39 醜態

その挙げ句に驚天動地とも言える想像もつかない事態が起きたのだ。菅谷保次郎と上川伝右衛門は幕府派遣の手付出役(与力)6人のうち筆頭の2人であるが、太平の世の江戸幕府と長崎奉行所での勤務で白刃を振るわれる修羅場など一度も経験したことがなかったに違いない。いきなり異形の男たち十数人が短銃と抜き身のサーベルを振りかざしてオランダ委員の船に乗り移ってきた時に、その驚愕と恐怖は泡を食って海に飛び込んだ漕ぎ手たちと同じであったろう。この時検使の役船とオランダ委員の乗る船がどれほど離れていたかはわからないが、正気であれば役船に備えてある槍を携えてオランダ委員の船に飛び移り、襲撃者たちを槍で突き立ててオランダ委員2人を守るべきであった。槍を手に出来なければ腰の大刀を抜刀して襲撃者の1人でも2人でも切り捨てるべきだった。例え短銃で撃ち殺される羽目になってもそれが彼らの任務だったのだ。それが出来なければ襲撃者たちの後を追い、救出の手立てを尽くすべきだった。だが何も出来なかった。海上での作業ということで、恐らく腰の大小の刀は柄袋(つかぶくろ)に収まっていたのではないか?槍持ちも槍を鞘袋に入れていたのだろう。太平楽に慣れて咄嗟に反応できる体制はまるでなかったと思われる。それどころか菅谷保次郎と上川伝右衛門は茫然自失という状態であった。

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「崎陽日録」10pはこう伝える『(現代語訳)検使の二人は色を失い、連れて行った紅毛人二人を奪われ、船々も散り散りバラバラとなり、乗船も漕ぎ手たちが腰抜けて退かせることも出来ず、どうしようもない時に曳舟の役に出ている6人の漕ぎ手の小舟が通りかかったのでこれ幸いと呼び止めて乗り移り、検使二人は供を見捨てただ二人槍を捨て、西泊御番所へ急ぎ、程なく着いて番頭への面会を伝える』。なんと検使2人は供を捨て槍も捨てて現場を逃げ出したのだ。自分の役船は漕ぎ手たちが腰を抜かして動けない。たまたま出動していた6人漕ぎの曳舟に乗り移って、現場から一番近い(4km)、港口そばの西泊御番所(佐賀藩警備部隊の駐屯地)にようやくのことで駆け込んだのだ。とても武士とは思えない行動で、海に逃げたり腰を抜かして漕げなくなった水主(漕ぎ手)となんら変わりない。事件現場で指揮もせず、供まわりも見捨て槍も捨てて、2人だけで逃げ出したのだ。「崎陽日録」は続ける『番頭は病で会えず物頭に会い、異国船が現れ旗合の紅毛人二人が奪い取られた。異国船は未だ錨を下ろしていないので港内に乗り付けることもありうる。早々に人数(軍勢)を手配されよと命じ、西泊御番所を乗り出て供を連れていないので大波止に上陸することを憚り、江戸町の上り場からすごすごと上陸して庁に出る』とある。辛うじて西泊御番所で事件勃発とこれから港内侵入の恐れがあるから準備せよ、と命じたのはいいが、実はこの時西泊御番所は当番の佐賀藩は規定の警備人数が揃えておらず空っぽに近い状態であった。だが上の空の2人はそれに気がつく余裕もない。しかも気がつけば供回りも役船に置き去りにして2人きりである。みっともないので正規の波止場の大波止ではなく、奉行所(西役所)下の江戸町の乗船場から人目を避けて上陸し奉行所へ出頭したのだ。これを形容するなら夢遊病者という言葉が適切だろう。オランダ人が襲撃された時、「彼等を護って闘う」という覚悟と胆力を持たぬまま任務につき、我に帰れば供回りも見捨て槍も捨てた自らの不甲斐なさにようやく気がつき、人目の少ない乗船場からすごすごと奉行所へ帰りついたのだ。復元図挿入その情けなさ、いかばかりだったか。しかも「通航一覧」401pによれば、襲撃直前に沖合から奉行所へ検使2人は「紅毛商船に相違無之、旗合も相濟候」という届書を送っているのだ。この届書は事件直後に2人の泣訴により正式文書から削除されたという。ペリュー艦長が襲撃を命じたのが午後5時30分。その混乱から西泊五番所へ行き、そこから江戸町で上陸するまで2時間以上はかかっただろう。この日の日没は18時2分。すっかり日は暮れていた。ペリュー艦長が待ち望んだ満月はオランダ人を時発見した前後の17時13分に東に上がった。検使2人が人影を避けて上陸をした頃、満月は2人をあかあかと照らしていた筈である。