食料と水の補給を命じた図書頭は、だが異国船への攻撃準備も同時に手配した。
長崎奉行にはいくつもの貌がある。大権現家康公より特許状を下賜された国家的賓客のオランダ人を保護する保護者としての貌。それがドゥーフの意見を受け入れて、オランダ人を安全に取り戻すために、異国船の理不尽な要求に屈して彼らの求めるものを補給することにした。だが長崎奉行のいくつもの貌のなかには、 国の玄関口である長崎や九州などの西国を守る立場という武人の貌もあれば、貿易を振興して幕府への運上金(長崎からの献金)を増やす立場という経済人の貌もある。また江戸の町奉行のように、長崎の町を統括し犯罪を断ずる検察官/裁判官と言う貌もある。江戸初期に極めて重要な職務であった禁じられた耶蘇教を取り締まる役目はこの頃は殆ど重要ではなくなっていた。
オランダ人を助ける保護者としての行動をとったあと、図書頭は武人の貌に戻った。国法を犯して入港しオランダ人を不法に拉致した異国船を打ち壊さなければならない。
相変わらず両御番所の人数が揃わないとの連絡が舞い込む中で、図書頭は佐賀藩聞役関傳之允の呼び出しを命じた。この呼び出しは異国船の事件発生から何度も繰り返され、その度に関傳之允は根拠のない言い訳を重ねるばかりで、相当参っていたろう。「今度は奉行は何を言われるか?」と戦々恐々として西役所へ赴いたに違いない。佐賀藩屋敷はいまの(惣町地図を挿入)ホテルニュー長崎(長崎駅前)のあたり、港に面していた。ちなみに他の藩の屋敷もこの並びに多くあり、いずれも港に面していて、それぞれの船着き場があり、そこから船で丸山などの繁華街へ出かけることが出来る。
藩屋敷から西役所までは歩いて750mほど、当時の人の足なら8分前後で着く。或いは急ぎ参上するため西役所下の江戸町まで船を出したか?
崎陽日録と通航一覧の記録の問題点は、時刻に無関心なことである。通航一覧に収録された上條徳右衛門の用部屋日記も同様である。「五つ時頃」などの漠然たる表現ばかりなのだが、これは(8時から10時)と言う範囲なので、緊急事で様々なことが同時に起こるような事態だと、殊の前後の判定が難しい。しかも時刻の記述がないことも非常に多い。わずかにドゥーフの商館日記だけが時刻を記している。
これは普段の生活においては、時刻の厳密性が求められていなかったという事情もある。秒刻みの現代と違い、当時の人々は「五つ時前」「五つ時ごろ」「五つ時過ぎ」という大雑把な時間感覚で何の痛痒も感じなかったのであろう。長崎の町には恐らく大量の時計があったと思うが、それは宝石のような飾り物で、実用には用いられなかったと思われる。
そういうこともあり、4日の夜から5日の朝にかけては出来事のタイムラインの設定がかなり困難である。
図書頭が佐賀藩聞役関傳之允を呼び出したのが何時なのか?恐らくこの夜一睡もしていないから、夜明け前かも知れないし、西国長崎の遅い夜明けの頃かも知れない。東の空が白み始めた頃であったろうか。
ここで「聞役」について説明しておこう。
聞役の役目と長崎での生活は、山本博文「長崎聞役日記」(以下「聞役日記」と略)に詳しい。西国九州の14藩はオランダを通じた貿易や世界事情を知るために、幕府直轄地で出島にオランダ商館がある長崎に聞役を常駐させた。福岡藩佐賀藩など六藩は年間駐在の「定詰(じょうづめ)」、薩摩藩長州藩大村藩島原藩など八藩はオランダ船が入港する期間に駐在の「夏詰」であった。情報収集が主任務であるから、無骨ではなくむしろ如才のないタイプの藩士が選ばれたであろう。役目柄活動費も潤沢であったと考えられる。今もそうであるが情報はただでは入手できない。贈答が当たり前の当時ではなおさらである。15章で触れたように、平戸藩の聞役が主君の買い物(もちろんオランダ渡りである)をする役目もあったから、目利きでなければならない。気の利いた人物でなければならなかった。また聞役は各藩が長崎に置く蔵屋敷の責任者でもあったから、軽輩では務まらない。
聞役同士は情報交換を兼ねて活発に交流していたようだ。長崎の事であるから、その興隆は日本有数の花街である丸山で行われた。港に面した蔵屋敷から小舟に乗って出島を廻り、銅座町から陸へ上がった。まず、『⻄浜町の薩摩藩聞役のところへ昨⽇の挨拶に⾏き、それからいつも使っている⼭辺(丸⼭を指す)の釜屋へ⾏き、酒宴ののち四つ時(午後⼗時)頃に帰館した。(聞役⽇記78p)』。これは平戸藩の聞役野元弁左衛門の日記(嘉永2年1849年)の一節である。彼は平戸藩主の買い物をした聞役である。また別の日には『八つ(午後二時)頃より福岡藩間役のところへ行き、佐賀藩聞役もやってきて大勢になり、大酒を飲んだ』と、日中から結構な身分であった。フェートン号事件から40年、聞役たちの日常には緊張が感じられない。
1808年当時の関傳之允もそんな聞役の一人であったのだろう。
だが異国船が出現して以来、彼の日常は一変した。当時の或る書状は関傳之允が図書頭から呼び出された回数を17回と伝えている。この夜明けの呼び出しは既に7回か8日目に当たるが、図書頭の関傳之允への信頼は全く失われていたと言ってよい。それは関自身もわきまえているだけに気が重かった筈だ。
関が西役所に着くと図書頭は「焼き打ちについての準備はどうなっているか。焼き打ちの方法について説明せよ」と命じた。これは昨15日、オランダ人拉致の急報を受けて関傳之允に「すぐに紅毛人二人を取り戻したうえで、正徳年間(これは「通航一覧」の誤記。実際は慶長14年1610年。198年前の事件)に南蛮船を焼沈させた例に倣い船を打ち砕き焼沈させるので焼草火船(乾燥した燃えやすい木片や草を満載して火を放ち敵船に接近して類焼させる船)その他の準備をして書面にて報告せよ。敵船には秘密にして(悟られるな、という事だろう)国許へ増援を直ぐに要請せよ」(通航一覧403p)と命じたことの結果を報告せよ、ということだ。
しかも「怯懦」の章で記したように、図書頭は愚図愚図していると異国船が出版してしまうのではないか、という危惧もあった。違法行為への処罰も無しにみすみす出航することは断固として阻止せねばならない。
だが関には焼き打ちについて何の知識もなかったし、図書頭に命じられた「焼沈の例に倣い準備をして書面にて報告」の作業をした様子は見られない。五箇所宿老たちは「かつての南蛮船焼き打ちの際、力及びませんでしたが手附人足集合させておりますので何でもお申し付けください」と申し出たが、果たして関は慶長14年(1610年)の南蛮船消沈、正保4年(1647年)の南蛮船封鎖の故事を知悉していたのかも怪しい。
「焼き打ちについては承知しておりません。直ぐに深堀藩(佐賀藩支藩、長崎港南部や島々を領有)の役人たちに命じて文書にて提出いたします」と答えるのが精一杯だった。
続けて図書頭は「佐賀藩の警護可能人数を差し出せ」と命じている(「崎陽日録」23p)。どうやら未だに関傳之允は佐賀藩の動員可能兵力(在長崎兵力と佐賀からの軍勢)について正確なことを把握していなかったようだ。
図書頭の口調は厳しく、関はただただ平身低頭するばかりであったろう。
関の言う深堀藩にしても未だ人数(軍勢)揃う気配がなく、稲佐方面へ警護に出した長崎代官高木作右衛門を呼び戻し、野母支配所(野母半島の幕府直轄領のことか? 椛島、脇岬、高浜は異国船出入り監視のため直轄領となり、遠見番所が設置された)の警備に赴くように指示し、高木作右衛門は即刻出発した。番船による移動であったろう。
岩原目付屋敷の支配勘定人見藤左衛門を始め奉行所は総出で西泊と戸町の番所に出かけ、そこからは次々に「いまだ人数(軍勢)揃わず」の報が次々に舞い込み、「諌早(諫早藩は長崎の東北東40kmにある佐賀藩家老家、2万5千石)からは何時軍勢が出発するのかの連絡も来ない。焦燥は深まるばかりであった。
関傳之允ではらちが明かないので図書頭は、窮余の策で自ら異国船打ち壊しの方策を尋ねることにした。世界では焼き打ちをどうやっているのか、オランダ商館長ドゥーフなら知っているかもしれない。