奉行所西役所へ、西泊と戸町の両御番所に派遣された山田吉右衛門が血相を変えて駆け戻った。両御番所、合わせて千人の佐賀警備兵が駐留している筈が「もぬけの殻」だというのだ。オランダ人拉致の報で、鉄砲組20名を率いて花井常蔵とともに両御番所に配備された二人だったが、同道した花井常蔵は御番所に残り、山田だけが急報のため帰還したのだ。
「両御番所合わせても50人にも満たない人数(兵数)で、石火矢(火砲)の準備もできていない」(ヘンドリック・ドゥーフ著「長崎オランダ商館日記4」198p。以下「商館日記」と略す)との報告は、混乱の極致にあった西役所にとって、恐るべき衝撃だった。松平図書頭の頭は真っ白になったに違いない。 西泊と戸町の両番所は長崎港口を北と南から挟み込む要所に位置している。長崎港防衛はこの両番所に常駐する千人の警護兵力が柱である。奉行所配下には2千人の地役人がいるが、これは大多数が奉行所や長崎会所(貿易機関)の運営に携わる町民で、町の風紀取り締まりの警察力の機能を持つ町使散使や唐人番は合わせて百名程度で、しかも実戦能力などない保安要員である。奉行所西役所に避難したオランダ商館長ドゥーフは『武装できる下検使(奉行所の下級役人/足軽)の数はほとんど150名を超えないものであると聞き及んだ(長崎オランダ商館日記4 198p)』と記している。 かつて正保4年(1647年)に禁を破って交易再開を願って長崎に入港したポルトガル使節の2艘のガレオン船を封鎖したときは、福岡藩450艘熊本藩と佐賀藩それぞれ320艘をはじめ1,500艘の船と5万の大軍が長崎に集結したのである。それを図書頭は当然承知している。それから太平の160年余が過ぎた今、図書頭には動かせる兵力がほぼ皆無と判明したのである。 ドゥーフは「日本回想録」で、「この時奉行は自分の命運を悟っただろう」と書いているが、これはオランダ帰国後に書いた回想録であり、奉行が切腹した結末を承知しているうえでの記述である。この時の図書頭の心中を図れば、「しまった!」という思いであった。「なんで御番所の駐留人数を確認しておかなかったのか!」というあまりにも苦い思いであった。図書頭は奉行としての責任を果たすことに懸命で、自らの運命に思いを馳せる余裕もなかっただろう。 着任後、前任の曲渕甲斐守景露とともに両御番所を現地視察したきりで、多忙な毎日の中で目配りできないことが多過ぎた。その一番の付けがこれであったか、と今さら歯軋りしても遅すぎた。 新事態に直面した松平図書頭は憤怒の形相であったろう、異国船来航の第一報時に「大村藩は(長崎港周辺の)領内の警備を固めよ。唐津藩には長崎見回りには及ばない」と出した指示を変更し、佐賀福岡大村藩への即時出兵を命じた。その中には佐賀藩支藩であり、長崎からわずか25kmほど(直線距離)の諌早藩も含まれる。 二人のオランダ人が拉致されて直ちに長崎を所定の警戒配置につけたが、異国船を出発した3艘の港内遊弋を許し、オランダ人奪還の目途も立たないうちに両御番所が空と知って、図書頭は激しい焦燥に追い込まれた。 このあたりの展開を的確に我々に提供してくれるのは、ドゥーフの商館日記である。午後7時ごろ、異国船から発した3艘の小艇が港内を徘徊しているとの報に、図書頭は出島のオランダ商館員全員に退避命令を出した。そのため、抜群の記憶力と正確な記述力を持った人物が混乱の極みにあった奉行所西役所に避難して、目撃したことや聞き及んだエピソードが商館日記に残されることになった。 ドゥーフが3艘の小艇が異国船に戻ったと知らされたのは午後10時ごろである。 日記によれば、図書頭からオランダ人奪還を命じられた検使2名(菅谷保次郎/上川伝右衛門)が通詞とともに異国船を目指して漕ぎ出している。奉行から拉致されたオランダ人を奪還するまで生きて帰るな、と叱責された二人だったが、異国船の小艇3艘が港内に出現した騒ぎで、ようやくこの時刻になって出発できたのだ。その詳細は、別の章で詳述する。 大村藩などに出動を命じた図書頭はこのまま西役所で座視しているにはいかぬ、と市中見回りの出陣を命じた。日記では午後11頃とある。その命を受けた奉行所の様子は用部屋日記には記述されていない。ただ、 『夜四つ半刻頃 御奉行大波止、五島町辺りの警備場所の見回りに出馬、自身御黒印守護』と簡潔に記述があるのみ(『通航一覧』412p)である。奉行出馬となれば五十名を軽く超えるであろう行列陣形その他の準備も大変である。恐らくは奉行所内の混乱に拍車をかける出馬であったろう。御黒印とは、将軍印(黒印)が鮮やかな長崎奉行任命状だと思われる。異国人上陸の噂のあった大波止五島町の巡回に、将軍の任命状を掲げての行列立ては、いかにもエリート旗本で律儀な図書頭らしいとも言えるし、展開している警護の者どもに将軍の威光を汚すな奮戦せよ、との無言の圧力でもあったのかも知れない。だが何か成果があったか、というとそれは無いようだ。居ても立っても居られない図書頭にとっては、「出陣する」という気迫を示したかったのだろう。前章(39 襲撃6幕 混乱)でも見たように西役所玄関の玄関番が誰もいなくなったような、恐怖心にとらわれ浮足立った地役人や一部の家来に武将としての立ち居振る舞いを見せたかったのであろう。 出馬してほどなく図書頭は西役所に戻った(商館日記198p)が、その頃町年寄たちが武装した下検使(足軽級の奉行所下級役人/地役人)と共に、空っぽになった出島と唐人屋敷並びに米蔵の見張りにつき、老外国人世話掛(2名の出島(町)乙名のひとりか?出島乙名については「長崎地役人総覧」旗先好紀150p参照)が加農砲(大筒、キャノン砲)を携えて大波止の守りに立った、との通知を受けている。長崎の街は今や最高幹部始めとした総動員体制で警備に立っている状況である。 図書頭が西役所へ戻っても、再出発した検使からの報告はまだ届いていなかった。夕方にオランダ人が拉致されてから、もう真夜中である。責任感が極めて強い図書頭にとっては「御国の大事なお預かり人」であるオランダ人を部下の油断と臆病さで抵抗もしないまま奪われ、千人を常駐させている筈の佐賀藩の備えは空っぽのため武力によるオランダ人奪還の目途も立たない。いたずらに時間が経過するばかりであった。焦燥が極限に達した図書頭ははたから見れば突拍子もないと思えることを思いつく。 大通詞中山作三郎が12時ごろにドゥーフを呼んで伝えたのは、 すなわち、彼、秘書官は舷側に行き、そして柔和な態度と丁寧な言葉をもって、乗船しようと試みなければならない、続いて彼は船長を訪ねる、 そして彼に極めて友好的に、また丁重に話しかけ、そして同人の来航の理由を尋ねよ、そしてもし彼が何か要求すべきことがあれば、彼がそれを言うように仕向け、その後秘書官は、もしそのようにして二人のオランダ人を解放するならば、彼〔船長〕の要求は満たされるだろうと言うように、そしてもし船長が、それをしようとしないなら、その場合は、秘書官は不意に広刃の刀をもって船長の首に切りつけ、そして自らは直ちに腹を切れ、と。 作三郎は私に、秘書官は行く決心をしていると言い、そして私の考えを質したので、私は次のように言った。すなわち、そのような狂気じみた攻撃は、私の考えでは、ほとんど利益がないだろう、というのは、そうすれば船長も秘書官も死ぬことになるし、目的を達成することにもならないからである。それよりも大勢の武装した兵員を船上に来させて、それによって強行しようとするほうがもっと良い方法だ、と。しかしそれに対して作三郎は私に、兵士たちがおらず、また二、三日以内には来ることができない、と言った。』(商館日記199p) この計画は、今日の我々から見れば恐ろしく無謀である。当時の英海軍は長いナポレオン戦争で鍛え抜かれており、オランダ人二人を拉致したときも小艇のチームが統制の取れた機敏な動きを見せている。戦塵にまみれた彼らが易々と図書頭が描くシナリオを許すとは思えない。一方、図書頭は実戦の経験が無い。無いどころか、1638年の島原の乱以降、170年間も日本には戦闘の機会も無かったのだ。幕府の官僚組織の中でその優秀さから長崎奉行に抜擢されたエリート旗本だけに、与えられた役目への責任感と幕府の権威を守らねば、という意識は極めて強烈である。その彼が拉致を許したままいたずらに時間が過ぎていくことに耐えかねて考え出した窮余の一策だった。 結局この案は実施に移されなかった。ドゥーフの意見が奉行に伝わったのかどうかもわからない。不思議なことに、この無謀な策は通航一覧のどこにも見当たらない。一切表に出ておらず、唯一商館日記だけが伝えるのみである。 奉行と「秘書官」(上條と木部)の間の密談だったのだろうか?西役所の奥まった図書頭の居間での会話だろうか?だが作三郎が聞いてドゥーフに伝えたほどだから居間とは思えない。とすれば、ある程度の人数には共有されていたと思えるのだ。 この時もこれが記録に残ると図書頭の名誉に関わると判断したのかもしれない。あるいはこの作戦を言い出した図書頭を観察して「妄言」と思ったのかも知れない。 このことでもわかるように図書頭は血が頭にのぼりやすい性格だったのは間違いない。検使二人に「オランダ人を取り戻すまで、生きて帰るな!」と命じた時、中山作三郎が上條の袖を掴んで「卵を岩にぶつけるようなもの」と必死で止めようとした件もある。 だが、この命令が実行されるには至らなかった。 その時に、検使らと異国船に赴いた小通詞末永甚左衛門が奉行所に帰って来たからだ。 これでようやく事態が新たな局面に動き始めることになる。 |
||
|