56 名乗る

事情は分からないが、ドゥーフの手紙を異国船に届ける役目を負った甚左衛門らの船は出発が遅れた(崎陽日録)。付き添っているのは検使(奉行所からの使者/監督/見届け人)ではなく、格下の地役人である御役所付の溝口仙兵衛である。

そのため甚左衛門等を派遣した後に両番所の人数揃え督促を命じられた人見左衛門と荒堀五兵衛が先に両御番所へ着いたが、両番所督促はやはり無駄骨であった。人数は相変わらず揃わず、佐賀藩支藩の諫早藩の増援も「来るはず」とは言うが何時の事か明言はない。

そのため、昨夜来沖に出たままの検使二人(菅谷保次郎と上川伝右衛門)に人見と荒堀の二人は合流した。

人見と荒堀は「水と食料などの補給品を渡すことにした」という図書頭の指示を出ずっぱりの菅谷と上川に伝えている。

夜明け頃、菅谷保次郎と上川伝右衛門はドゥーフが望遠鏡で異国船を観察して「イギリス軍艦」だと判断したのと同じ頃に、望遠鏡で異国船を眺め「バッテイラ 3、 4 艘を異国船の周りに下ろし異国人 5 、6 人ずつ乗り込みまずは穏やかな様子」と観察している。オランダ渡りの望遠鏡は当時相当高価なものだったと思われるが、さすがに奉行所にはいくつもの備えがあったようだ。

そこへようやく甚左衛門一行が現れた。検使4人は甚左衛門一行の中の御役所付溝口仙兵衛に「両御番所は未だ準備が出来ていない。諌早勢の到着も次期不明」との情報を持たせて、西役所へ伝令として行かせた。

その上で、検使4人は協議し、甚左衛門と西義十郎を付き添い無しで異国船へ送り出すことに決したようだ。なぜ検使が誰も付き添わなかったのかは記述がない。多分、通詞二人のみの方がかえって安全だとの判断があったのかもしれない。

こうして勇敢にも甚左衛門はまた護衛も無しに異国船へ赴いた。この後の異国船と甚左衛門一行のやり取りは記録が残っていない。

甚左衛門一行はシキンムルが書いた返書を持ち帰った。

この手紙が西役所へ届いたのはドゥーフの商館日記によれば午後12時半である。

『尊敬する閣下へ 食料品が船積みされたなら、われわれは直ちに解放されるはずです。船長はこれ以上必要とするものがなく、そして閣下の友情に対し謝意を表するよう命ぜられています。私は取急ぎ署名します。閣下の従僕、(署名) G・スヒンメル (下に)船長は、病人たちがいるので、牛または山羊いく頭かを要求しており、 それがなければ閣下〔船長〕 は出発することができない。 長崎投錨中のイギリス・フリゲート船の船長 (署名) グリットウッド・ベリュー』

これはついにフリートウッド・ペリュー艦長が自分の名前を明らかにした瞬間である。

この手紙はすぐに年番大通詞の中山作三郎の手によって翻訳され奉行へ届けられた。

これを読んだ図書頭はひとまず彼が「御国が預かる大事な客人」が戻りそうだという感触を得ただろう。だがこれまでの無法を考えると信用するわけにはいかない。

図書頭はドゥーフを呼んだ。尋ねたのはこの要求に従うかどうかである。

ドゥーフの答えは以下の通りである(「長崎オランダ商館日記4 204p」)。

『それは奉行のお望みしだいであるが、しかし私は、それがイギリス船であることは明らかであり、したがってオランダ人の敵であるから、彼〔船長〕は、食料品や水を得られないまま捕虜を解放するとは考えない』。つまり与えるべき、ということだ。これに対し奉行はさらに尋ねた。

『食料を与えれば彼らは解放されると思うか?保証することができるか?』と。

これはドゥーフにとっては厄介な質問であった。会ってもいない敵将の言葉を保証など出来ない。だが部下の二人を解放する一縷の望みはそこしかない。

『私は確かなことは言えない、 それは敵の言葉を決して当てにしてはいけないからである、しかしながら奉行がそれを承認するならば、水と必需品を送ってそれを試すことはできるだろう』

ここで注意しておきたいのは、この言葉遣いは彼の日記に残された文章の翻訳であって、ドゥーフは最大限の敬語を使って(例えば“御奉行閣下へ申し上げます”などの表現)会話をした筈である。日記によれば二人の会話はここまでで、その後まもなく年番大通詞の中山作三郎が来て『奉行は、 彼 〔船長〕 に水と必要とされる食料品とを送ることを決定し、[奉行〕 閣下はそれらすべてを準備するよう命令を出した』と伝えている。この決定にはドゥーフは密かに安堵したことだろう。ドゥーフには成算があった。

牛も山羊も出島でオランダ人の食料用に飼っている。これを提供すれば、捕らわれている二人が解放されることになるのだ。

この例でもわかるように、図書頭は人の意見をよく聞き、その上で冷静に判断する能力があるという事だ。

だが一方で彼は武人としての務めを忘れてはいない。シキンムルの手紙によれば、水や食料、さらには牛または山羊を与えれば出航する、という意図が明らかである。

『不体の事など尋ねることができないまま出帆することになれば打ち壊すことを肥前の家来に命じよ』と指示し、沖に待機する4人の検使達(菅谷/上川/人見/荒堀)に伝達された。この指示は検使達によって、戸町と西泊の両番所の番頭(戸町番頭は蒲原次衛門、西泊番頭は鍋島七左衛門)に命じられたが、番頭たちは手勢もなく佐賀藩からの増援がいつ来るかの確証もなく、臍を嚙むしかなかったろう。この番頭二人は、事件後の取り調べで「異国船から発した小船三艘が番所前のを通過した(8月15日/陽暦10月5日夜)のを阻止しなかった」ことを理由に切腹を申し付けられることになる。

時刻はこれよりかなり前と思われるが、両番所に派遣された用人木部幸八郎は「沖御番所紅毛オランダ人取り戻すことを心がけず」(通航一覧416p用部屋日記)と報告している。このことからも両御番所は人手がなく、動きようがなかったのがわかる。

この頃、4人の水夫を乗せた小型ボートが異国船(フェートン号)から出て、御番所近く(崎陽日録には戸町か西泊かは記述無し)まで漕ぎ寄せて来たので船を出すとすぐにフェートン号方面へ戻るという出来事があった。これについてドゥーフはその回想記に『後になって、船長自身がそのボートに乗っていたことを知った。もしこの乗組員が私の手に落ちれば、我々の人々との交換を簡単に手配できただろう。しかし、もし彼らが日本人の手に落ちれば、日本人の興奮状態を考えると彼らの命が危険にさらされ、それが今度は我々の同胞2人の命も危険にさらすことになっただろう。そのため、小型ボートが日本の船を見て自分たちの船に漕ぎ戻ったときは大いに安堵した。』と書いている。しかしこのことはリアルタイムの記録である商館日記に記述がない。またフリートウッド・ペリュー艦長自身の報告書にも記載がない。ただ冒険好きなフリートウッドの性格を考えれば十分にありそうなことである。