焦燥が極限に達した図書頭は端から見れば突拍子もないと思えることを思いつく。
大通詞中山作三郎が12時ごろにドゥーフを呼んで伝えたのは、
『奉行は二人のオランダ人を取り戻すまでに極めて長い時間がかかっているので非常に苛立っており、 そして奉行閣下は即座に秘書官に対して次のように命令した、と言った。
すなわち、彼、秘書官は舷側に行き、そして柔和な態度と丁寧な言葉をもって、乗船しようと試みなければならない、続いて彼は船長を訪ねる、 そして彼に極めて友好的に、また丁重に話しかけ、そして同人の来航の理由を尋ねよ、そしてもし彼が何か要求すべきことがあれば、彼がそれを言うように仕向け、その後秘書官は、もしそのようにして二人のオランダ人を解放するならば、彼〔船長〕の要求は満たされるだろうと言うように、そしてもし船長が、それをしようとしないなら、その場合は、秘書官は不意に広刃の刀をもって船長の首に切りつけ、そして自らは直ちに腹を切れ、と。
作三郎は私に、秘書官は行く決心をしていると言い、そして私の考えを質したので、私は次のように言った。すなわち、そのような狂気じみた攻撃は、私の考えでは、ほとんど利益がないだろう、というのは、そうすれば船長も秘書官も死ぬことになるし、目的を達成することにもならないからである。それよりも大勢の武装した兵員を船上に来させて、それによって強行しようとするほうがもっと良い方法だ、と。しかしそれに対して作三郎は私に、兵士たちがおらず、また二、三日以内には来ることができない、と言った。』(商館日記199p)
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この計画は、今日の我々から見れば恐ろしく無謀である。当時の英海軍は長いナポレオン戦争で鍛え抜かれており、オランダ人二人を拉致したときも小艇のチームが統制の取れた機敏な動きを見せている。戦塵にまみれた彼らが易々と図書頭が描くシナリオを許すとは思えない。一方、図書頭は実戦の経験が無い。無いどころか、1638年の島原の乱以降、170年間も日本には戦闘の機会も無かったのだ。幕府の官僚組織の中でその優秀さから長崎奉行に抜擢されたエリート旗本だけに、与えられた役目への責任感と幕府の権威を守らねば、という意識は極めて強烈である。その彼が拉致を許したままいたずらに時間が過ぎていくことに耐えかねて考え出した窮余の一策だった。
結局この案は実施に移されなかった。ドゥーフの意見が奉行に伝わったのかどうかもわからない。不思議なことに、この無謀な策は通航一覧のどこにも見当たらない。一切表に出ておらず、唯一商館日記だけが伝えるのみである。
その謎を解くキーワードは「秘書官」である。「長崎オランダ商館日記4」の2章注12(327p)に「オランダ人は家老を一等秘書官、用人を二等秘書官と呼んでいる」とある。だがドゥーフの商館日記の原文にはこの秘書官が一等二等とは記されず、ただ「秘書官」とだけあるという。
一等秘書官なら、上條徳右衛門である。二等秘書官なら、用人の木部幸八郎である。図書頭はこの二人のうちのどちらをフェートン号に派遣し、失敗したら腹を切れ、と命じようとしたのか?
ドゥーフのいう一等秘書官(家老)の上條徳右衛門(ただし通航一覧にも崎陽日録にも上條を家老とした記述は無い。崎陽日録に『広間用人上條徳右衛門』とあるのみ)はこれまで見てきたように長崎奉行所と町年寄以下2千人の地役人を指揮し、異国人上陸の報を聞くと槍を持って単身飛び出ていくよ言うな豪胆な武士である。彼の存在無くして全体の統制は出来ない筈だ。それが上條徳右衛門をこの自爆的な任務に選ばなかっただろうという理由の一つになる。彼を選ばなかったはずの理由がもう一つある。本来これはずっとあとの章で取り上げる予定だったのだが、ここで簡単に紹介しておく。オランダ人二人が解放され、水食糧の補給を受けたフェートン号が驚くほどの早業で出港した後、図書頭が上條徳右衛門をねぎらって「その方の骨折りは見事だった。江戸に帰れば御持御先手(という役に)栄進するだろう」と語ったのが記録されている。これは何を意味するのか。上條徳右衛門は図書頭の家来ではなく、幕府が図書頭の補佐役としてつけた人物ではないか、と思われるのだ。
もしそうなら、このような無謀な役目を彼の有能な右腕であり、しかも家来ではない人物に命じるとは思えない。家来である用人の木部幸八郎に命じるのが妥当と思われる。
ではなぜ当時の資料を丹念に収録した「通航一覧」にないか?用部屋日記にも書かれていないか?
奉行と「秘書官」(上條と木部)の間の密談だったのだろうか?西役所の奥まった図書頭の居間での会話だろうか?だが作三郎が聞いてドゥーフに伝えたほどだから居間とは思えない。とすれば、ある程度の人数には共有されていたと思えるのだ。
とすると、上條の作為でこのことを無かったことにした可能性が高い。この気配りの出来る人物は、書記役の斧生が混乱の極致にあった奉行所内を走り回って記録を忘れた事実を次期奉行への引渡日記から削除したり、検使二人が「オランダ船に間違いない」と誤認した注進状を本人たちの嘆願で同じく引渡日記から削除するなどして、彼等の名誉を守る心配りをしている。
この時もこれが記録に残ると図書頭の名誉に関わると判断したのかもしれない。あるいはこの作戦を言い出した図書頭を観察して「妄言」と思ったのかも知れない。
実は彼はフェートン号が水食糧野菜などを得て風のように去ったあと、上條が図書頭をやんわりと諌めるくだりがある。それに対し図書頭は上條の働きに感謝し、江戸に戻ったら「御持御先手」への栄進があるぞ、と述べたのだ。
上條の気配りでこの作戦は表面化せず、ドゥーフの日記だけが記録して後世に残したエピソードとなったのだろう。
このことでもわかるように図書頭は血が頭にのぼりやすい性格だったのは間違いない。検使二人に「オランダ人を取り戻すまで、生きて帰るな!」と命じた時、中山作三郎が上條の袖を掴んで「卵を岩にぶつけるようなもの」と必死で止めようとした件もある。
だが、この命令が実行されるには至らなかった。
その時に、検使らと異国船に赴いた小通詞末永甚左衛門が奉行所に帰って来たからだ。
なんと彼は拉致されたオランダ人の一人、ホウセマンと会って、手紙を託されたと言うのだ。
これでようやく事態が新たな局面に動き始めることになる。