ペリュー艦長が3艘の短艇を率いて長崎港に降り立ったのは午後7時である。この日の長崎地方の日没は18時02分、中秋の名月である満月が出たのは17時42分。天候は晴れであったが、夕日の微かな残影も消えている。満月の明かりはあるが、西役所の望楼から高性能のオランダ渡りの望遠鏡で監視していても、5kmほども遠いフェートン号から短艇が下されていく作業を視認することは難しかったろう。だが、櫓(ろ)で漕ぐ和船と比べて、オール(櫂)を使う方が効率はいい。しかも体格の良い鍛え上げた水兵達が短艇の両舷合わせて20人ほど、リズム良く漕ぐので彼等は速かった。現代のボート競技の男子8人乗りエイトだと世界記録は時速約22.5kmだが、その2/3としても時速15kmである。この速度なら5kmの距離は20分、つまり3艘の短艇はフェートン号を出発して20分後には出島や大波止界隈に出現したのだ。しかも19歳ではあるが生まれながらの豪胆な戦士であるペリュー艦長は敵地であろうと夜であろうと一切気にかけなかった。もちろんカロネード砲(近接戦闘用の散弾砲。短艇への積載訓練は東シナ海で繰り返して来た)に加えて全員が短銃や長銃、サーベルで武装している。彼等は出島の水門(オランダ船の荷を陸上げする所)のすぐそばまで近づき、大波止を過ぎて大黒町あたりから港の最奥の浦上川河口までオランダ船を探し回って、ついには大波止対岸の稲佐郷にペリュー艦長自らが上陸までした。
満月の月明りで彼等の行動は大波止の警備陣を始め、港に面した町々から容易に目撃された。たちまちのうちに火の見櫓で警鐘が打たれ始め、それは燎原の火のように長崎惣町七十七町に広がっていった。出島の南西方向僅か300mのところには唐船が密集して係留しており、彼等は間近に異国人が乗り組む武装した短艇を見て、チャルメラを吹き鉦(かね)を打ち鳴らすので、長崎中がたちまちのうちに恐怖の坩堝(るつぼ)と化した。人々は恐れおののき、家財を大八車に積み込んで非難を始め、街中が大騒動となった。その様子を「通航一覧」(410p)は次のように伝える。
『唐船、船毎に煙を焚き唐館に合図のフウフラを吹きたて唐館でも同じく合図の大鉦を打ち援兵数艘漕ぎ出し(諸国大名廻船は船火事と思った)異国船から火を掛けられたと思い、上陸の者ども一同船船に集まる。市中はオロシャ乱入と思い込み山野に立ち退きすべしと男女が道々に溢れ海陸とも一時に騒ぎ立て人や物音大波の動くが如し。稲佐郷においては夫人の乗る船が捕らえられ北瀬崎(長崎港奥、浦上川河口に近い)では漁師が捕まり深堀(長崎港外の南、佐賀支藩)では佐賀の足軽が捕まり食物なども残らず奪われ梅香崎(出島のすぐそば)辺りの水門を打ち砕いた』
と言う諸説俗説が乱れ飛んだ。”奪った捕らわれた”と言う話はデマが多かったが、市民の恐怖心を大いに煽っただろう。
異国船から発した端船3艘が港内を走り回っていると言う報告は、騒ぎが起こる前に西役所に届いた。これが奉行所内のそれまでの混乱にさらに輪をかけた。高鉾島脇に停泊したフェートン号から発進した端船3艘が港内に入るには西泊と戸町の御番所の前を通過することになる。長崎港口の神崎(こうざき)/女神(めがみ)間が500mで一番狭く、西泊番所と戸町番所の間はやや広がっているが、それでもたかが800mほどである。両番所揃って見落とす筈が無かった。
「なぜ異国船の通過を許したのか?すぐに関傳之允(佐賀藩聞役)を呼べ」と松平図書頭は激昂した。それでなくても松平図書の気がかりはいつまでたっても佐賀の軍勢が出動してこないことであった。そこにこの体(てい)たらくである。松平図書頭はもう一つの警護役の福岡藩(今年は非番ではあるが少数の警護陣が詰めている筈である)の聞役にも招集を掛けた。「崎陽日録」はその緊迫した場面を以下のように伝える(12p)
『異国船が港内に侵入し、唐船3艘を襲ったとの急報を受け、図書頭は一旦奥へ入り、高島四郎兵衛を呼び出して警備場所を指示した。その指示を上條徳右衛門が書き取り、書面にして高島四郎兵衛に渡した。中村継次郎(勘定)や用人木部幸八郎らもこれを受けて行動を開始した。人見藤左衛門(勘定)と松本佐七(普請)は港内の巡視に派遣された。
諸家たちが書院に呼び出され、非常事態であるため、国元へ急報するよう命じられた。船や人数(軍勢)も提供するようにとの指示があった。佐賀聞役と筑前(福岡)聞役には、人数増援を国元へ早急に伝えるよう命じられ、唐津の関次左衛門には、状況に応じて軍勢を派遣する可能性があるため、心構えをするようにと言われた。
両組と唐人番などが呼び出され、この状況で頑張り、手柄を立てるようにと激励された。再び両家(佐賀と福岡)の聞役が呼び出され、以前からの想定通りに警備の軍勢を配置し、焼き打ちに支障がないよう準備するようにと指示された。
紅毛人2人を捕らえたまま出航させることは避けるべきであり、妨害の手段を取るべきである。その準備が整わないまま出航する場合は、船を打ち壊すべきとされた。
用意が整い次第、図書頭が出馬するとされており、その後、両人(佐賀と福岡の聞役)は退出した。
山田吉左衛門と花井常蔵の2人は、両御番所へ行き、直ちに人数を準備し、石火矢の準備を行うよう指示された。』
ここで注目しておきたいことは、①高島四郎兵衛への警備場所の指示、②幕府直轄で、奉行所の監査役でもある岩原目付役所の中村継次郎や人見藤左衛門などを迅速に指揮下に置いた、③両組(町使と散使。いずれも地役人の警察官。町使は幹部級で50人、散使は巡査クラス。「長崎地役人総覧」から)と唐人番(唐人屋敷を取り締まる地役人20人)をすぐに動員した、ことで非常時の動員体制が出来ており、それに準じて発令されたと見るべきである。フェートン号の襲来は不意打ちであったが、魯寇(レザノフ来訪時の日本側の欠礼に対して北海道などでロシア船が騒動を起こしたこと)を警戒して奉行松平図書頭自らが動員体制を作っていたことである。それについては既に31章で論考しているので、ここで採録しておこう。
“最後に松平図書頭の事前の努力が実ったことを紹介しておこう。それは非常時が勃発した際の長崎の街の動員体制を作ったことであった。再び大井昇(「 フェートン事件前後の長崎警備についての新見解」)によれば、『フェートン号事件が起こった直前に、 ロシア船来襲を想定し、代官町年寄による地役人の総動員体制が定められていた』というのだ。これはのちの章で紹介することになるが、フェートン号襲撃で大混乱の中、松平図書頭の指令で市内警備の態勢は着々と進んだ。これについて注目されることは少ないが、書き留めておきたい。”
このあとに奉行所に避難したオランダ商館長ドゥーフがその日記(198p)に『奉行所においては、すべてが極度の混乱と狼狽の状態にあった』と書いているが、それはフリートウッド・ペリュー指揮するフェートン号のオランダ船探索が迅速で、奉行所の対応が後手後手にまわったことが原因であり、ただ右往左往して無能さをさらけ出したというわけではない。
この時点で、山田吉左衛門と花井常蔵の2人が西泊と戸町の両御番所へ「人数動員と砲撃準備」の確認(督戦と言うべきか)に向かったことにも留意する必要がある。
これはフェートン号の3艘の小艇が両御番所前を通過して港内に侵入したことについて松平図書頭が「御番所の者どもはどういうつもりでこの数艘も御番所前の通過を見逃したのか。けしからん、早々に召し取れ」(用部屋日記「通航一覧」)が激怒したことから両御番所へ山田と花井を派遣したものである。これから推量されることは、この時点まで松平図書頭を筆頭に奉行所側では両御番所には定数の警備陣が配置されている筈と思っていたのだ。だがフェートン号出現以来、聞役関傳之允の対応すべてが妙に動きが鈍い。佐賀の動きが変だとは薄々感じ始めていたところに、3艘の小艇の御番所前の通過を見逃すという重大な失態まで起きたのである。だがこの時点ではその原因がわかっていない。
松平図書頭はまたオランダ人の安全を確保するために奉行所への避難を命じた。律儀で責任感の人一倍強い松平図書頭は、出島のオランダ人を「国家の大事な預かり人」と認識していて、この立場は終始揺るがない。避難の顛末を商館日記で見てみよう。
『年番大通詞が来て、三艘の武装した小船が湾内にあり、そのうちの一艘は、われわれの島〔出島] のすぐ近くにある大黒町に着岸したと言って、われわれ一同直ちに出島から退避せねばならぬとの命令をもたらした。そのとおりに私は残りの職員たちとともに、朱印状の入っている樟木の箱と会社の銀細工(これがわれわれが持参することの出来たすべてであり、然り、われわれの衣類さえ何も持参できず着のみ着のままである。)を持って奉行所へ逃げ込んだが、時ははや七時であった。私は直ちに奉行のもとに案内されたが、見れば奉行は甲冑で身を固めており、そして私に次のように話しかけた。 すなわち、「ご安心ください。ここにいればあなたには何の災難も起こりません、捕えられたオランダ人たちを、私はあなたにお返しすることを約束します」と。 私はそれに対して奉行閣下に謝意を表したが、その後、われわれは大通詞作三郎によって小部屋に導かれた (奉行所においては、すべてが極度の混乱と狼狽の状態にあった)。』(「長崎オランダ商館日記 四」197p)
崎陽日録の描写や商館日記の記述は淡々と事態の推移を述べているが、ドゥーフの言う「極度の混乱と狼狽の状態」は「通航一覧」を丹念に読めば、実態が浮かび上がってくる。非常事態時の人間の侠気と怯懦が浮き彫りになってくるのだ。
長崎の街は恐怖心からデマと虚言が乱れ飛び、「出島に押し寄せ水門を打ち砕き館内を荒らした」、ついには「異人ども大波止に上陸し(奉行所)御門前に押し寄せた」という事態になる。これを召し取るため上條徳右衛門自らが出動した。その際の生々しい人間ドラマが用部屋日記に書き残されている(「通航一覧」410p)。
『異国船異人大波止に上陸し只今御門前に押し寄せたと注進あり 即刻召し捕らえよと上條徳右衛門が出る
但しこれは勝手方(台所か経理)表の方が同時に注進で、玄関当番田中直助も見当たらず、医師梅栄が呼び立てたので対面所より注進のため上條徳右衛門は駆け込み、奉行は小具足を固め対面所まで駈け出されたので、異国船異人門前に押し寄せました、構わぬ召し取れ、佩楯を叩き手柄を上げよ手柄を上げよ、と申されたので玄関より白洲を通り素足で小屋に引き取り陣笠を着用 平八に「槍を持て」「伴蔵、火の元に注意して留守番せよ」と申し捨て出たところ伴蔵が槍を持って来たので、お前はなぜ来るのかと叱ったところ留守は老人に任せます、私はお供します、気持ちよく人を切り捨てられるのは今です、ぜひともお供いたしますといって引かない 年行司林八右衛門は異国船異人は短筒で武装しております、素肌のご勝負は思慮分別がありません その上両組(町使散使か?)の一人も従えず 暫くお控え(お待ち?)くださいと袂にすがり後ろに引くので、その方は参るに及ばず、危急時だから供もいらない、と門を開けさせ外へ出るとすぐ門を閉め、槍を持たぬため門を再び開けさせると八右衛門伴蔵二人とも門を出たところ石本幸四郎、伴與一兵衛、伴長十郎と名乗りお供いたしますと言うので案内せよと言っていると向こうから数多くの人の気配、先頭には猩々緋の覆いをかけた先箱(さきばこ)のように差し上げた赤い物を一対所持して一散に走って来た これは異国船異人と見て槍を取って構える、と大通詞中山作三郎が大声で「異国船異人乱入したので紅毛人をお救いください」と言うので先落附門(大門に付属する人が通れる小門か?)明け表用部屋に通すよう指図して、すぐに大波止へ行ったところ薬師寺久左衛門が出迎え、ここへは上陸しておりません、大黒町辺りに出た、というので直ちにそこへ行くとそこにもおらず、北瀬崎に行ったというので直ちに行ったところ船は稲佐郷方面に急ぎ去った、と言うので後を追い抜き本船まで行けば?紅毛を取り戻せる 一同安心と船を出すように捜索したがここは港の末で釣り船のような小舟ばかり 柁子(漕ぎ手)も見当たらず、その上通詞もいないので(異国船異人と)話も通じない ご出船してはいけませんと言うので誠に手持無沙汰、無念ながらそのまま引き上げ、大波止に立ち寄り石火矢を確認して即刻引き取った』
異人が押し寄せたというので松平図書頭は「手柄をあげよ」と佩楯(鎧の太腿から膝の具足)を叩いて士気を鼓舞し、家老の上條徳右衛門自らが陣笠をかぶって(この時は奉行所に詰めているものは既に鎧を着用している)出動しようとすると玄関当番田中直助(地役人か?)は持ち場を捨てて見当たらない。伴蔵(松平図書頭か上條徳右衛門の家来?)に留守を命じると「留守は老人に任せます、私はお供します、気持ちよく人を切り捨てられるのは今です、ぜひともお供いたします」といって引かない、と男気を見せる。
一方で年行司林八右衛門(町年寄配下で町政全般を担当する年番か?)は町民ながら奉行所No2の上條徳右衛門の袂を掴んで「短筒を持った異人」に両組(巡査クラス)も連れず挑むのは無謀と必死で押しとどめる。「お前は供をするな」と命じたが林八右衛門と健蔵(伴蔵の間違いか?)は供をする。(奉行所の)門を出ると石本幸四郎(総町乙名頭取。地役人最高幹部の一人)や伴與一兵衛、伴長十郎がお供を、と申し出る。家老職のお供はこの記録通りならたったの5人である。
どうだろうか?まるで歌舞伎の一幕のようなドラマではないか。極限状態での、事実ならではのフィクションでは味わえない緊迫感である。
そこへ怪しい一隊が現れるので「敵か?」と身構えるとこれこそ退避命令で出島から避難してきたドゥーフ以下のオランダ人の一行であった。実は出島から出たオランダ人たちを人々が異国船の異人たちと見間違えて、騒動とデマはさらに大きくなっていたのである。
上條徳右衛門の一行は大波止に行き、そこを警備する薬師寺久左衛門に「ここではなく大黒町のあたりに上陸したらしい」と聞き、大黒町からさらに北瀬崎まで行くが、とっくに対岸の稲佐方面へ去ったとの情報で船を調達して異国船へ漕ぎだそうとしても小舟ばかりで漕ぎ手も見当たらず通詞もいないので諦めて無人手薄となった奉行所へ引き上げるのである。
その時のことである。一行は、ぼんやり歩いている吉仲勇蔵と出会ったのである。
まず上條徳右衛門の用部屋日記に「異国船異人バッテイラに乗りおよそ三十人ほど乗り組み乗り回したので各所から注進矢の如し 海陸大騒動なので吉仲勇蔵(松平図書頭家来。給人)を佐賀藩蔵屋敷役人にバッテイラを召し捕らえるよう早使として遣わす」(「通航一覧」410p)とある。これだけを読めば吉仲勇蔵は一目散に佐賀屋敷に走った筈であるが、なんとこの吉仲勇蔵があてもなく町中を歩いていたのだ。
確認しておくがこの時は、人が捕らえられた、食物が奪われた、出島の水門が打ち砕かれた、などの流言飛語が乱れ飛び恐怖心にかられた人々が一斉に町中から逃げ出している最中である。その時に吉仲勇蔵は異国人が上陸したという噂で持ち切りの大黒町の佐賀屋敷への伝令を命じられたのである。
「道で吉仲勇蔵を見かけたのでどこへ行くのかと聞いたところ驚いた様子で咳払いするのみで答えない」(「通航一覧」、つまりは異人が上陸した辺りに行くのが怖くて任務放棄をして街をさ迷っていたのだろう。
松平図書頭の配下には医師(漢方)の足立梅栄がいる。この医師、豪胆だったようで奉行所玄関(普段の日中は玄関番5人が詰める)に人無きを見て、『この時医師足立梅栄が玄関を大音を立てて開け罵ったのは「この梅栄、医者ながら昼夜詰めて奏者役(奉行への取次役)までも勤めた。玄関を始め詰め役所に人無きはいずれも臆病という病か腰が抜けたと見える。梅栄が薬を与えようと號(叫び)たてたと言う』(「通航一覧」412p)から玄関だけでなく奉行所のいろんなところから人が消えた状態だったのだろう。
まるで予期していなかったこと、しかもとてつもない恐怖に襲われた時、人間の隠された本質が出る。勇気と恐れ、侠気(男気)と怯懦。その一例をこの章で見たのだが、それはこの章だけにとどまらず、多くの人の本質を暴いてゆく。
その時、思いがけない事態が表面化する。それは奉行松平図書頭も上條徳右衛門も奉行所内の役付きも、心中思っていたことだった。佐賀藩の動きの鈍さである。