ホウセマンが姿を現した、という報が届いた様子について、
『その時に、検使らと異国船に赴いた小通詞末永甚左衛門が奉行所に帰って来たからだ。なんと彼は拉致されたオランダ人の一人、ホウセマンと会って、手紙を託されたと言うのだ。』
これはドゥーフが書いた長崎オランダ商館日記(四 199p9に記された記述である。「通航一覧」の用部屋日記には『夜八つ時頃(午前2時・午前1~3時)末永甚左衛門戻る 沖の様子を奉行松平図書頭直に尋ねる(416p)』とあるので、末永甚左衛門が横文字(外国語)書簡を持ち帰り林輿次右衛門が付き添った、が事実であろうと思われる。
これは待ちに待った情報が遂に図書頭に到達した瞬間である。オロシャ船(ロシア船)かどうかもわからない謎の大型船がオランダ船を偽装して剣を振るってオランダ人二人を拉致したその意図は何なのか、夜の長崎港内を3艘の小艇で捜索したのはなぜか、検使や沖出役の者たちが口々に言う軍艦らしき重武装はいかなるものか?これまで一切の情報がなく、出迎えの検使一行も役所の人間も町中の人々もただただ恐れおののいて腰も立たない状況であったから、拉致されたホウセマンと会い、二人のオランダ人の無事が確認され、しかも書簡を携えて戻ったとあれば図書頭の興奮は当然であったろう。だが横文字であっても字数を見れば、極めて短い書簡であることは判った。そうであっても異国からの貴重なメッセージである。直ぐに末永甚左衛門を招き入れ、訳を命じた。その内容は、
『ベンガルからの船が一隻来ました。 この船長の名前はペリューと言います。〔船長〕閣下は水とすべての食料品に事欠いており、船長はそれを提供されるよう要請しています。(署名) ホーゼマンおよびスヒンメル』
というものであった。
図書頭はこの情報に眉をひそめた。確かに、水と食料が不足した船舶が禁止令を知っていながら長崎港へ助けを求めてきた例はいくらもある。だからといって日本の国法(オランダ以外のキリスト教国の入国を認めない)を破り、オランダ人を拉致する行為は許されるものではなかった。幕臣の中でもエリートである図書頭は法と秩序にとりわけ謹厳であり、彼の胸中には怒りが渦巻いていたが、同時にこの短い書簡は、「御国の預かり人」であるオランダ人を取り戻す端緒でもあることを理解していた。
末永甚左衛門は「船は非常に大型で四十門以上の加農砲(キャノン砲)を備えております」とも伝えた。これまで検使や遠見番、隠密方などがそれぞれの異国船観察情報を伝えて来てはいたが、間近から冷静に異国船を観察して来た末永の情報は、やはり恐るべき戦闘力を持つ相手と言うことが再確認できた。
「かぴたん(オランダ商館長)を呼べ」と命じすぐに現れたドゥーフに書簡を見せて問いかけた。「これが異国船の要求だが、もし水と必需品を彼らに与えたならば、拉致された二人のオランダ人は解放されると保証できるか?」と。会話は年番大通詞中山作三郎を介して行われた。語学の天才とも思えるドゥーフはこのあと9年も日本に滞在せざるを得なくなり、日本語で俳句を作り、初の蘭日辞典ドゥーフハルマを編纂するほど日本語に堪能になるが、この時期の日本語能力は判らない。たとえ日本語で奉行と会話が出来ても、それは通詞が許さなかっただろう。通詞の職権維持のためには、勝手に奉行と商館長が対話するなど許せないのだ。
ドゥーフはしばし考えて答えた。「御奉行閣下(これは実際に奉行を指す際の商館長の表現である)、残念ながらその保証はできません。何故なら、私は今やその船が確かに敵国の船であると推測するからです。」このような状況で安請け合いが危険なことは、日本滞在8年、商館長になって5年になるドゥーフにとってはよくわかっている。状況が暗転したときに責任転嫁(それは往々にして通詞たちによって行われた)されることがあるからだ。
図書頭は「ではどうするのが良いと、かぴたんは考えるか?」
そう聞かれたドゥーフの頭脳はすさまじい速さで回転しただろう。最初のショックは異国船に旗合わせに出たオランダ人委員二人が拉致されたこと、次のショックは異国船から発した小艇が出島を襲うだろうとの恐怖から西役所に逃げ込んだこと。だがいま二人は健在との報が入り、異国船の目的が水食糧の補給とわかってからは、ドゥーフはほかの危険と対峙しなければならない現実に気が付いたのである。
それは異国からの訪問者が世界の現実をもたらすことだ。世界の現実とは何か?いま現在のオランダは、家康が貿易の免許状を与えた「オランダ共和国」とは別物の「バタビア共和国」(Bataafse Republiekバターフセ・レプブリーク/フランス革命の理念を取り入れた新しい政府体制/1795年成立)となり、さらにはそれが1806年にはナポレオン・ボナパルトによって解体され、「ホラント王国Kingdom of Holland」が成立しているという事実だ。バタビアはシーザーの時代のライン川下流(現在のオランダ)に住んでいたBATAVI(バタウィ)を語源とする。
ホラント王国の成立は1806年6月5日で、この知らせは翌1807年アメリカ傭船のマウントヴァーノン号が出島にもたらしているからドゥーフは当然知っていた(「ドゥーフ『日本回想記』2章注11/191p」。
「23 レザノフ来たる!」で伝えたように、レザノフは当時の駐露オランダ大使の「レザノフ一行の手助けをするように」という指令をもたらしたのだが、この駐露大使を送り出した国は「バタビア共和国」であったから、ドゥーフはその事実を隠し通すために必死の努力をした。その再来が今回の異国船である。この異国船への日本側の対応次第で、どういうことが起こるか、予断が許されない。もし今のオランダは家康が免許状を与えた国ではないと幕府が知ったなら、祖法(家康が決めた掟)に極めて忠実な幕府は出島からオランダ商館を放逐するという可能性が非常に高い。頭の回転が速く、状況判断に優れた能力を持つオランダ全権大使ともいうべき立場のドゥーフには、フェートン号が長崎港にいる限り最悪の事態を常に恐れていたことに我々は留意する必要がある。
ドゥーフにとっては最善の道は、この異国船が部下のオランダ人を釈放し、何らの衝突もなく消えてしまうことである。だから異国船が水や食料の補給を要請しており、それが満たされればオランダ人を解放して退去するのなら、これは願ってもないこととなる。
ドゥーフは慎重に考えをめぐらした後、図書頭に提案した。
「もし船長がホウセマンとシキンムルを解放するなら、私(ドゥーフ)は彼に私の名誉にかけて水と食料品が与えられることを確約する、という内容の、短い手紙を一通、船長あてに書くべきだと思います」と言い(商館日記四/200p)、さらに「そのためには奉行閣下に手紙を送っていただく必要があります」と付け加えた。
図書頭にとって日本の国法を無視してオラダ人二人を違法に拉致した異国船の要求を吞むことは我慢がならないが、ここは我慢のしどころと言うのもよくわかっていた筈だ。
ドゥーフはまた食料についても確信があった。遠洋航海の船にとって貴重な食料の中には必ず肉が必要であり、牛やヤギは出島内の小さな農園で飼育しており、それが役に立つはずだった。図書頭の許可を得てドゥーフが作成した手紙は次のないようである。
『当湾内に投錨中の船の船長宛て
貴殿よ。現在私は貴下により船上に拘留されている二人のオランダ人から、貴下が水と若干の食料品とを必要としている旨の報告を受けている。もし貴下がこの手紙を受取りしだい、上記二人のオランダ人を送り返すなら、私は貴下に、この国におけるオランダ人の上長〔商館長〕として私の名誉にかけて、貴下が、長崎奉行閣下から、水とその他の食料品を恵与されることを会社印をもって保証する。 1808年10月5日、早朝1時
追って、貴下が必要とするものがあれば、どうぞそれを手紙にして両オランダ人に与えて欲しい』。
図書頭は年番大通詞中山作三郎に書面を確認させると、異国船との対応を経験した小通詞並の末永甚左衛門にオランダ商館長ドゥーフの手紙を持たせて、再び異国船に赴かせることにした。ともに従うのは義十郎と御役所付き溝口仙兵衛である。
この「義十郎」とは誰なのか?全資料の中で唯一「崎陽日録」にだけ『通詞甚左衛門義十郎に持たせてお役所付き仙兵衛が付き添い異国船へ派遣する』と登場する。
これは小通詞末席西義十郎のことだろう。レザノフの「日本滞在日記」にレザノフとの連絡役として頻繁に登場する。
西家は、西吉兵衛が徳川家康時代に南蛮大通詞に召し抱えられ(平戸時代)、さらに阿蘭陀大通詞に転じて以来の名門である。西義十郎はレザノフが滞在した文化元年(5年前)に小通詞末席であり、通詞社会の中では軽輩である(大通詞/小通詞‐小通詞助役‐小通詞並‐小通詞末席/稽古通詞)。このころも小通詞末席であったと考えられ、小通詞並の末永甚左衛門の補佐役として派遣されたのであろう
彼らが何時ごろに出発したのか詳細は判らない。のちの章の人見藤左衛門の出船との関連で類推出来るようである。