ホウセマン上陸の詳細については、日本側とドゥーフの記録に齟齬があるが、彼の帰還は歓喜と憤怒のセンショーションを巻き起こした。
歓喜したのは無論ドゥーフ等オランダ商館の人々だった。「かぴたん以下の者ども広間に出向きホウセマンに逢て悦事(喜び)限りなし」(崎陽日録26p)と描写する。恐らくドゥーフ以下全員がホウセマンと抱き合い涙を流しただろう。オランダ商館の人々はフェートン号から発進したボートが港内を遊弋したために西役所に逃げ込んだ時も恐怖と安堵から抱き合って涙を流していたから、この時の感激の度合いは尋常ではなかったろう。その歓喜の渦に、なんと図書頭が自ら広間に姿を現したである。
図書頭にとっては異国船の内情に一番通じた生き証人が帰還したのであるから、聞き出さねばいけないことは限りが無かった。だがホウセマンは異国船からの横文字の手紙を預かっていた。図書頭はすぐに和訳を命じ対面所に戻った。広間は今で言う「ホール」で、あらゆる人が出入りする場所でもある。この最高機密について協議するにはふさわしくない。対面所へは年番大通詞名村多吉郎、通詞目付義傳之進、ドゥーフとホウセマンが続いて入り、すぐに和訳が始まった。
歴史的文書で得あるので、まず英訳を見よう。
『The two Gentlemen who belong to the Dutch company, Dirk Gozeman and Gerrit Schimmel, of whom Dirk Gozeman will go to the wall and will steer with his own ship to the wall, and that the captain has taken us and made prisoners, and that the captain has held us since yesterday for five hours, and now asks for three hours on board, the captain will send provisions as soon as possible, and Mr. Schimmel will then steer to the wall and will set sail. And if he does not receive the provisions before evening, he will return tomorrow evening and set the Japanese vessels and Chinese junks on fire.』
これはメッツェラールのオランダ語の直訳であるので、オランダ語原文の構成がわかりやすい。ここにwallとあるのは岸とか港の岸壁という意味である。当時の文章らしく、また若いフリートウッド(名文家とは想像しにくい)の英語を、高い教養を持つとは考えられないオランダ人水兵が訳した文書であるから、無駄が多く、簡潔な名文とは言い難い。
この英文を日本語に直訳すると次の様になる。。
『オランダ東インド会社に所属する2人の役人、ディルク・ホウセマンとヘリット・シキンムルのうち、ディルク・ホウセマンは港に向かい、自身の船を操って岸壁に接岸する。艦長(Captain船長とも訳せる。以下同様)は我々を捕虜とし、昨日から5時間にわたって我々を拘束している。そして今さらに3時間船上での(拘束/待機)をする。艦長はできる限り早く食料を送り、シキンムル氏は港へ戻り(解放するの意味)、(我々は)
出港する予定である。もし食料を日没前に受け取れない場合、明朝まで待機し、日本船と中国のジャンク船に火を放つ。
艦長フリートウッド・ペリュー』
「艦長はできる限り早く食料を送り」は「食料を受け取り」を意味した筈だ。
「崎陽日録」には原文に忠実ではなく、簡潔に述べられている。
『昨日ホウセマンとシキンムルを小船で本船へ連行したのは海上で食物を使い果たしたので今日その品々をお願いするため連行しました このホウセマンを上陸させますので食べ物類をなにとぞ今日中に本船へお届けください それが叶えられれば残るもう1人シキンムルを戻しすぐに出帆します もし今日中に届かなければ明朝までに日本船唐船を焼き払います』。
これを聞いた図書頭はみるみる紅潮した。通詞たちには船中の様子を聞き糺すように命じ彼は憤怒の極みに達したがそれを隠すため、或いは自分の感情を抑えるために対面所を蹴って奥へ入った。それほど激情がほとばしったと思われる。それは国法を踏みにじったばかりか、あろうことか要求が通らなければ港内の船々を焼き払うと脅迫して来たのだ。本来なら国法を破って入港した時点でとっくに撃破するべき相手であったのにそれを果たせないうちに、このような居直りにまで至るとはとても許せるものではなかった。
実はホウセマンはフリートウッドからオランダ商館長宛の手紙も預かっていて、それをそっとドゥーフに渡した。このことは当然「崎陽日録」にも「通航一覧」にも記述が無い。何らかの意図をもってフリートウッドがドゥーフ宛に書いた手紙を、ドゥーフの許可無しに通詞たちに知らせるわけにはいかないからだ。それは英語の手紙であった。
『The two gentlemen belonging to the Dutch Factory at Nagasaki, Derth Gozeman and Gerrit Schimmel, one of whom now going on Shore were taken by my Boat Armed by my order for that purpose & have been detained by me since 5 o’clock on the 4th of October.
Fleetwood Pellew Captain of the English Frigate At Anchor 』
【 長崎オランダ商館に属する2名の紳士、デルト・ホウセマンとヘリット・シキンムルであるが、その1名を現在上陸させるが、彼らは私の命令に基づいて武装した私の舟艇により捕らえられ、10月4日午後5時より私により拘束されている。
フリートウッド・ペリュー 碇泊中のイギリス・フリゲート艦艦長 】
今更明々白々の事実をなぜドゥーフ宛に持たせたのか?
フリートウッド・ペリューは二人のオランダ人を拉致した当初から「商館長はなぜ来ない?」と尋ねている。江戸初期に日本を撤退して以降、初めて日本へ来た海軍将校という歴史的意義を自任している彼にとっては、敵国オランダ(今はフランスの属国)の商館長は対面しておきたい相手だっただろう。遠征報告に記す時に、商館長との対話はオランダの長崎での状況聞き取りとして重要な情報になるからである。
内心の憤怒を隠すために奥に入った図書頭のもとへホウセマン口述の糺し書きが届けられた。それは次の様な内容であった。
『筆者紅毛人(ホウセマンのこと)が船に上がるとイギリス人船頭が鉄砲を手に持って尋ねてきたのは「当年2隻のオランダ船がバタヴィアから出港している。その船を探すために港内に入ってきた。もし正直に答えなければこの鉄砲で撃ち殺す」と言い、「今年はまだオランダ船は入港していない」と筆者紅毛人(ホウセマン)が答えたところ小舟3艘を下ろし1艘に50人ずつ乗り込み鉄砲大砲その他武器を備えてオランダ船が港内にいるかいないのか確認するため3艘が港内に入りました。カピタンはなぜ来ないのかと船主が尋ねるので当時病気で寝ていたから来れない(と答えました)。本船には350人が乗り込んでいるそうです。これは筆者紅毛人(ホウセマン)が話したところカピタン(ドゥーフ)が申し上げました 辰8月 』
オランダ商館日記には、
『[奉行]閣下は立腹して立ち上り、部屋から出ていった。その後少し経って、秘書官が来てこう言った。すなわち水と食料品はすでに一部分船に送られた、そして四頭の牛と一頭の山羊もある、そしてホーゼマンは今やそれを持参して船に行き、できる限り、彼がスヒンメルとともに戻って来るよう心を配ることになっている。(長崎オランダ商館日記206p)』
と記録されているが、実は図書頭が立腹して奥へ行き、上條徳右衛門が戻ってくるまでに長く激しいやり取りがあった。その内容を次の章で展開する。
ここで留意しておきたいのは、「補給の決断」で取り上げたようにこの時の図書頭の指示である。
『波戸場役呼出し野菜薪蕪根キ等用意申付御代官手代え水船壹艘早々差出候やう申渡』(「崎陽日録」19p)、つまり1艘の水船と野菜類である。水を必要量与えてしまえば出港してしまうかもしれない、水が必要なうちは出港しないだろう、という計算からであった。
上條徳右衛門が言ったように8月16日の16時以降、ホウセマン解放のあとに水1艘と野菜類が届けられた。これが第1回目の補給である。
これについて次の章で詳述する。