第49章「補給の決断」で、図書頭が補給を指示して食料や水の用意に取り掛かり始め「恐らくてんやわんやの作業であったろう」と述べた。その作業の詳細は記録されていないし、いつ頃準備が完了して補給の船々がいつ出船したかは分からない。
だが、沖にいる検使達にも図書頭の意図は伝達された。
それは「水野菜の件については紅毛人を受け取ってから届けよ(崎陽日録25p)」との指図であった。
沖へ出ていた菅谷/上川/人見/荒堀検使達4人とその他の面々は首を傾げた。それは「紅毛人を受け取ってから届けよ」の可能性である。果たしてそれが可能だろうか、という事だったろう。沖合にいて、巨大な異国船を監視している彼らと、庁(奉行所西役所)から指図する図書頭との現実感覚のずれであったろう。
この時沖にいたのは検使4人と山田吉右衛門、花井常蔵、木部幸八郎という図書頭配下の幹部の殆どに加え、大通詞の石橋助左衛門と名村多吉郎(名村は年番大通詞)である。
「他ならぬ食料の補給である。ここはまず異国船が求めるものを渡した方が良いのではないか」という意見に評議一決し、全員で庁へ向かった(崎陽日録25p)。
奉行という長崎統治機構の絶対者に反対意見を述べるのであるから、一人で向かうのはとても覚束なく、全員揃っての行動となった。恐らく決死の心持であったろう。それが「全員揃って」に現れている。
なんと図書頭はこの意見を聞き入れた。前にも数回述べたが、図書頭は頑迷な人物ではない。人の意見をよく聞き、その上でその意見に従うことをためらわないし恥としない。ナンバーワンは独裁に陥りがちであるが、図書頭は非常時であっても部下の正論を受け入れることが出来る人であったのだ。
沖で検使等が食料を届けることを優先すべきではないか、と討議しているころ、異国船たるフェートン号艦上ではペリュー艦長がホウセマンを呼んで「上陸して食料を要求して来い」と命じていた(ドゥーフ「日本回想記」英文版101p)。ホウセマンは命令を文書化することを求めたのでペリュー艦長はオランダ人水夫のメッツェラールを呼んで、オランダ語の文章を完成させた。それがこの事件を彩るハイライトの一つが生まれることになったペリュー艦長の最初の手紙である。
『オランダの会社に所属している二人の者は、ディルク・ホーゼマンとヘリット・スヒンメルで、そのうちのディルク・ホーゼマンは上陸するが、わが艦のスループ船(1本の帆付き小艇)で岸壁へ向かうことになる。艦長はわれわれ 〔両オランダ人〕を捕えて捕虜にした。そして船長はわれわれを昨日の五時以来拘留している。 そして (一人は) 今三時に船から降りる。 艦長は、次のように言った。 すなわち、できる限り速やかに食料品を送るように、と。そうすればスヒンメル氏が岸壁へ向かうようにし、そして〔船は〕 沖に出るつもりである。もし彼 〔艦長〕が食料品を今夕以前に得られない場合は、彼は明朝までには、帆走して来て、日本の小船や中国ジャンク船をすべて焼き払うつもりでいる。 (署名) 艦長グリットウッド・ベリュー』
既に前日の真夜中、フェートン号の船縁に出たホウセマンが食料などの要求を伝えてから半日以上が経過している。ペリュー艦長にしてみれば、その要求に対してドゥーフの返事を除けば日本側から明確な返事がないままだから事態の進展の遅さに苛立っていたのかも知れない。ドゥーフの返事には「二人のオランダ人を送り返すなら、私は貴下に、この国におけるオランダ人の上長〔商館長〕として私の名誉にかけて、貴下が、長崎奉行閣下から、水とその他の食料品を恵与されることを保証する。」とあったが、ペリュー艦長はこの時点では二人を先に解放する気は全く無かった。
「日本の小船や中国ジャンク船をすべて焼き払う」との脅迫文の手紙をメッツェラールが書き終えると、ペリュー艦長はホウセマンに警告した。
「食料を持って戻って来なければ、シキンムルは容赦なく絞首刑にされるぞ」、つまり帆船時代の絞首刑は帆桁から首吊りされることになる。
さらにペリュー艦長はホウセマンの上司のオランダ商館長ドゥーフに宛てた手紙も渡した。
こうしてホウセマンは2通の手紙を持ってフェートン号の短艇に乗り移った。
ここからは「崎陽日録」が記録している(26p)。遠見番の船五艘が異国船を遠巻きにして見守っていた。彼らは昨15日(和暦8月)早朝に白帆注進をして以降、既に30数時間以上も沖に出ていたことになる。不眠不休の可能性が高い。これは図書頭以下の奉行所の諸役人、ドゥーフ等オランダ商館員も同様だったろう。遠見番達は水や食事はどうしていたのだろう?戸町辺りから、あるいは大波止から届けていたのだろうか
それはさておき、5艘に乗り込んでいる遠見番達は異国船からバッテイラ(小舟)が降ろされ、10人ほどが乗り込むのを見ていたが、その船が彼ら目指して漕ぎ寄ってくるので一気に緊張した。弓や刀は持っていないが、船底に手鎗の用意があったのでこれを構えて今や遅しと待っていた、という。ここがオランダ人を乗せた船が異国船の急襲を受けた時に恐れおののいて海に飛び込んで逃げた水主(かこ、漕ぎ手)達とは違うところだ。遠見番は士分でこそないが、奉行所の役人(中級以下ではあるが)であり、元を糺せば『召し抱えられた遠見番は、 江戸時代初期に多くの大名が改易され、天下にあふれ出た浪人たち』(「白帆注進」21p)であるから、いざという時の覚悟のほどは水主たちとは違う。
余談ながら野母遠見番所には、大鷹丸、小鷹丸(共に四反帆)、鯨船二艘が備えられ、槍六本、樫木棒五本、鍵付早縄三筋、時計常香盤、飛口三本、長縄三ツ筋、弓張提灯二張、火消道具一揃、遠目鏡七挺、高張燈籠二張、張田子十五、手鎖三ツ、三ツ道具揃が装備されていた。遠目鏡七挺などは恐ろしく高価であったろう。