49 補給の決断

甚左衛門一行にドゥーフの手紙を届けることを命じた後、図書頭は「オランダ人二人を取り戻すために求めている品々を用意せよ」と命じた。

崎陽日録によれば、

付其旨波戸場役呼出し野菜薪蕪根キ等用意申付御代官手代え水船壹艘早々差出候やう申渡右品々取揃え差遣し沖検使差図を相請渡し候様申付遣す又御船頭隠居土師喜八再勤の事水主共帶刀願書御代官手代持參す 此節非常の義にも有之間支配にて程能樣取

すなわち「その旨を伝え、波戸場役を呼び出し、野菜や薪、蕪、根木などを用意するよう指示し、御代官の手代を通じて水船一艘を早急に差し出すように伝えた。右の品々を揃えて送り出し、沖にいる検使に指図を請け渡すように指示した。

また、御船頭隠居の土師喜八が再び勤めること、水主たちが帯刀することについての願書を御代官手代が持参する。この非常時にあたって、適切に処理するよう指示した。」

長崎には水船(みずぶね)というものが存在していたことがわかる。廻船などに水を補給する役目で長崎奉行所の監督のもとで行われていたという。奉行所は水の供給に関する規則を定め、適切な料金を徴収することで運営を支援し、水船の運営には地元の船大工や漁師などが関与し、船の管理や水の供給作業を行っていた。恐らく大きな専用の樽に水を満々と満たして、廻船や漁船に積み込んでいたと思われる。

実は日本側の記録には見当たらないのだが、ドゥーフの「日本回想記」(英語版)には次の様な記述がある。
『奉行は次に、要求された物資を送ることを決めたが、船の出航を遅らせる望みをもって、水はごくわずかしか送らないことにした』。
その結果送られる水船は1艘となったことになる。

補給を行うにあたって、その準備は大変であったろう。野菜や薪、蕪、根木を図書頭が指示したのだが、この時は長崎の町は大混乱で統制が取れていない状態である。その収集には人手もいる。歴史資料には何も残っていないが、現場の苦労は大変ではなかったろうか。恐らくてんやわんやの作業であったろう。だがそういう混乱の中にあっても、日本人の几帳面さは失われない。そのことは実際に補給品を届けた後の章で述べることにする。