50 幕閣への急報

一方で、この大混乱のさなか、図書頭は江戸へこの大事件の勃発を伝えるという緊急の任務があった。それに着手したのはこの初日(旧暦8月15日)の夜である。が、この夜は異国船小艇から異人たちが上陸したというデマが流れ飛び、図書頭は自ら大波止へ出陣し、さらに異国船へ向かった検使二人と小通詞並の末永甚左衛門がホウセマンと会い手紙を持ち帰るという、それこそ分刻みで事態が急転した。そのため注進状を作成した様子を記録した用部屋日記を読んでも、それが前述のいろんな出来事の中でいつ頃なのかが特定できない。

用部屋日記よれば、熊谷興十郎が書面を作成し、奉行以下で読み合わせし(上條も含まれるだろう)その内容を吟味したとある。呈書とは、長崎奉行所の御白州での判決など公文書を作成する係で、熊谷興十郎は検使に出た菅谷保次郎と上川伝衛門等とともに昨年の図書頭赴任に伴い、長崎へ来た6人の与力の一人である。読み合わせは、老中への報告であるから内容に手違いはないか、正確に伝わる文面であるか、書式に手抜かりはないか、そしてどういう事柄を緊急報告に含めるべきか、の確認であったろう。

その原文は「通航一覧」421p上段から下段に収録してある。

文化五年八月十六日松平圖書頭御屆 

十五日辰刻比白帆船相見候段深堀詰松平肥前守家来注進いたし、幷野母御番所遠見番之者共より、阿蘭陀船之段、追々注進申出候付、検使之者差出、爲旗合在留紅毛人二人召連、神崎辺において右船近寄候處、右船よりも紅白青之旗差出、疑敷も無之阿蘭陀人之旗印に付、猶近寄通辯仕候處、紅毛船にて 咬留肥仕出しに候段、紅毛言を以申聞候間、乗移り可申處、右船より小船を下し十四五人下立、紅毛人乗船に近寄、遂對談候趣相見候處、右十四五人之者共剣抜き連、水主も驚、右爲旗合罷出候紅毛人二人を召捕本船に連行、理不盡之様子相見候得共、荒立候而は直に帰帆可仕候も難計候に付、其儘検之者罷り帰り、右之趣申聞候、先穏に取計、若ヲロシャ船に御座候得は、湊内に蝦夷地亂妨をも相糺候積に付、又々検使之者差出、本船に乗移召捕候紅毛人二人取戻候樣申付差出し候、若紅毛人差戻し不申、其儘帰帆仕候様子に御座候は右打碎候様、松平肥前守、松平官兵衛申達候、右は當御番所、其外厳重に相備候様申渡候

一)夜六ッ時過小船二三艘人數二三十人程乗組、湊内乗入候段注進申出候付、早々召捕候様、両御番所検使を以て及差圖、猶又當所詰聞役之者(関傳之允)にも其旨申渡候處、夜中之儀故聢と不相分、右小舟乗帰手合不仕候事

一)右に付、大村上総介にも人數差出、陸地相固候様申達、其外近国諫早聞役にも右之趣申渡、此上類船等も相増候様子候はば、人數差出候可申達、委細之儀は吟味之上、猶追々可申上候事、

八月十五日 松平図書頭

少し嚙み砕いた文は以下のようになる。
長崎奉行松平図書頭、畏み畏み謹んで老中様へ御届申し上げます。
去る十五日辰刻、白帆船相見候段、深堀詰松平肥前守家より注進いたし、並びに野母御番所遠見番の者共よりも、阿蘭陀船の段、逐一注進申し出候につき、検使の者差し出し、為に旗合在留紅毛人二人召し連れ、神崎辺に於いて右の船に近寄り候処、右の船よりも紅白青の旗差し出し、疑い無き阿蘭陀人の旗印に付き、尚も近寄り通弁仕り候処、紅毛船にてバタビアからの船であると紅毛言葉を以て申し聞け候間、乗り移り申すべきところ、右の船より小船を下し十四五人下り立ち、紅毛人我が船に近寄り、遂に対談仕り候趣相見え候処、右十四五人の者共剣抜き連れ、水主も驚き、右の為に旗合罷り出で候紅毛人二人を召し捕り本船に連行し、不尽理の様子相見え候とも、荒立ち候いては直ちに帰帆仕り候も難計り候につき、その儘検使の者罷り帰り、右の趣申し聞け候。まず穏やかに取り計らい、若しロシア船に御座候えば、湊内に於いて蝦夷地乱妨をも糺明候積りにつき、再び検使の者差し出し、本船に乗り移り召し捕り候紅毛人二人取り戻す様申し付け差し出し候。若し紅毛人差し戻し申さず、その儘帰帆仕り候様子に御座候えば右打ち砕き候様、松平肥前守、松平官兵衛に申し達し、右は当御番所、その外厳重に相備え候様申し渡し候。
一)夜六つ時過ぎ小船二三艘人員二三十人程乗組み、湊内乗り入り候段注進申し出候につき、早々召し捕り候様、両御番所検使を以て差し図り、尚また当所詰め聞役の者(関傳之允)にもその旨申し渡し候処、夜中の儀故聢と相分からず、右の小舟乗り帰り手合せ仕らず候事。
一)右に付き、大村上総介にも人員差し出し、陸地相固め候様申し達し、その外近国諫早聞役にも右の趣申し渡し、此上類船等も相増し候様子に御座候えば、人員差し出し候可く申し達し、委細の儀は吟味の上、追々申し上げ候事。
八月十五日 松平図書頭

以上が松平図書頭の報告である。ポイントは次の点である。

  • ロシア船の可能性に言及しつつも国籍を特定できていない
  • オランダ船に完璧に偽装してオランダ人を拉致したこと
  • 検使の怯懦逃亡には触れず彼らの言い分をそのまま採用したこと
  • 検使にオランダ人を取り戻すよう命じて再派遣したこと
  • オランダ人を拉致したまま出航するようなら焼き打ちするように佐賀藩福岡藩に命じ御番所の厳重警戒を指示したこと
  • 小艇二、三艘が港内を徘徊したので両御番所に召し取るよう命じたこと、聞役にも同様に命じたこと(ここで関傳之允の名前を明記していることは注目すべきだろう)、その上夜中のことでこの小艇を見逃したとも述べている。
  • 大村藩主に陸地(長崎港近辺に島などの領地が多い)の警護を命じ、諫早藩(佐賀藩支藩。深堀藩に次いで長崎に近い)にも同じく命じ、もし他にも来航船があれば軍勢を差し出すよう命じた。
  • 「通航一覧」によれば、熊谷興十郎による原案には異国船が入港しオランダ人を拉致した、と言う急報であったが、奉行以下の読み直しの段階で港内への小艇の乱入の件と、焼き打ちを命じたことを書き加えさせた、と言う。

先にも述べたようにこの文書をいつ作成したかは分からないのだが、十五日の日付のまま翌16日になって御用状を差し立てた。本来ならホウセマンの手紙によって、水食糧が目的で来航した、との情報も付加できるはずだが、御用状を書き直すより早急に送るほうが優先されたのだろう。この書状は、老中宛と、長崎へ赴任のため下向中の曲渕甲斐守景の旅先へも刻付け町使を派遣して届けられた。刻付けと発進時の時間のことである。町使は現代の警察官に似た役割の地役人である。また佐賀藩福岡藩へも同じく送付された。
この老中宛の御用状が何時届いたのかは「通航一覧」には記事が無いが、同じころ長崎警備の役目を負っていた諸藩からも老中への報告がたくさん発信されている。異国船到来とオランダ人拉致に関して自藩がどのような指令を長崎奉行から受けて、どのような対応をしているかの報告である。これは幕府が極めて有効に諸藩をかの統制していたかの証でもある。
諸藩の急報の中で一番早く着いたのは福岡藩主松平官兵衛からの第一報で、これは8月27日に江戸に着いた。内容は「十五日夜家来呼び出され異国船異人端船にて港内乗り回しの風聞有り(略)港内に来たら一人でも召捕る様命じられと報告がありましたのでこの件国許家老より申し上げるよう連絡がありました」というもので、15日夜の異国船小艇が港内徘徊の直後に発送されたものだろう。
一方、大村藩からは16日付で、奉行松平図書頭の命令で軍勢を出動させたとの報告であるが、これは遅れて9月3日に老中土井大炊頭利厚に笠坊八助が持参したというからこれは侍飛脚と思われるが、なぜ6日も遅れたかというと赤間の関渡り(関門海峡)と大井川の満水で待たされたからである。わずか1日の差でこれだけの差が出たのは、台風の季節のせいではないかと思われる。
旅中の曲渕甲斐守景に何時届いたのかも分からないが、この急報を受け取り次第旅を急いだと思われるが長崎到着は9月1日であるから、長崎から約2週間の旅程にあったと思われる。
前の章でも既にふれたが付け加えておけば、長崎奉行は二人制で一人が江戸勤務(在府)。一人が長崎で実務を行う。この二人の連携は緊密で、文化年間のこの頃は奉行は一年勤務で交代が多く、前年に松平図書頭と交代した曲渕が、一年後再び交代のために長崎へ赴任中だったのである。