ここで暫し時系列の出来事の進行を離れて、いざ危機が起こったときの人々の勇気と、真反対の恐怖に捕らわれて義務が果たせない情けなさの例を見ていきたい。
まず始めは当時の人々の国家観、いや公共意識というべきか、「公(おおやけ)」への意識がどうであったかを考えていきたい。侠気を「おとこぎ」と読みたい。
文化年間、「日本」という国が人々に認識されてはいたが、それは「国家としての日本」ではなく、江戸幕府のことを「公儀」と称していたから「公」と言う概念は「江戸幕府が取り仕切る社会」のことであったろう。天皇を頂点として抱く国学がこの頃本居宣長や平田篤胤らにより興隆し始めていたが、人々の間にその国家観が浸透するにはもう少し時間が必要であった。
だが当時の人々の「公(おおやけ)への奉仕」と言う意識は今の社会よりずっと強烈だったことが、この事件の展開の中で読み取れるのである。
41章で詳説したように、松平図書頭は老中への第一報で「オランダ人を拉致したまま出帆するようなら佐賀藩福岡藩に打ち砕くように命じた」あと、「焼き打ち出来るよう準備が出来れば即刻出動せよ」と指示している。
その夜、末永甚左衛門がホウセマンの書簡を持ち帰り、異国船が水食糧を要求していることからドゥーフの提案に応じて補給を命じた図書頭ではあったが、一方で国法を無視してオランダ人を拉致した異国船を「焼き打ちにして打ち砕く」決意は揺るがず、その準備を佐賀藩福岡藩に急がせることになる。これはこの後の章で詳述する。
焼き打ち準備の噂はあっという間に広まったと思われる。長崎中の港湾関係者を動員する作業になるからだ。
用部屋日記によれば五箇所宿老が揃って奉行所を訪ねたのは8月16日(陽暦10月5日)の午後のことである(正確な時刻は不明)。「五箇所宿老」とは、京都、堺、長崎、江戸、大坂の五つの主要都市において、それぞれの都市の商人や行政を取りまとめる役職である。長崎での貿易実務をほぼ全部担っている商人たちである。
彼らは「私どもは先年南蛮船焼き討ちの際、船仕切りは宿老が一手に引き受けさせられた例があり当時は力及びませんでしたが手附人足が五箇所会所に集合しておりますので いつでもご用命ください」と申し出たのである。五箇所会所は西役所の北側、西役所表門から緩い坂を100m下った今の江戸町公園から文明堂裏あたりにあった。集合した人数は不明だが、この手勢は焼き打ち準備には必須のマンパワーであろう。
この「先年南蛮船焼き討ちの際」と言うのがどの事件を指しているのかは不明である。実際に南蛮船焼き打ちが行われたのは慶長14年有馬晴信がポルトガル船を攻撃して沈めたが、幕府の命で長崎奉行が通商を願いし出て渡来したポルトガル船二隻を長崎港に500艘 の軍船で包囲封鎖したのは寛永16年(1639年)である。実際に焼き打ちは行われなかったが宿老達が言うのはこの寛永16年の事件を指すのだろう。各藩から動員された500艘の軍船でポルトガル船を包囲したが、「その節お役に立てなかった」と言うのは民間の包囲参加が要請されなかったという意味だろうか。
さらに大阪堺の宿老も参上し(五箇所宿老と同道か?)「二、三百石から千石積みの廻船が凡そ20艘も長崎港にただいま停泊しておりますので、御用立てください」と申し出た。
千石積み廻船は当時の大型廻船の中で最もポピュラーで船数も多かった和船である。今の単位で言えば約150トン。建造費は1000両から1400両。時価に換算すれば六千万円から1億円になる。その千石廻船も含め、今港内にあるすべての廻船を差し出すと言うのだ。
これらの廻船は焼き打ちの際には藁や薪などの可燃物を満載して火を付け、異国船に衝突させるために用いられる。20艘すべてが焼き打ちで失われることになるだろう。だが躊躇なく「お使いください」と申し出たのだ。その作業を五箇所会所に集合している手附人足達が実施することになる。
この時の長崎の町は『旅人たちは先を争って逃げ出し、田舎から来ていた奉公人たちも次々と逃げ帰り、この一両日(数日間)は町中で魚なども売れ行きが悪く、よく売れているのは蝋燭(ろうそく)と草鞋(わらじ)だけ』と視聴草は伝える有様で、奉行所では図書頭付の医師足立梅栄が『玄関を始め詰め役所に人無きはいずれも臆病という病か腰が抜けたと見える 梅栄が薬を与えようと號(叫び)たてた』ほど役人たちも逃げまどい、図書頭をして『日頃猪武者と呼ばれる者もこの時に臆している いわんや猪武者で無い者はなおさらである』と嘆いた体たらくであった。
こういう阿鼻叫喚(あびきょうかん)さなかの、彼等宿老達の気力胆力は武士に全く引けを取らない。そして危難をもたらした異国船を焼き打ちするなら身を挺しましょう、という心構えなのだ。
この動きは宿老達にとどまらない。
五箇所宿老らが参上して「港内にある廻船を異国船焼き打ち用にお使いください」と申し出たのと同じ頃、市内の朱座の者が参上し「御用があれば何なりとお命じ下さい」と申し出たのである。朱座とは、朱や朱墨の製造販売商人の組合である。文書の記録のほぼ全てが墨書であった当時、墨のみならず朱墨(書道の添削などに用いられる赤い墨)は記帳の訂正用に大きな需要があったと思われる。特に毎日大量の文書が作成される奉行所は大切な顧客であったろう。にしても、である。廻船問屋は焼き打ち用の船を提供できるが、朱墨の業者が何を提供できるのだろうか。考えられることは、何を提供できるかどうかより、奉行所の苦境と長崎の町に覆いかぶさった暗雲にじっとしていられず「何とかお役に立ちたい」という気持ちの表れではなかったろうか。彼らもまた逃げ惑うことはせず、「我々は御奉行とともに」踏みとどまって戦うという意思を見せたのである。たかが文房具業者と言うなかれ、の心意気なのだ。
実は当時の人々の「公」への献身の別の例を、我々は既に「15章スチュワートの登場」で見ている。10億円相当もの銅をだまし取ったスチュワートは長崎港を出帆するときに嵐に遭遇して木鉢浦に沈んだ。その船を総経費五百両を自費で負担して引き上げたのが、鰯漁長者の村井喜右衛門であった。老中からも褒詞を下されたこの義挙も、当時の人々の自分の富を惜し気もなく投げ出しての「公への献身」の現れである。
こういうことは言いたくないのだが、私自身も含めて今の日本人にこの覚悟があるかと言えば、残念ながら否定させざるを得ない。
この章を書いている時点(2024年8月)で、日本では自己実現に象徴される「個人の幸福」には夢中だが、「公共への献身」が説かれることはない。災害被災地への救援ボランティアは盛んだから日本人の思いやりには何の陰りもないのだが、社会の徳目として「公」に報いる、と言う心構えは明らかに軽視されている。「命こそ最も大事」とされるのはいいとしても(これは太平洋戦争で兵や国民の命を消耗品として扱った反動であることは明白だが)、「(公のために)やるべきこと」は語られず、「(公のためになることは)しない、やらない」が利口な生き方として跋扈(ばっこ)している。
江戸時代の日本人の姿を知ると、大いに考えさせられるのだ。