35 襲撃 2幕 迷走

 

迷走するフェートン号 この日の正午、フェートン号は小瀬戸遠見番所の真西32kmの位置にいた。ペリュー艦長の報告書によれば、マウント・ヴァーノン号から入手した手書きの地図は極めて正確であったという。ペリュー艦長は緯度32度47分/48分で東進し五島と長崎の中間辺りで進路を南へ取った。正午の位置は緯度32度40分東経129度30分である。ここで問題が起こった。長崎港は東に見える筈なのに緑の陸地が連なるだけで、港らしいものは全く発見出来ない。ペリューは「この地域になじみのない船舶にとっての主たる困難は、オランダ人がカヴァレス(Cavalles)島と呼んでいる島(伊王島)が、(本島の)海岸に非常に接近していることから難しくなっているところの、入口を発見する困難性である(宮地正人訳)」と書いている。
長崎港は女神/神崎間でわずか500メートルの入り口しかない。しかもその外には香焼島伊王島中之島が連なり、完璧にこの狭い入り口を塞いでいる。(伊能忠敬石崎融資の地図参照) 外海からは緑色の陸地が連なっているようにしか見えなかったろう。当時人工的なランドマークが何もない状態で、この入り口を見つけるのは至難の業であった。だから手書きの地図には、長崎港へのエントリーポイントが書いてある。それによると伊王島(Cavalles)の北を東進して小瀬戸番所のすぐ南に浮かぶ樺島、そして高鉾島の南を過ぎれば長崎港口に辿り着く。だがペリュー艦長達は当初伊王島を特定出来なかったようだ。マウント・ヴァーノン号から入手した手書き地図にストックデールが測深データを記している。

 

それによると三ツ瀬という岩礁(今は海釣りの名所のようだ)と端島(世界遺産軍艦島)の中間(両島の距離2km)で進路を真南に取り、野母半島の南端を通過して千々石湾に出たようだ。恐らく野母半島南端を高鉾島と勘違いし、そこを通過すれば長崎港が見えると思ったのだろう。だがそこには長崎港はなく、広い海原と島原半島に聳える雲仙岳が遥か彼方に見えたのだった。


ここで航路の間違いを悟り、引き返してようやく伊王島を特定し、その北端を廻った。ペリュー艦長の報告書にもストックデールの特別手記にも、長崎港口発見の難しさを口を揃えて書いている。ストックデールの特別手記によれば「その入口は、非常な苦心の末見付かった」そうだ。もしかしたら長崎港は見つからないのでは、とペリュー艦長の心中には不安が掠めていたかもしれない。
眼下の海辺を復行したこのフェートン号の行動は、野母遠見番所からは丸見えだった筈である。だが何の記録も残っていない。10人全員が出役して沖に出ていたか、あるいは誰かがいたとしても出役で船は出払っていて連絡の方法も無かったろう。
沖取締遠見番 フェートン号に接触 朝の一報の後、真っ先に外海に出たのは吉川次郎平と児島唯助の2人が乗る沖取締遠見番の船であった。「崎陽日録」によれば彼らはこの頃佐賀領鷹島(今の高島)のあたりまで足を伸ばしていた。長崎港口から10km、伊王島香焼島からさらに4kmの地点である。ストックデールが書いたフェートン号の日誌によれば午後は「Fresh Breeze and clear weather」、天快晴で疾風(風力8mから10.7m)、吹流しが真横になり海上では白波が現れ、しぶきが生じている。うねりも大きかった筈だ。そのうち隠密方盗賊方の船も伊王島辺りで合流して遠見をしていたら、南7里から8里の距離に帆影が見えた。野母半島先端から戻って伊王島を目指すフェートン号である。以下、「崎陽日録」によれば、それを目指して沖取締遠見番の船の水主たちが懸命に櫓を漕ぐが戌亥の風(北西風)が激しく異国船には追い風こちらには向かい風で一向に前に進まない。『伊王島から2里3里のあたりでようやく異国船に接近できたがさらに風強くなり波も高くて近寄れない。そのうちに異国船が方角を変え風を横から受けることになった時風下の波が弱くなりこれを利して船にようやく寄れたが紅毛船(オランダ船)のようだが旗印もなく疑わしい。まず向こうから(規定通りに)書簡を出させようと色々と手真似をしてみたが出さないので怪しく思い、まずはこのことを急報(注進)しようとするが小舟なのでこの船を離れれば向こうは大船で順風を受けて走ればとても追い付かないので、注進は延期して心ならずもかの船に引かれて行くと伊王島から1里の沖で赤白青の大旗を掲げた。これを見て阿蘭陀船に間違い無しと出島のオランダ人から預かった横文字書簡を差し出しこの横文字に書き入れて戻す仕来り(しきたり)なので待つがいつまでも無いので度々催促すると返事を書くと手真似で答えるが何の動きもないのでさっきの横文字を返せと厳しく言うとその後は誰も出てこない。甚だ不審ながら船を離れると追いつくことは出来ないので注進も遅れることになるのだが仕方なくこの船にひかれ佐賀領の神の島その後四郎が島の沖まで来ると、伊王島に沖出の船々遠見していたがあまりにも返書が遅く不審だと隠密方の吉岡十左衛門が乗り出して遠見番の船に乗り付け、どう言う次第で返書が遅いのかと遠見番に聞けば上記のことを言うので一同船に同行してゆくと隠密方船が乗り付けた時に遠見番の船へ舳先が衝突し両船混乱して異国船に遅れを取った。順風が強く、かの船には少し遅れて進んだ』

この沖取締遠見番の生々しい状況描写は「崎陽日録」だけが収録しており、「通航一覧」には取り上げられていない。「崎陽日録」作者である丹治擧直の独自取材のようだ。沖取締遠見番は伊王島からさらに何里もの沖へ出て行くこと、隠密方は長崎港口の四郎が島あたりで遠見検分していることがわかる。またオランダ船よりも大きいフリゲート艦相手に悪戦苦闘する様子も詳細である。フェートン号の舷側は高く遠見番の船からは甲板の様子も見えないまま、波高い沖合で巨艦に翻弄されながら必死で食らいついていったようだ。当初、フェートン号は国旗を掲揚しないまま長崎港に接近した事実もわかる。また沖取締遠見番の役目として、真っ先に異国船に接触して出島のオランダ人から預かった横文字(オランダ語)書簡を手渡し、署名なり何らかの返事を貰うしきたり(プロトコル)なのも明らかにしている。そしてまた、この異国船が「旗印もなく疑わしい、(沖取締遠見番が)横文字書簡を出すと(来航船は)書き入れて戻す行動をしない」ので注進をしようとしたが(そうすれば異国船がずんずん長崎港へ向かって遠ざかってしまうので)諦めて異国船に追尾したと言うのだ。「尋常な紅毛船とは違う」と沖からの連絡が出来なかったことになる。検使とオランダ使節団はこの情報を結局知らないままとなる。
この沖取締遠見番の船が接近したことをフェートン号はどう見ていたか?日誌には記述はないが、ストックデールが書いた特別手記にわずかにこのことらしい記事がある。
『本艦が港(その入口は、非常な苦心の末見付かった)に近づいた時に、一隻の小舟が通り過ぎたが、挙動や手附きから推察して、我々が何であり、また誰であるかを知りたがっているようであった。然し乍ら、此点では、彼等の好奇心を満足させることに思い及ばなかった。それで、小舟を遣り過したまま 港内へ入ってしまった』というのだ。考えるに、沖取締遠見番は地役人であるが、この時どのような衣装であったか?職務柄、実用的な装いであったのか、ストックデール達フェートン号艦上の幹部はこれを来航船を出迎える任務を帯びた役人(Official)とは見ず、外国船に興味を持った漁師にしか見えなかったのだろう。ペリュー艦長等には長崎港口とオランダ船発見に注意が払われていたと思われる。書簡を受け取ったのが誰なのか、それがきちんと士官に提出されたのかは不明である。入国を禁じられた日本に船籍を偽装して入港する直前の艦上の緊張はかなりのものがあったろう。漁師風情?が差し出す文書など取るに足りないことと見捨てられたのかもしれない。
『伊王島から1里の沖で赤白青の大旗を掲げた』という事実も重要である。この時点でフェートン号は目前の島が伊王島であることを確信したのであろう。