さらに、深堀藩が保有していた船舶は56隻を数え、そのうち1隻は大型の井楼船(物見船)であった。この規模は、幕府の命により配置された長崎の両番所が保有する船舶数24隻を大きく上回っており、深堀藩が長崎防衛において重要な役割を果たしていたことがうかがえる。

また、深堀藩の防備体制は、単に軍事力の投入に留まらず、台場の設置や外洋警備のための哨戒活動を含んでいた。特に、香焼島や伊王島における防衛拠点の配置は、長崎港への外敵の侵入を防ぐための重要な施策であったと考えられる。深堀藩の警備担当区域は、長崎港の西側および南方に広がり、佐賀藩全体の防衛戦略の中核を成していた。
戸町と西泊の番所の千人配置については、佐賀藩を補佐もしくは代行して深堀藩からも駐在兵力を拠出していた筈だが、機密性の高い事項のせいか内訳の詳しい記録は入手できない。戸町番所はのフェートン号事件の時は両台場の責任者である物頭は佐賀藩士であった(両名とも事件後切腹処分)が、当時駐在していた150名程度の兵士の中には深堀藩野母が含まれていた可能性もあるがこれも詳細不明である。
ただ、図書頭から矢のような催促を受け続けた佐賀藩聞役関傳之允は、自藩の蔵屋敷に実働兵力が殆どいなかった(詳細はこれも不明)ので、ひたすら深堀藩への肩代わりを画策したのである

深堀藩が歴史に登場する事件として「深堀事件」がある。これは「29章長崎奉行」で詳しく解説したが、元禄13年(1700年)12月19日、長崎の町年寄筆頭である高木彦右衛門と深堀藩士との間で発生した衝突である。事件の発端は、高木家の若党と深堀藩士がすれ違う際、雪の泥が若党の顔にかかったことにあった。これを巡り、酔った若党たちが深堀藩士を侮辱し、さらには深堀藩邸に押しかけて武士の刀を奪い狼藉を働いた。
この挑発を受け、翌朝深堀藩士数十人が高木邸を襲撃し、高木彦右衛門の首を討ち取った。事件の結果、深堀藩士10人が切腹、5人が遠島となったが、深堀藩主にはお咎めがなかった。長崎奉行ではなく幕府老中の決定によって処分が下されたことから、幕府が深堀藩士側に同情的であったと考えられる。また、この事件の1年後に起こった赤穂浪士による吉良邸討ち入りにおいて、襲撃の計画には深堀事件が参考にされたと言われている。

深堀藩は小藩ながら武勇に優れた藩であったことがうかがえる。ただし、事件後108年を経て、フェートン号襲撃時にはどのような気風であったかは分からない。